ダンスをご覧ください『春を告げるクラゲ』
五年前に死んだ恋人と、水族館にいる。
「久しぶりだね」と、彼女はにっこり笑った。ふたりで水族館に来たのは、七年ぶりくらいかもしれない。そのときは当たり前のように手を繋いでいたが、今日はふたりとも自分のコートのポケットから手を出そうとしない。彼女はキャメルのノーカラーコートを着ていて、チェック柄のマフラーを首にぐるぐる巻いていた。外が寒いのもある。が、実体を持たない手は、実体を持つ手をすり抜けてしまうからなのだろう。
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五年前の夏、彼女は自殺したのだった。オーバードーズで眠るように亡くなっていたのを、家族が自宅で発見したという。そうして、葬式のあった三日後。僕のところへ突然、彼女は生前の姿で現れた。
「あっ、成仏できないだけだから気にしないで」と、彼女は言った。僕は言葉が上手く出てこなかった。かろうじて、「どうして」と口にしたが、僕は僕自身が何を聞きたいのかがわからなかった。どうして死んだのか、どうして僕の前に現れたのか、どうして成仏できないのか。どれも聞きたいようで、聞きたくないような気がしていた。
「もう思い出せないの」と、彼女は言った。「水をこぼしたみたいに記憶が薄くなっていて、あなたのこともいつまで覚えていられるかわからない」
そんなことを言われても、どうしていいか僕もわからなかった。とりあえず、彼女はまだ僕のことを覚えているらしい。
「恋人はいないの?」何回めかに現れたとき、彼女はそう僕に聞いた。
「なかなか、君みたいな物好きな人がいなくて」と、僕は答えた。
「そんなことはないと思う」と、彼女は真剣な表情になった。
ときどき、彼女は現れる。そして、突然いなくなってしまう。まるで夢だったかのように、ふっと消えてしまうのだ。
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照明を落とした薄暗い空間に、大きな水槽が置かれている。色鮮やかな照明の光が、透き通ったクラゲを反射させていて綺麗だ。壁は鏡になっていて、まるで万華鏡の中にいるようだった。でも、鏡の中には彼女だけがいない。
視線をそらすと、水槽の右端に設置されている手書きのPOPが目に入った。「クラゲのダンスをご覧ください」と、書かれている。
確かに、傘を開いたり閉じたりしながら泳ぐクラゲは踊っているようにも見える。長くて美しい触手が、ゆらゆらと優雅に漂っていた。
しかし、クラゲには脳がない。心臓もない。だから、感情もない。クラゲはただ生きていた。ただただ、生きている。そんなことを考えていたら、
「生き返りたいな」と、ぽつりと彼女がつぶやいた。
「もう遅いけどね」淋しそうにクラゲを見つめている。
僕にとっての彼女は、ずいぶん歳下の女の子になってしまったなと思った。彼女だけが永遠に、歳を取らない。
僕はポケットから手を出して、彼女の頭をすり抜けないように細心の注意を払いながら撫でた。ふわふわの柔らかな髪の感触が、思い出せるような気がした。どのくらい、そうしていたのだろう。いつのまにか、彼女の姿は前触れもなく消えていた。
ひとしきり幻想的なクラゲのダンスを眺めてから、僕は水族館を後にした。