第4話 『ピアッツァとフレンチな○○』
ビュンといった無機質な擬音が、ジュンの耳に届いた。
その音は、自分たちが惑星単位での移動の際に使用する宇宙船の重力ワープ音と似ていたと思う。
「ここは、サン・マルコ広場よ。いつも賑やかな場所なの」
フィーナの言葉を口火に、次々と周囲の喧騒が聞こえてくる。
少しだけの煙の中に茫洋と広がる、ラグーナがそこにはあった。
潮風が吹いているのか、微かに潮の香りがする。
しかし、その香りはすぐに強烈な匂いによって塗り替えられてしまった。
辺りを見ると、多くの店屋が所狭しに並んでいる。そこから芳しい匂いがふわりと漂ってきて、鼻腔をくすぐっていたのだ。
「これは……ピザ?」
とてもお腹が減っていたジュンは、空っぽの腹をさすりながら言った。
確かに、この濃厚なチーズとパン生地が少し焦げたような匂い、そしてトマトソースの甘酸っぱい芳香が決め手だった。
それらはピザのものだ。
「ほんとだ……」
シャーリーも同じ事を感じたのだろう、鼻をスンスンとやりながら驚きの言葉を呟く。
「ええと、それってこのピアッツァのこと?」
二人の会話を聞いていたフィーナに、何か思い当たるモノがあったようで。少し距離のある一軒の店を、白魚の手で指し示している。
そこは『PIAZZA』とロゴの入った看板が、高々と立つ店だった。
その店のダクトから立ち昇る煙から、確かにピザの芳香が漂っきているようだ。
「おお。コレだよ、コレ!」
驚きと嬉しさが入り混じった歓声を上げるジュン。
本能の赴くまま、フラフラとその店に寄ってゆく――否、引き寄せられてゆくが正しいだろう。
「ホログラフォンの識別によると、そのまんまピザだって!」
ピザと文字を浮かばせたホログラフォンを握り締めたまま、ケンジが熱く言い放った。
ホログラフォンの内部には、嗅覚受容体であるGタンパク質共役受容体が存在し、その受容体と機体に開いた通気孔から吸収された匂いの分子とが結合することで、人や犬以上の嗅覚をホログラフォンに与えているのだ。
そのホログラフォンがピザと提示している――これはつまり、100パーセントそういうことなのだろうというわけで。
「なら、ピザなんだろう」
一人淡々とした口調で言うレオン。
彼はあまりピザというか、そもそも食べ物にそれほど執着していないようだ。
「ちょっと、ジュン! 待って!」
基本的に思ったままの行動を起こすジュンに、まだ慣れきっていないフィーナは慌てて追いかける。
空中に銀色の髪が、宙に淡い軌跡を描いていった。
ピース組はというと、彼の突然の行動など見慣れたものなので、二人を見送りながら、ゆっくりとした歩調を保ちながら都市を進んでゆく。
「おっちゃん! それ1つ頂戴!」
ジュンは店の前に到着すると、すぐに注文をした。
だが名称をいまひとつ聞いていなかったので、客が食べているものを指差して頼んだ。その際に大きさもしっかりと確認して、数を1つと言った。抜け目ないヤツだ。
そんな彼の元気ハツラツな様子に、周りのテーブルでピアッツァを食している人たちが、はははっと笑っていた。陽気な人々である。
それなりの数の人々が食事をしているので、今は昼時なのだろう。
「あいよっ! ちょっと待ってな、坊主!」
店の奥から、力強い返事が返ってきた。
声の主であるピアッツァ屋の店主は、さっそく奥の竈に元型を敷きにかかる。
なかなかに大柄の男で、顎には見事な髭が茂っており、トックブランシェ――料理人が被る異常に長い帽子――を頭に乗せていた。
ピアッツァができるまでの少しの間、ジュンは暇になったので、ホログラフォンでピースにおいての時間を把握することにする。
何となく、この世界と元の世界の時間軸がズレている気がしたからだ。
一応、この世界で意識を取り戻してからの時間を秒刻みで数えていたが、時計の機能がホログラフォンで生きているのなら、こちらで確認したほうが良いと思われ。
「フォン――起動、今何時?」
フォン――ジュンが登録しているホログラフォンの起動メッセージ兼、名称である。
ホログラフォンには指紋鑑定による起動と、声紋鑑定による起動の二つのパターンがあるのだ。
『はい、マスター。現在は3時47分です。しかし、陽光の関係から時刻のズレが生じている可能性があります。修正いたしますか?』
彼の発した声紋の一致と、登録音声の認識を瞬時に行って、素早く返事を返してきた。機械的な感触がする女性の声だ。
どうやら時計機能は、生きていたようである。
「いや、しなくていい。ダウン・フォン」
確認した時間と、自らが数えていた時間とはほとんど齟齬がなかったので、おそらく正しい時間であると思われる。
時間は確かにズレているようだが、修正はしないほうがいいとも思い、そのままホログラフォンの電源を落とした。おそらくこの国にも時間を把握できる装置、またはラルクリアが存在しているだろうと踏んだからだ。
すでにジュンたちがユーレスマリアへ来てから、およそ4時間が経過していた。
昼食を摂っていなかったので、道理で腹ペコなはずである。
また暇だな~と感じていたところに、銀の少女が目に入った。
「はぁはぁ……。やっと追いついた。ちょっとジュン! いきなりどっかへ行っちゃダメだよ」
息を切らしながら追いかけてきたフィーナが、開口一番にジュンを叱りつける。
彼女が相当頑張って走ってきたのだろうことが、肩で荒く息をしていることで推測された。うっすらと額に汗も浮かんでいる。
いきなり走ってきたプリンセスに、客たちはジュンの時と似た和らげな笑みを浮かべている。それなりに、フィーナのこういった姿を見たことがあるようだ。
しかし民衆はハッとなって、こちらへ向けて会釈をしてきた。
羞恥心でほんのり頬を染めたフィーナも、笑顔と軽い会釈でそれらに応える。
「わ、悪い。でもゆっくり来ればよかったのに、アイツらなんかのんびり歩いてるし」
彼女が顔を上げるのを待ってから、ジュンはゆっくりと散策しながらこちらへ向かってきている三人を指差した。
いや、こちらへ向かってはいないかもしれない。
とにかく彼らは、都市の造りを興味深そうに観察しながら歩いていた。
シャーリーは都市全体を網羅している水路に浮かんでいる『ゴンドラ』と呼ばれる手漕ぎボートに興味があるようで、端へ寄っちゃあ戻り、寄っちゃあ戻りを繰り返している。
そんな彼女を朱の瞳で見守るレオンに、そしてケンジにいたってはホログラフォンで都市の解析を行っていた。「なるほど、地球にあったという『古都ヴェネツィア』に近しい環境なのか」などと呟きながら。
この王都アトラティカには小さな島々がいくつも存在し、それらを橋で繋ぐことで都市の形を成していた。
また自転車や自動車を使っている人はおらず、橋は歩行者専用で、水路はゴンドラ専用といった感じが見て取れる。
「でもあなた、お金を持ってるの?」
息を整え終えたフィーナは腰に手を当て、半眼になってジトッと見つめてきた。
なかなかどうして彼女は器用な女の子だな、とジュンは思う。自分にはできそうもない芸当だ。
「持ってるには持ってるけど、コレ使えないよな?」
一応確認のため、持っていたお金を彼女に見せる。
それはコインの中央に第2の故郷である『ピース』を、星の形として刻み込んだモノで、市場で使われている統一通貨の中でも最高値のお金であった。
「……使えないよ」
それをフィーナは少し眺めてから、すっぱり返答してくれた。
やはりか、という思いはしたが、やはりお金が使えないと聞くと残念な気持ちで胸がいっぱいになる。まあ、これは仕方がない事だろう。
「でもコレ、綺麗……」
キラキラと輝きを放っている、すごく繊細な彫刻品を、うっとりした表情でフィーナが見つめていた。
「欲しいか? 欲しいならあげるよ、それ」
深く感動した様子の彼女に、『もしかしたらこの通貨……売れる(芸術品として)?』という思いが脳裏をよぎった。
しかし彼女がそれを欲しいと言うのならば、あげてもいいかなとも思ったので、素直にそれを口にする。
(ここまで案内してくれたし、そのお礼にもなるだろ)
「え? いいの? 欲しい、頂戴。ね?」
すぐさま彼女は、欲しいという意思を示してきた。
無意識だろうか、声が甘えるような猫なで声になっている。
恐ろしい子。しかし、女の子は綺麗なモノには目がないものだ仕方がないか。
「あ、ああ。いいよ」
小悪魔チックな彼女の姿に、多少の動揺を感じながらも、ジュンはちゃんと言葉を紡ぎきった。
『うわぁ』と感嘆の声を漏らしながら、光に透かすように通貨を太陽へ向け掲げているフィーナ。
彼女の蒼い瞳が、金貨と同じぐらいキラキラと輝いていた。
「ありがとう♡」
感謝の言葉の語尾に、くっきりとハートマークが付いていたように感じるのは気のせいだろうか……。
そして彼女は金貨を学園の制服っぽい服のポケットの中に、丁寧に仕舞い込んだ。
急に心臓がドキドキとしだしたので、話題の転換をしようとジュンは試みたが、なかなかいい話題が浮かんでこない。
「ハイよ! ラウンドピアッツァ1つお待ち!」
そんな折、ちょうどいいところに救いの声が響いた。
(おっちゃん。感謝するぜ!)
安堵の気持ちを抱きながら、ピアッツァの乗った大皿を受け取るジュン。
一仕事を終えたピッツァヨーロ――男のピザ職人――はふと視線を彼の横にいる少女へ向ける。
そして――
「フィーナ様じゃないですか!」
と、大声を上げた。
「こんにちは、オスカー。今日もあなたは仕事熱心ね?」
どうやら、オスカーと呼ばれたピアッツァヨーロとフィーナは知り合いのようだ。
二人とも朗らかな調子で挨拶を交わしている。
「いえいえ、これがオレっちの生きがいですから」
鼻っ面を親指の腹で擦りながら、真剣に語るオスカー。
そこにウソが介在していないことは、彼の熱い語りっぷりから一目瞭然だった。
「でしょうね。年から年中、料理、リョウリと言ってるものね。オスカーは」
フィーナは口元に微笑を刻んでいる。
「なぁ、フィーナ。おっちゃんとは知り合い?」
何となく二人の間を邪魔したくなったジュンは、横から口を挟んだ。
「ええ、そうよ。彼は私が通う学園の一番人気がある食堂兼喫茶店『フローリアン』のオーナーなの」
なるほど、そうだったのか、と思う。
道理で親しげな様子だなと納得した。
「なんだ、坊主。フィーナ様と知り合いだったのか! だがな、いくら知り合いだといっても、フィーナ様はプリンセス。呼び捨ては聞き捨てならんな」
住民としてはそう言うのが当然だとも思ったが、フィーナ自身が『様』付けを嫌だって言っていたしなと、どうすべきかジュンは迷った。
困惑する彼を見かねたフィーナが、こっそりとオスカーの方へ近づいていって小声で耳打ちした。
その顔はちょっぴりと赤い。
「あのね、彼は特別なのよ。だからいいの。ね?」
するとオスカーは得心がいったとばかりに、嬉しそうな表情をして頷いた。
その顔を見るに、とても飛躍した意味に捉えている気がする。
「そうかそうか。とうとうフィーナ様にも……」
感慨に耽るようにしみじみとオスカーは言い――
「おい、坊主! フィーナ様を頼んだぞ!」
と、いきなり大きな声で呼びかけた。
「は? おっちゃん、いきなりなにを――」
意味が分からなかったので、思わず聞き返そうとしてしまったジュンの服を、フィーナがちょいちょいと引っ張る。
そして彼女は、堂々と言い放った。
「私たちが仲良しだってことよ。ね?」
「ん、ああ。仲良しには仲良しだけど……」
そんな彼女の言葉に、曖昧な返事をしてしまったのが彼の運の尽きだった。
グイッとジュンの体を自分の方へ引き寄せるフィーナ。
「もう、しっかりしてよ! 私たちが仲良しだってこと、見せ付けちゃえばいいってことなの!」
そう断言したフィーナは、スッと背伸びして――そのままジュンの頬にフレンチキスをした。
この刹那を生涯忘れないだろうと思うほど、ジュンは無意識のうちに心の奥深くに刻み込んだ。
あの柔らかな唇の感触も、銀の髪から香るお気に入りの柑橘系の匂いも。
そして何よりも、顔を離した後のフィーナの少し潤んだ蒼穹の瞳――それら全てをひっくるめて、フィーナという女の子の存在の全てを。
脳は完全無欠なまでに、永遠のものとして記憶した。
「ひゅ~やるねぇ、フィーナ様も」
口笛でちゃかすオスカーの声も、今は全く気にならない。
しばし呼吸をすることさえ忘れ、しばしフィーナを見つめてしまった。
それからハッとなって、頭の中がぐちゃぐちゃになった。
(いいい、いやいやいやいや。あああ、あれはそう! 挨拶ミタイナモノだって!
遥かなる昔、まだ地球に住んでいたときの人類は挨拶代わりにキスをしていたと聞く。だから、コレもこの国じゃあ普通のことなんだ。
そう、ふつうのこと、当たり前のこと。しないといけないお約束なんだ!
だからおちつけオレ、落ち着くんだジューンバルト!
お前はそれなりに頭がいいだろ! その頭はなんの為にあるんだ! 思考するためだろう!
そ、そうだ素数を数えろ! 数えりゃいいんだろ!
2,3,5,7,11,13,17,19,23,29,31,37,41,43,47,53,59,61,
67,71,73,79,83,89,97,101,103,107,109,113,127,131,137,
139,149,151,157,163,167,173,179,181,191,193,197,199,211,
223,227,229,233,239,241,251,257,263,269,271――ふう、落ち着いたぁ。
さすがは素数算。定評があるぜ)
現実の時間にして二秒ほどの間に、そんなことを考えまくったジュンは、ようやく自分が落ち着くのを実感した。
心臓の鼓動も、徐々に小さくなってゆく。
しかしそんな彼に、再び追い討ちを掛けるように――
「私、お父様以外の男の人にキスしたの、初めて……」
プリンセス・フィーナ様が頬をポオッと赤らめながら、起爆剤を投与いたしました。
そしてそれは、彼女いない歴=年齢の少年には刺激が強すぎましたようで。
固まった拍子に、ジュンの手からズルッとピアッツァが乗った大皿が落下していった。
「あっ!」
「おいっ! 坊主!」
上がフィーナで、下がオスカーの声だ。
フィーナが咄嗟に皿へ手を伸ばすも、間に合わない。
ピアッツァが乗った大皿は、重力に従って自由落下加速度運動をしながらコンクリートの地面へ吸い込まれようとしていた。
次にくるだろう衝撃音に備えて、反射的に目を閉じるフィーナ。
いまだジュンは案山子状態である。
しかしいつまで経っても、皿が割れる音は響いてこなかった。
不思議に思ったフィーナが目を開けるとそこには、大皿をしっかりと掴んでいるレオンが立っていた。
金色の髪が、陽光でさらにその輝きを増している。
「……何をしているんだ、お前たちは」
静かだが、どこか呆れたような調子でレオンは言った。
それから彼は手に持った大皿をフィーナへ手渡した後、黒い学生服のズボンに付着した埃をパンパンと払い落とす。
そこで大歓声が生まれた。
「ブラボー!」
「ナイスキャッチ!」
「キャー、カッコいいー!」
様々な賞賛が辺りに轟いた。
その全ては、今しがた大皿を見事救出したレオンへ向けてのもので。彼はそれを鬱陶しそうに、それでいて少しだけ恥ずかしそうに聞いている。
その怒号にも似た騒音のお陰で、ジュンは緩やかに意識を覚醒させた。
「……なにがあったんだ?」
目覚めたはいいが、状況がまるで飲み込めていないジュン。
そんな彼の様子に、「はぁ」と溜息を1つ付きながらレオンは言う。
「俺が聞きたいんだが、それは……」
「えっとね。まずジュンがぼうっとしてるせいで大皿を落としちゃって、それをレオンさんが奇跡的に掴み取ってくれたのよ。それでその光景を周りで見ていた人が、レオンさんへ向けて賞賛の限りを尽くしているって感じかな……分かった、ジュン、レオンさん?」
フィーナが見事に事実を端折って話した。
『あれ? 落としたのって、俺のせい?』と思ったジュンだったが、これを言うと自分に火の粉が降ってきそうなので、やめておいた。
「まったく、お前は何をしているんだか……たかだかキ――」
だが金色の青年には全てお見通しだったようで。
だから言葉の続きが読めたジュンが、急いでレオンの口へ手を充てて声を出せないようにした。
瞬間、ギロリと朱の光で睨まれたが、それを黙殺する。
元凶である銀のプリンセスにはなにが何だか分からなかったようで、不思議そうに首を傾ている。暢気なものだ!
「ちょっと、レオン。いきなり走り出さないでよ。ビックリしたじゃない」
そんなところに、シャーリーとケンジが小走りで到着した。どうやら二人は現場を見ていなかったらしい。
安心したジュンはそんな二人に親指を立て、グッドタイミングと伝える。
受けた二人としては何が何だか分からず、首を傾げていたが、そんなこと関係なかった。
「なあ、フィーナ様と坊主ら。どうでもいいが――いや、これが一番大切なことなんだが、早く食べねぇとピアッツァが冷めちまうぞ」
なかなか進展しないジュンたちの会話に痺れを切らしたオスカーが、早くピアッツァを食べるようにと急かした。
「あぁ! そうだった! 早く食べようぜ!」
皿を持っているフィーナの服を引っ張って、早くテーブルへ着こうとするジュン。
空腹を思い出し、先ほどのことは頭の片隅へ追いやれたようだ。
「ちょっと待って、そんなに服を引っ張らないで。それにまだお金も払ってない……」
「ヤバ、忘れてた。……おっちゃん、頼む! 金持ってないんだ! ここは俺の顔に免じて許してくれ!」
即座に、ジュンは体裁もプライドも全く関係ないよって感じで、土下座ポーズをとった。
他の四人とオスカーはポカンと口を開けた。周りで見ていた客たちや通行人も同様の反応である。
「ちょっと、何やってんのよ、アンタは!」
「ジュン、それはちょっとカッコ悪すぎじゃないかな……」
「お前の顔のどこを免じればいい? 恥ずかしいだけだ。やめろ」
「ジュン! そんなことしなくていいから! 私が払うから!」
目が覚めた四人が、口々に言った。
上からシャーリー、ケンジ、レオン、フィーナである。
「女の子に奢ってもらうことなんて、男として、絶対にできん! でも、食べたい! なら、こんな最高に美味そうなピアッツァをタダで食わしてもらうには、これしかないんだっ!」
変な観念を持っているな、と聞いていた者たちは思った。
しかし、二人だけ例外がいた。
フィーナとオスカーだ。
(女の子って。今、私のこと女の子って言ったよね。……初めてかも。あんな風に一人の女の子として私を扱ってくれた人……ジュンが初めての男の人……嬉しい)
と、フィーナ様は感動していた。
ジュンは本当の意味で特別だと思う。
オスカーにジュンを紹介するときに、父以外の男の人と初めてキスをしてしまったけれど。彼にとって、キスが嫌な事でありませんようにと、真剣に祈ってしまった。
思わず皿を落としてしまうほどの動揺は、彼が嬉しかったからだと信じていたい。
そしてまた、フィーナがそんなことを思っているのとほぼ同時に、オスカーはいきなり――ぶわっと、涙を溢れさせ――。
「坊主……いや、名前を聞かせてくれねぇか」
「ジューンバルトです。ジュンとお呼びください」
ジュンは姿勢を崩さないまま、彼に返事をする。
言葉遣いを敬語にする事も、決して忘れていない。
「オレっちはオスカーだ。ジュンよ。おめぇは男の中の男だ! フィーナ様の手を煩わせるぐらいなら、自分のプライドなんて紙くずのように破き捨てる豪胆さ! そしてオレっちの料理を最高と言ってくれるたぁ、なんていいヤツなんだ! 気に入ったぜ。もう一枚焼いてやっから、ちょっと待ってな! そんなに人数いるんじゃ、1枚だけじゃ足りねぇだろ!」
偉大なピアッツァヨーロは、ジュンのその行動を褒めちぎった。それから急いで奥の窯にもう1枚のピアッツァを焼き始める。
その言葉と行動に感動したジュンも、ぶわっと涙を溜めながら――
「ありがとう、マスター・オスカー!」
と言った。
文法的に可笑しかったが、突っ込むべきではないのだろう。
そしてそんな光景を、土下座少年と髭コック、そして蒼い瞳のプリンセス以外の、すべてのオーディエンスが呆れ果てて一言も口にできなった……。