間話 『全てが始まる前に……』
――さる国の執務室。薄暗い、どこか陰鬱とした印象を与える空間。そこには二人の人間がいた。
「……ふむ。では、アレがきた可能性があると?」
紅き衣を身に纏い、黒髪を垂れ流し、同色の髪で覆われた黒眼で全てを見通す者が尋ねる。冷静に言っているように思えるが、その声はどこか熱っぽい。
黒と紅の男はこの国の王子。そして同時に、この国の軍隊を任された元帥でもあった。
「はっ。断定はできませぬが、近隣の者たちが少々浮き足立ってきているかと……」
とても優秀な彼の問いに、軍服を纏った初老の兵が答える。ロマンスグレーが似合うこの兵士は、男が今の地位に就く以前より側近として忠誠を誓っていた。
言うなれば、男に武術や智略を教え込んだ師でもある。
「そうか……。ならば創めねばなるまい。じきに賽は投げられる。その前にアレを」
手を顔の前で組み、冷静に告げる。
男は台詞の終始、底冷えのする黒き瞳を何もない空間へ投げつけていた。まるでそこに復讐すべき相手がいるかのような視線だ。
「はっ。仰せのままに!」
「うむ。思慮外のことがあれば、お前の采配に任せる。頼んだぞ」
老兵のきっぱりとした返答に、男は少しだけ相を崩して、そう言い伝える。彼になら自分の策の全てを、安心して任せることができた。
そんな男の心の内が見えたのか、老兵は言葉に対し感無量の表情で手を胸の前に合わせ――
「はっ。お任せあれ!」
と、仰々しく声を張り上げた。
兵が去った後、終わりを画策する者だけが残される。
男は瞳を閉じ、気分を落ち着かせた。内心では抑えきれないほど獰猛且つ、熱烈な感情が込み上げてくる。それを何とか落ち着けようと努力する。
しかし落ち着かせねばならぬのは、まだ他にもあって。妙に心がざわつくのだ。しかしこれは、いよいよアレがくるのだという高揚感だと思う……いや、そう信じたい。
――いけないな。どうにも、ここにいては色々と思考してしまうようだ。
男は確かな足取りで執務室を出て、自室へ戻った。
大理石の廊下を独りで歩んでいると、自室のドアの前には一人の侍従が控えていた。
男の存在に気が付いた侍従がすぐさま部屋の扉を開き、男はそこを通って中へ入る。そして厳かに椅子へ腰掛けた。
すると間髪入れずあの侍従の者が、テーブルに置かれたデミタスカップへ紅茶を注ぐ。ソーサーが音も立てないばかりか、紅茶の波面まで静かな入れ方は、侍従の熟練のほどが窺えた。
男は入れられた紅茶のカップを親指と他の4本の指で柄を挟み、鼻の近くまで持ち上げ、そのいい香りをしばしば楽しむ。その後で今度は少しだけ口に含み、舌で液体を転がしじっくりと味わった。
これが正しい紅茶の所作だ。紅茶とは、いきなり喉へ流し込むようなものではない。そのことを盲目的に信奉している男。
そんな、特にフレーバーティーが好きな男だったので、彼専属の侍従は毎日異なった香りの紅茶を入れていた。
「今宵は少し甘いものが良かったのだ。分かっていたのかい、セリーヌ?」
男が呼んだ侍従の名はセリーヌという。彼女と男は幼少の頃からの付き合いだった。
セリーヌは長い黒髪をストレートに流した美しい女で。
そして男を見つめる、彼女の蒼い目は優しげで。どこか儚さも感じさせる。
「そうですね……」
侍従の彼女は指を顎にちょこんとだけ乗せ、少々考え込むような仕草をし、
「なんとなく……知っていました。これが一番しっくりきそうです」
茶目っ気を感じさせる声音で、ゆっくりと言う。何故にこんな弾んだ声で言ったのかは分からないが、彼女の声の内に主従を越えた感情が見え隠れしているのは、確かなことだった。
それを男は、自分の為だな。と、思った。
いつも彼女は、今、自分が求めているような態度で応じてくれる。
「そうか。……すまないな」
「何が、ですか?」
しかし惚ける様に、首を傾げるセリーヌに。
「……いや、色々と、お前には気苦労を掛ける。そう思っただけだよ」
しょうがないヤツだとばかりに、ふっと微笑を浮かべる男。
「いえいえ、それほどでも。……それに――貴方様になら、いくらでも苦労を掛けて頂きたいです」
言って、ニッコリと笑む侍従。
「…………それも、そうだな」
彼女の思いやりに、たっぷりと間をおいてから、呟くような小さな声で男が肯定した。
この男もまた、セリーヌに苦労を掛けるのは、自分だけであって欲しいと、妙な願望が胸の内に浮かんだ。
「俺は弱いな。本当に弱い」
自虐的に、男は呟きを落とした。しんみりとした声音が、ゆったりと満ちてゆく。
それを遮るように、セリーヌは言葉を紡ぐ。
「貴方様は弱くなどありません。決して弱くなどないです」
紡がれる彼女の言葉には、不思議な説得力があった。それは優しさという、そんな純粋なものだけからできていたからかもしれない。
とにかく、自分にはふさわしくない言葉だと、男は思った。
「そうかな?」
だから男は、自分が甘えてるんだとも思った。だってセリーヌが自分を庇ってくれるのは、常のことだったから。
彼女の優しい言葉を聴きたくて、疑問を呈したのだと、自分ではっきりと分かっていた。我ながらに、情けないと思う。
「そうですよ。甘えてくれていいのです。私に苦労を掛けられるのは、貴方……いえ、グレン様だけの特権で。グレン様に頼ってもらえるのは……私の喜びなのですから」
途中から呼称を変え、何気なしにそんなことを口にする侍従。そんな彼女に対し、内心を見透かされたのかと思い、少しだけ恥ずかしさを覚えた男――グレン・セイ・ペンドラゴンは、照れ隠しに、紅茶をいつもより多めに口に流し込んだ。香りなどを楽しむ余裕もないその所作は、彼の汚点とするところだったが、生憎と気に留めている余裕はなかった。
彼の態度の理由が手に取るように分かってしまい、これまた面白かったのか、侍従があらあらと自らの口元に手をやって。
「もう少し香りを楽しんで頂かないと、せっかく入れた紅茶がもったいないです」
と、少しいじめっ子のような印象の表情で言った。
しかしやはり楽しげな顔つきの侍従に、男はゆっくりと紅茶を口に流し込んでいき。
「……楽しんでいるさ。今宵の甘い香り……。これはキャラメルティーに蜂蜜を入れ、さらにドライアプリコットを細かくして少々、といった配合か?」
仕返しとばかりに目を細め、どこか得意げな男が尋ねた。
「ふふっ、さすがです。紅茶マニアなだけはあります」
だけどそんな男の反応などお見通しだという感じのセリーヌ。すかさずニンマリと笑んで、グレンを見やった。とても優しい光を宿した蒼き瞳で。
「マニア言うな」
「クスクスッ……」
「ははっ……」
グレンはセリーヌと、蜜のように甘く優しい時間をほんの少しだけ過ごした。
やがて時計が鳴らすゴォーンという大きな音を切り口に、もう一度男が語りだす。
しかし語るといっても、話し相手は誰もいない。セリーヌはもうすでに下がらせていた。
だからこれは、彼の独白だ。
「にしても……ついにくるか。俺のほとんど全てを奪い、俺にほとんど全てを与えたアレが」
足を組み、視線を前に向けた。
漆黒の瞳が射抜く先には、大きな肖像画が。
肖像画には、優しい微笑みを湛えた美女が描かれている。彼女の手には大きな杖が握られ、その先端から青白い光が漏れているかのような色彩の絵。
――否。
絵ではない。
映像保存用のラルクリア――イメジリアによって投影された永遠の幻想だ。
「ようやくだ。ようやくだよ…………母さん」
その幻へ。
万感の思いが込められたかのように、重い呟きを零す。
「私が為す所を見ていてください。私が、砂上の楼閣を壊す所を。花は根に帰るもの……だからっ」
一人称さえ直し、礼節と尊敬の念を込めて、彼はお辞儀をした。
世界が優しくない事は、とうの昔に知っている。
ならば、無残に散った母の為に自分ができることは、ただの一つしかないと信じてきた。信じて、今まで生きてきた。
――そうだ。
どうしても世界が捻くれていると言うのであれば、俺は――俺が全てを守るだけだ。たとえ、他の全てを損ねたとしても、唯、自らの護りたい者の全てを守り通すだけなのだ。
他のことなど、知ったことではない。
もう奪われるのは、ごめんなんだ……。
きつく握り締めていた両手を解き、就寝用の黒衣に着替える。
黒き瞳を黒き髪で隠すように垂らし、厳かにベッドへ向かって、音も立てず静かに部屋の灯かりを消した。
これは全てが始まる前のことだ。
並みの日を通ることができなくなる前の話だ。もうじき……グレンから普通を奪ったアレが来る。
もうじき。