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ATRATICA IN CAPITAL OF WATER   作者: Franz Liszt
第2章 『学園編』
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間話 『全てが始まる前に……』



 ――さる国の執務室。薄暗い、どこか陰鬱(いんうつ)とした印象を与える空間。そこには二人の人間がいた。


「……ふむ。では、アレがきた可能性があると?」


 紅き衣を身に纏い、黒髪を垂れ流し、同色の髪で覆われた黒眼で全てを見通す者が尋ねる。冷静に言っているように思えるが、その声はどこか熱っぽい。

 黒と紅の男はこの国の王子。そして同時に、この国の軍隊を任された元帥でもあった。


「はっ。断定はできませぬが、近隣の者たちが少々浮き足立ってきているかと……」


 とても優秀な彼の問いに、軍服を纏った初老の兵が答える。ロマンスグレーが似合うこの兵士は、男が今の地位に就く以前より側近として忠誠を誓っていた。

 言うなれば、男に武術や智略を教え込んだ師でもある。


「そうか……。ならば(はじ)めねばなるまい。じきに(さい)は投げられる。その前にアレを」


 手を顔の前で組み、冷静に告げる。

 男は台詞の終始、底冷えのする黒き瞳を何もない空間へ投げつけていた。まるでそこに復讐すべき相手がいるかのような視線だ。


「はっ。仰せのままに!」

「うむ。思慮外のことがあれば、お前の采配(さいはい)に任せる。頼んだぞ」


 老兵のきっぱりとした返答に、男は少しだけ相を崩して、そう言い伝える。彼になら自分の策の全てを、安心して任せることができた。

 そんな男の心の内が見えたのか、老兵は言葉に対し感無量の表情で手を胸の前に合わせ――


「はっ。お任せあれ!」


 と、仰々しく声を張り上げた。


 兵が去った後、終わりを画策する者だけが残される。

 男は瞳を閉じ、気分を落ち着かせた。内心では抑えきれないほど獰猛(どうもう)且つ、熱烈な感情が込み上げてくる。それを何とか落ち着けようと努力する。

 しかし落ち着かせねばならぬのは、まだ他にもあって。妙に心がざわつくのだ。しかしこれは、いよいよアレがくるのだという高揚感だと思う……いや、そう信じたい。


 ――いけないな。どうにも、ここにいては色々と思考してしまうようだ。

 男は確かな足取りで執務室を出て、自室へ戻った。


 大理石の廊下を独りで歩んでいると、自室のドアの前には一人の侍従(メイド)が控えていた。

 男の存在に気が付いた侍従がすぐさま部屋の扉を開き、男はそこを通って中へ入る。そして(おごそ)かに椅子へ腰掛けた。

 すると間髪入れずあの侍従(メイド)の者が、テーブルに置かれたデミタスカップへ紅茶を注ぐ。ソーサーが音も立てないばかりか、紅茶の波面(はめん)まで静かな入れ方は、侍従の熟練のほどが(うかが)えた。

 男は入れられた紅茶のカップを親指と他の4本の指で柄を挟み、鼻の近くまで持ち上げ、そのいい香りをしばしば楽しむ。その後で今度は少しだけ口に含み、舌で液体を転がしじっくりと味わった。

 これが正しい紅茶の所作だ。紅茶とは、いきなり(のど)へ流し込むようなものではない。そのことを盲目的に信奉している男。

 そんな、特にフレーバーティーが好きな男だったので、彼専属の侍従(メイド)は毎日異なった香りの紅茶を入れていた。


「今宵は少し甘いものが良かったのだ。分かっていたのかい、セリーヌ?」


 男が呼んだ侍従(メイド)の名はセリーヌという。彼女と男は幼少の頃からの付き合いだった。

 セリーヌは長い黒髪をストレートに流した美しい女で。

 そして男を見つめる、彼女の蒼い目は優しげで。どこか儚さも感じさせる。


「そうですね……」


 侍従の彼女は指を(あご)にちょこんとだけ乗せ、少々考え込むような仕草をし、


「なんとなく……知っていました。これが一番しっくりきそうです」


 茶目っ気を感じさせる声音で、ゆっくりと言う。何故にこんな弾んだ声で言ったのかは分からないが、彼女の声の内に主従を越えた感情が見え隠れしているのは、確かなことだった。

 それを男は、自分の為だな。と、思った。

 いつも彼女は、今、自分が求めているような態度で応じてくれる。


「そうか。……すまないな」

「何が、ですか?」


 しかし惚ける様に、首を傾げるセリーヌに。


「……いや、色々と、お前には気苦労を掛ける。そう思っただけだよ」


 しょうがないヤツだとばかりに、ふっと微笑を浮かべる男。


「いえいえ、それほどでも。……それに――貴方様になら、いくらでも苦労を掛けて頂きたいです」


 言って、ニッコリと笑む侍従。


「…………それも、そうだな」


 彼女の思いやりに、たっぷりと間をおいてから、呟くような小さな声で男が肯定した。

 この男もまた、セリーヌに苦労を掛けるのは、自分だけであって欲しいと、妙な願望が胸の内に浮かんだ。


「俺は弱いな。本当に弱い」


 自虐的に、男は呟きを落とした。しんみりとした声音が、ゆったりと満ちてゆく。

 それを遮るように、セリーヌは言葉を紡ぐ。


「貴方様は弱くなどありません。決して弱くなどないです」


 紡がれる彼女の言葉には、不思議な説得力があった。それは優しさという、そんな純粋なものだけからできていたからかもしれない。

 とにかく、自分にはふさわしくない言葉だと、男は思った。


「そうかな?」


 だから男は、自分が甘えてるんだとも思った。だってセリーヌが自分を(かば)ってくれるのは、常のことだったから。

 彼女の優しい言葉を聴きたくて、疑問を呈したのだと、自分ではっきりと分かっていた。我ながらに、情けないと思う。


「そうですよ。甘えてくれていいのです。私に苦労を掛けられるのは、貴方……いえ、グレン様だけの特権で。グレン様に頼ってもらえるのは……私の喜びなのですから」


 途中から呼称を変え、何気なしにそんなことを口にする侍従。そんな彼女に対し、内心を見透かされたのかと思い、少しだけ恥ずかしさを覚えた男――グレン・セイ・ペンドラゴンは、照れ隠しに、紅茶をいつもより多めに口に流し込んだ。香りなどを楽しむ余裕もないその所作は、彼の汚点とするところだったが、生憎(あいにく)と気に留めている余裕はなかった。

 彼の態度の理由が手に取るように分かってしまい、これまた面白かったのか、侍従があらあらと自らの口元に手をやって。


「もう少し香りを楽しんで頂かないと、せっかく入れた紅茶がもったいないです」


 と、少しいじめっ子のような印象の表情で言った。

 しかしやはり楽しげな顔つきの侍従(メイド)に、男はゆっくりと紅茶を口に流し込んでいき。


「……楽しんでいるさ。今宵の甘い香り……。これはキャラメルティーに蜂蜜を入れ、さらにドライアプリコットを細かくして少々、といった配合か?」


 仕返しとばかりに目を細め、どこか得意げな男が尋ねた。


「ふふっ、さすがです。紅茶マニアなだけはあります」


 だけどそんな男の反応などお見通しだという感じのセリーヌ。すかさずニンマリと笑んで、グレンを見やった。とても優しい光を宿した蒼き瞳で。


「マニア言うな」

「クスクスッ……」

「ははっ……」


 グレンはセリーヌと、蜜のように甘く優しい時間をほんの少しだけ過ごした。




 やがて時計が鳴らすゴォーンという大きな音を切り口に、もう一度男が語りだす。

 しかし語るといっても、話し相手は誰もいない。セリーヌはもうすでに下がらせていた。

 だからこれは、彼の独白だ。


「にしても……ついにくるか。俺のほとんど全てを奪い、俺にほとんど全てを与えたアレが」


 足を組み、視線を前に向けた。

 漆黒の瞳が射抜く先には、大きな肖像画が。

 肖像画には、優しい微笑みを湛えた美女が描かれている。彼女の手には大きな杖が握られ、その先端から青白い光が漏れているかのような色彩の絵。


 ――否。

 絵ではない。

 映像保存用のラルクリア――イメジリアによって投影された永遠の幻想だ。


「ようやくだ。ようやくだよ…………母さん」


 その(はは)へ。

 万感の思いが込められたかのように、重い呟きを零す。


「私が為す所を見ていてください。私が、砂上(さじょう)楼閣(ろうかく)を壊す所を。花は根に帰るもの……だからっ」


 一人称さえ直し、礼節と尊敬の念を込めて、彼はお辞儀をした。

 世界が優しくない事は、とうの昔に知っている。

 ならば、無残に散った母の為に自分ができることは、ただの一つしかないと信じてきた。信じて、今まで生きてきた。

 ――そうだ。

 どうしても世界が捻くれていると言うのであれば、俺は――俺が全てを守るだけだ。たとえ、他の全てを(そこ)ねたとしても、(ただ)、自らの護りたい者の全てを守り通すだけなのだ。

 他のことなど、知ったことではない。

 もう奪われるのは、ごめんなんだ……。

 きつく握り締めていた両手を(ほど)き、就寝用の黒衣(こくえ)に着替える。

 黒き瞳を黒き髪で隠すように垂らし、厳かにベッドへ向かって、音も立てず静かに部屋の灯かりを消した。


 これは全てが始まる前のことだ。

 並みの日を通ることができなくなる前の話だ。もうじき……グレンから普通を奪ったアレが来る。

 もうじき。



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