第25話 『言葉だけでも、行動だけでも』
昼食を終え、今ジュンたちがいるのは、6つに区画されている王都アトラティカにあるサン・マルコ地区であった。といってもレストランがあったサン・マルコ広場はこの地区のはずれにあったので、地区の移動はしていない。
このアトラティカは6区を意味するセレスティエーレから成り、ドルソドゥーロ(Dorsoduro)、サンタ・クローチェ(Santa・Croce)、サン・ポーロ(San・Polo)、サン・マルコ(San・Marco)、カンナレージョン(Cannaregio)、カステッロ(Castello)の6つの地区に分かれている。
その中のサン・マルコ地区に何故来たかというと、それは――
「もしかして、今からフェニーチェ劇場へ行くの?」
いつの間にか隣を歩いていたフィーナが、ジュンの顔を覗き込むようにして尋ねた。
そのアングルはヤバイ……絶妙に見えそうで見えない胸元と、上目遣いがヤバイのだ。
だからジュンはすぃーと、恥ずかしさから視線をしっかり逸らしてから、彼女に答える。
「そうだよ。寮母さんから聞いたんだけど、あそこって有名らしいじゃん」
フィニーチェ劇場は、デートみたいなことには持って来いだと。ジュンたちの所属する男子寮を御する若女将のシンリーさんが、懇切丁寧に教えてくれたのだ。
どのようにして懇切丁寧かというと、プランを思考中のジュンたちが、いつものように談話室で夜遅くまで話しこんでいる時。いきなりシンリーさんが入ってきて、開口一番に何の話をしているのか訊いてきた。それで今日のことを話すと、「なるほど」と神妙な顔つきで頷きながら、「それなら、フェニーチェ劇場なんてどうだい?」と言った。ここまではシンプルである。
しかしこの後も、フィニーチェ劇場の素晴らしさを延々と1時間ほど聞かされ、仕舞いには洗脳されたかのように、ジュンはすっかりそこに興味を持ってしまっていたのだ。
――だって、しょうがないだろ。シンリーさんの話がメッチャ面白そうだったんだから。
つまり劇場の歴史と芸術性を、まさに彼女が体験してきたかのように話す口ぶりは、大いにジュンの好奇心を刺激してくれちゃったわけだ。
「うん! すっごく有名だよ。歴史的にも、内容的にもかなり充実してるし。価格も良心的だから」
「ふぃー、良かったぁー」
価格の部分は調べていなかったため、少しだけ不安だったので一安心だ。寮母の話では価格のことには触れていなかった……。
元を正せばけっこうな値段でも良かったのだが、如何せんレックスの7つの大罪スキル『暴食』が発動してしまい、女子には当然奢りだし、男たちは割り勘の原則に従ったため、彼の全てがジュンの財布に多大なる影響を与えていたのだ。
はっきり言って、財布が寂しい。つらい。
「ねぇ、フィーナ。そのフェニーチェ劇場って、どんなことやるの? 演劇?」
ジュンのもう一方の隣を歩くシャーリーが、すごく上手いジェスチャーつきで訊いていた。何の劇までかは分からないが、何をしているのかぐらいは分かるといったレベルだ。
もしかしたらシャーリーは、指演劇をやるとそれなりに儲かるかもしれない。
「ううん、違うよ。あそこは歌劇場だから。おそらく今日の演目は、オペラだと思うよ。ほとんどがそうだから」
「えっ! オペラってこっちの世界にもあるんだ……」
他の人に聞こえないように、シャーリーは小声で呟いた。
ジュンたちが異世界人だということは、未だにフィーナと女王ジュディ、そして学園長のサクラリスしか知らない事項だ。あまり大勢の人間の知るところにするのは、望ましくないと言われているからである。
「もちろんオペラもあるけど、今日は特別に管弦楽団によるオーケストラもあるんだってさ」
そうジュンが付け加えると、シャーリーが顔を輝かせた。
「え? ホント?」
「あぁ」
大仰にジュンが頷く。彼も、シャーリーに喜んでもらえて嬉しそうだ。そもそもこの劇場にした決め手は、ジュンが興味を持ってしまったこともあるが、一番はシャーリーが気に入るだろうと思ったからだ。
「やったぁ!」
実はシャーリーは音楽の類がとても大好きで、また得意でもあるのだが、その中でも弦楽器にものすごく精通している。特にヴァイオリンの腕前は、あの特殊な学校にさえ通っていなければ、間違いなくプロになっていただろうほどのものだ。
だからクラシックが好きなジュンも、しょっちゅう彼女に頼みこんで、ベートーヴェンのクロイツェル・ソナタや、J・S・バッハのパルティータ、フランクのヴァイオリン・ソナタ・イ長調などを弾いてもらっていた。
ちなみに、ホログラフォンに録音してある目覚まし音は、彼女の奏でた演奏である。リストやラヴェルすら弾きこなす彼女は、音楽の申し子と言っても過言ではないだろうと、ジュンは密かに思っている。
そうこうしているうちに、フェニーチェ劇場の目の前までやって来た。
劇場の外面にはそれほど華美な装飾はなく、いたって質素なイメージを放出している。 入り口にはすでに大勢の客が列を成していた。ここは予約ができず、また全席同一価格なので、結局のところ――。
――いい席取りたきゃ早く来い! ということである。
予想以上に長い人の列にしばし呆然と突っ立ってしまった。しかしこのまま突っ立っていても仕方がないので、取り敢えず、ぞろぞろと列の最後尾に並ぶ8人。
ジュンたちは開演の1時間ほど前に到着していたが、すでにいい席は取れそうもないほどの人だかりだったのだ。
しかし――。
「あ、フィーナ様だ!」
どこからか子供の声が聞こえたかと思うと、並んでいた人々が一斉にこちらへ注目してきた。
そうなると当のフィーナはタジタジで。
「うぅ、だから帽子被ってきたのに……」
なるほど、彼女がベレー帽を少し奥深く被っていたのはこのためだったのか。
しかしやはり近くで見れば、それが誰なのかは一目瞭然だろう。ただでさえフィーナの煌くばかりの銀髪は水の国でも珍しい。
「帽子を被って、防止しろ……なんてね」
ジュンはフィーナが落ち着くように、とっても面白いギャグを言ってやった……つもりだった。
だから当然――
「さむっ! アンタ寒すぎだって、それ!」
シャーリーがおおげさに、わざとらしく腕を摩りながら震えた。この震えが演技なら、本当に演劇の才能もありそうだ。
しかしこれは演技だろう。シャーリーもフィーナに気を使っているのだろうと、ジュンにはよく伝わってきた。
「ふふっ、ありがと、ジュン」
そしてフィーナにもジュンの意図が伝わったようで、静かに微笑んでくれた。でもどこか寂しげな印象を受ける。
「ホントだ。フィーナ様だ」
「フィーナ様、こんにちはー」
次第に人々の中でフィーナの存在が広まってゆき――
「おい、みんな、フィーナ様たちに順番を代わって差し上げろ」
と言ってくる者さえ出てきた。
その声にフィーナはブンブンと首を振りながら、
「いえいえいえ、いいですって! 私も皆さんと同じようにちゃんと並びますから」
「ですが、フィーナ様にはやはりいい席で見ていただきたい」
「だから本当に、今日は公式ではないのですから、ちゃんと並びますよ」
「ですが……」
人々は遠慮するフィーナを、どうにかして説得できないかとジュンは考えていた。
彼らは何も、フィーナが王女だからとう配慮だけでこの提案を言っているわけではないのだと思う。仮にこれが、王子であるクリスだった場合、これほど進んで快く言う事はなかっただろうから。
人々は知っていた。フィーナが自分たちに笑顔で挨拶してくれる事を。こちらが話しても嫌な顔ひとつせずちゃんと聴いてくれる事を。
そしてその笑みがどこか寂しげな事も。
だからこそ、少しでも彼女によくしてあげたい。そう思っていた。
しかしフィーナには、自分が王女だから特別なのだと感じられてしまっており。
そんなフィーナの気持ちも、人々の思いも、その両方が分かってしまい、何とももどかしいな、とジュンは思った。
すれ違い――人々はフィーナが好きだからこそ、こういうことを言う。しかしフィーナには彼らの言動が、自分が姫だから、というものだと思っている。
この悲しくも優しいすれ違いを、どうにかしてあげたかった。
――だけど、良い案が浮かばない。
そこに、クイクイと服の裾を引っ張ってくる少女がいた。
「どうしたの、お譲ちゃん?」
彼女の目線にまで身を屈ませ、優しく尋ねる。
すると少女は、ソッとジュンの耳元に囁いた。
「今日は、フィーナ様とデートなの?」
「え!? いや、その……そうだよ」
最初こそ慌てたものの、途中で何こんな少女にたじろいでいるのかと思い、冷静になった。今日は男女の厳密な意味でのデートではないが、お出掛けという意味でならデートで間違いないだろう。
すると少女はキャッと黄色い歓声をあげ。
「やっぱりぃー! なら、ここはお兄さんが頑張らないとダメだよ?」
「……それもそうだな。サンキュ、リトルレディ」
少し考えてから、その通りだと思った。今日は先日の事件の埋め合わせなのだ。
だからこそフィーナにも、シャーリーにも、リリアにも、セレスにも、みんなに楽しんでもらわねば意味がない。
――そうだ。何のために俺は、俺たちは計画をしてきたというのだ! ここで突っ立っていてどうする!
(子供は時として、真理を突いてくるよな……)
ジュンは少女の頭を感謝の気持ちで撫でてから、一気に立ち上がる。そして困惑気味のフィーナと人々のところへ向かった。
「ジュン……」
こちらへ向かってくるジュンに気付いたフィーナが、少し泣きそうな声で少年の名を零した。
「フィーナ、ここはみんなの好意に甘えようよ」
彼女の隣までやってきたジュンはニッと微笑み、フィーナのか細い肩をポンと叩いた。こんなにもフィーナは細いのか、とジュンは驚いた。
――なら、俺たちが支えてあげなくちゃいけない。
思えば、フィーナにはこの世界に来てからというもの、何かと世話になってきた。その恩返しという意味もある。
でも何故かそれ以外の意味もあるように感じるが、この時のジュンには別の意味とは何なのか全く分からなかった。
「……っ! ……で、でも」
ジュンが肩を叩いた微弱な衝撃でも、体をビクッと震わせるフィーナ。驚いたといっても、過言ではないだろう。
それほどまでにフィーナは切羽詰っていた。どうやったら民が分かってくれるのだろうか、自分が間違っているのか。それを考えると頭がぐるぐると回っているかのように気持ち悪くなって。
「いいから。みなさん、順番を譲ってくれて本当にありがとう」
まだ言い募ろうとしているフィーナをそっと制し、ジュンは人々と向き合ってから。
しっかりと頭を垂らした。
「いやいや、全然オーケーだよ」
「ああ、アンタぁ中々いい男だから、ぜんっぜん気にしなくていいよぉ」
人々はそんなジュンを見て、それぞれ好意的な笑みで反応してくれている。
「ありです。実はここに来るのは、初めてだったので、めっちゃ楽しみなんです」
「そうなのかい? なら、しっかりと見るんだよ。ここのオペラは絶品だからね」
おばちゃんがニコニコと笑いながら言ってきた。
やはりこの国の人々は自国のアトラティカ王国が好きで、同時にフィーナのことが大好きなのだと、言動の端々から感じる。
「いやいや、オーケストラの方が断然いいよ」
「ええ、両方ともすごく楽しみにしておきますよ。……それで訊きたい事があるんですが、ちょっといいですか?」
だからここいらで、切り出してみた。
この優しい擦れ違いを、ここで断ち切るために。
「ん、なんだい?」
「どうしたのかね?」
「みなさんは、何でフィーナにそんなに優しくするんですか?」
単刀直入に尋ねる。
言葉は正直に言わねば伝わらないこともある……。
ついさっき小さな淑女にそのことを教えられた。
「ちょ、ちょっとジュン。いきなり何を訊いてるの!」
慌てているプリンセスが1名いるが、この際は満場一致で放置でいいだろう。
「どうですか、みなさん?」
しかしあたふたしている姫、というのもカッコがつかないものなので。
目の前にいる往生際の悪いフィーナの手を、ジュンはぎゅっと握ってやった。すると途端に大人しくなるのが少し面白い。
「そんなこと決まってるよ、ねぇ?」
「ああ、そうだとも」
「おうよ」
人々は皆、したり顔で頷きあいながら、
「「「フィーナ様が俺(私)たちにお優しいからですよ!」」」
と叫んだ。
「……へ?」
人々の息ピッタリの一声に、なんとも間抜けな声を出したフィーナ。その顔が見る見るうちに赤くなってゆく。
そしてやがて、かなり小さな声で、
「ありがとうございます……」
と言った。
すると人々も若干照れているのか、皆一様にはにかんでいる。
「フィーナ様は、私たちが相手でも可憐な笑顔を振り撒いてくれますし」
「そうそう、挨拶だって気持ちよく返してくれるし」
「でも、時々寂しそうなお顔をされていたから、私たち心配で……」
「あ、これは内緒ですが、フィーナ様の兄君は俺たちなんかにはニコリともしませんよ。それに比べてフィーナ様は――」
人々の口からは、次々と賞賛の言葉が紡がれてゆく。
(本当に愛されてるんだな、フィーナは)
ジュンはこの光景を、まるで自分のことのように嬉しく思う。
これで、悲しき誤解は解消されただろう。
――プリンセスだから、だけじゃない。
フィーナが彼らに優しかったから、彼らもフィーナに優しくしてくれてるんだ。
そう、フィーナだから。
「じゃ、みなさんはフィーナ様ラブなんですね?」
「「「もちろん!」」」
「だとさ、フィーナ。良かったね、みんなはフィーナが姫だからとか、そんなこと関係なく、フィーナのことが好きなんだってさ」
そう言ってジュンは、軽いウィンクをフィーナへ飛ばす。
それにフィーナはしっかりと頷き返し、
「うん! みなさん。私もみなさんのこと大好きですよ!」
大輪の花が綻ぶように、満面に極上の笑みを浮かべたフィーナがそこにはいた。
きっと、ほんの少し足りなかっただけなのだ。
人と人が分かり合うことは、とても難しいことだから。行動だけでは分かってもらえないことも多い。
だけど、お互いの気持ちを素直に言葉にし、行動すれば、案外簡単に分かり合うことができる。
――言葉だけでも、行動だけでもなく。
言動にすること。それも、とても素直な言葉と行動だ。
これは簡単なようで、非常に難しい。
でも普通で当たり前のこと。
そこから生まれることに大した変化はないのだけれど。
――確かな変化がそこにはあるのだから……。
ジュンは嬉しさを噛み締めながら、何の言葉も発せず、ただただ突っ立っている。それしかできなかった。
――だって、目の前の光景を見ていたら。何の言葉もジュンの脳裏に浮かんでは来なかったから。
(まさしく、真に素晴らしき光景は、その装飾を嫌う……だな)
ここへ来た時に、この王都を見た時に、同じようにそう感じた。しかしあの時以上の光景が、目の前にはあったのだ。
そんな折、ジュンはふと暖かな感触が“力んだ”ことに気が付いた。
見ると、顔を上気させたフィーナが、やはり極上の笑みでこちらを見つめていて――。
笑顔の彼女につられて自分の顔がニヤけてゆくのを、ジュンにはどうすることもできなかった。
その後、特上の気分で、且つ特等の席で鑑賞したオペラとオーケストラは、これまた素晴らしく。シャーリーなどは長年の癖みたいなもので思わず指が動いてしまっていた。
劇場の公演は終わりを迎え、いよいよ、このプランも最終に差し掛かっている。