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俗世の神職見習いの痰壺  作者: ひみつのみつ
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神への疑問

神について考えることが多くなってきました。

 私は神道というものに奉仕している関係上、神について考えることは多くある。


 言葉や、在り方、ほかの人はどう思っているのだろうか。


 最近疑問に思った言葉の一つ。「神は細部に宿る」という言葉だ。


 実際、神道的な考えを踏まえるなら私は、「神は全部に宿る」が正しいと思う。


 もちろんこの言葉を生み出した人間を罵倒しているわけではない。本来は大きなものばかり見るのではなく細かいところにも意識を向けその真価を見つめようという意味合いが強いものであることは理解している。


 この言葉は、細部に意識を向けてほしい職人視点の言葉か、大雑把に作った大部分をごまかすための言葉にだんだんと捉えられてしまう。細部にこだわるというのはもう前提になってしまった。細部だけでは足りないのだ。


 だからこそ、この言葉は足りないのだ。私が思うに神はすべてに宿っているのだからその全てを見て、美しいかどうか判断すべきだろう。ゆえに「神は全部に宿る」のだ。


 次によく一神教の神に思うのが総じてその唯一と呼べる神をだれが作ったのかというものだ。ただ元からそこに全能として存在するという考えはあまりに神の配慮に欠けるのではないかと思う。


 全能と呼べる神たちもその行動に矛盾や間違いがあるように多くの教本では書かれてしまっている。これは、昔の人間の想像力の欠如から来るのかもしれないが、教本の多くを書いているのはおそらく人間である。そこを理解しなければ全能の神に対して疑いを持ってしまう。


 神を信じるというのは時に盲目的に、時に想像力豊かでなければ信仰というものを長続きさせることはできないのである。


 次に神頼みについて考えたい。みんなはどんな時に神頼みをするだろうか、私は神頼みにおいて、本気のお願いというものをしたことがない。


 漠然と自分を含む人間の多くの健康や幸せを願ったりはするが、個人的なお願いをあまりした記憶はない。


 私がこう考えるのは、努力もしていない出来事で自分の願いが叶うと思っていないためである。当たり前である、そもそも認められるべきことの多くは才能やセンス、努力や発想、行動であり、神頼みでどうこうなる要素はないのである。


 ではなぜ、人の多くは神に頼むのだろうか、本当にお願いする人間ももちろん多く存在するだろう。自分のしてきたことを確認するためである。多くの努力や時間を積み重ねてきた人間に必要なのはその過程を認識することである。


 もちろん無駄な努力をしてしまうこともあるだろう。しかし、正しい努力をした人間に必要なのは自身でその道筋というものを確認することだ。


 その過程の確認の場所として神社や寺という場所はすこぶる最適ということになる。私の信仰にの意識は長く揺蕩うように存在している。


 皆様の中にも信仰を志す方がいらっしゃったのなら、是非考えることを辞めず信仰というものに向き合い続けていきましょう。

よりよい人生のために

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