第22話 『パラダイス・ロスト! ③』
そして時間が、ジュンが大浴場を覗き始めた時間へと到達した。
徐々に晴れてゆく湯気を、早く消えろ、速く消えろ、そら消えろと願いを掛けながら、ジュンは待っている。
やがて最初に視界に入ってきたのは、優美な彫刻が施された乳白色の壁だった。
壁を見たって、しょうがない! 穴が小さく過ぎて上手く視線を動かすことができないが、立ち位置を変えるとすぐにそれは解決された。
次の瞬間、肌色の物体がジュンの視界を埋め尽くす。
――キタァー! と声にならない叫び声をあげるジュン。
すぐさま視線をこらして、今しがた確認された肌色の物体を凝視する。
それはまさしく、聖地であり、楽園であり、天国だった。
ゴクリと音を立てて、生唾を飲み込む。ジュンの想像していた――裸の乙女たちのキャッキャウフフと戯れている光景ではなかったが、皆が気持ち良さそうに湯につかっている。
すぐさまフィーナとシャーリーを見ようと、視線を右往左往させた。
視界に入り込む女生徒たちは皆バスタオルのようなものを体に巻きつけており、肝心なところが全く見えない。
――だがしかし! そんなの関係ねぇ! ジュンは内心で叫ぶ。
そして終に、ジュンは見つけてしまった。彼の視界には、タオルを巻き入浴中のフィーナとシャーリー、それにリリアとセレスの姿が映っている。
ジュンの脳内メモリが、瞬時にその光景を永遠保存した。
しかしやはり肝心の部位が湯につかってしまっているのと、タオルが邪魔で全然見えない。
――これでは生殺しではないか! と、先ほどまでとは打って変わり、心の中で憤るジュン。
それでも、目に飛び込んできたフィーナの大きく実った双丘が、そんな憤りを綺麗さっぱり消し去ってくれた。そこに理由はいらないはずだ。そうだろう! やってくれるぜ、胸囲脅威プリンセス!
さらにお隣のシャーリーの小振り!――だが、それもなかなか――なものから、リリアの並!――いい形だぁ――サイズ、セレス先輩のは……でかい!――フィーナ以上かっ!―― と、失礼極まりない批評めいたことを次々と行ってゆく。
もはやそこに道徳だとか、倫理だとかは存在しない。ただ頭が痺れたように働かなくなり、視線は釘付け、理性はほぼ消失。瞬きすら忘れ、ジュンはその光景を見続けた。
しかしそこで、こんな良い所で、いきなり袖を引っ張られる。
うるさいなと思いながら振り向くと、そこには今にも涎を垂らしそうな青少年たちが息遣いを荒くしていた。今までとは正反対に、気持ちの悪いものを見てしまった気分になるジュン。何よりも彼らと自分の顔の距離が近い。
そんな彼らの顔は、何よりも――早く見せろ! 交代だ! と言葉よりも雄弁に語っているように思える。
「も、もうちょっとだけ……」
消え入りそうなほど小さな掠れた声でジュンは言った。正直に告白すると、もっともっと見ていたい。
しかし男子たちの目は何故か充血気味で、暗闇の中でさえ爛々と輝く、怪しげな光を放っている。一気に頭が覚めてゆき、瞬時に無理だと判断した。
「わ、分かったから。落ち着け。皆の衆」
そう言って、ジュンは渋々穴から離れた。すぐさまドッと男たちが小さな穴に押し寄せてくる。まったく落ち着いてなどいない。
そこでジュンの思考はあることに感づいた。
(ん、待てよ。このままヤツらが見る=フィーナやシャーリーたちの姿が群集の下に晒される! これだけは駄目だ! 絶対に阻止!)
ジュンがそんなことを考えている隙に、男たちは我先にと小さな穴に群がって、互いに互いを邪魔し合っていた。冷静だったのは、どこかプロッフェッショナルな雰囲気を放つダリルと、女体にあまり興味が無いケンジだけだ。
こうなると必然、ジュンが何もしなくとも――
「おい! どけよ!」
「はぁ! 次は僕の番だろ!」
「いーや、ここはジュンの副官である、この俺レックス・クロノの番のはずだぜ!」
この様に、暴動に近い騒ぎが巻き起こった!
温かな湯につかりながら、フィーナがセレスに言われた言葉の意味を考えて、ぼんやりした頭を必死に稼動させていると……何やら騒がしい音が大浴場の中に響いてきた。
周りのシャーリーやリリアも聴こえているのだろう、不思議そうな顔つきで辺りを見回している。
「ねぇ、なんか今、聴こえなかった? というか、今も聴こえてこない?」
「うん、確かに聴こえたよ!」
シャーリーが疑問を口にしたので、フィーナも自分も感じていると報告をする。
「しかも男子の声」
淡々とリリアも呟いた。
「まさかっ!」
シャーリーが急いで浴槽から立ち上がり、しっかりとバスタオルを体に固定しながら浴場の壁の方へ早歩きをし始めた。
フィーナも彼女の後に続いて、反対方向から円形の壁を回ってゆく。
他の女生徒たちも気が付いたようで、騒ぎだした。
「あっ! 穴が開いてる!」
ちょうど地下への階段を角度0度として、180度回転させたところに小さな穴が開いていたのだ。本当に小さい穴で、近づいてよく見ないと、立ち込める湯気などのせいでまったく見えないだろう。
フィーナがその穴から覗いてみると、誰かの目と視線がぶつかった!
「きゃ、キャーッ! 覗きぃ!」
思わず、ありったけの声で叫んでしまう。
すると穴の中から、聞きなれた声で「逃げろ!みんな!」と叫ぶ声が聞こえた。まさか……という思いが脳裏をよぎった。
――でも、ジュンなわけないし……ないよね?
思考中にて止まっていたフィーナの声に、またしても一番早く反応したのはシャーリーで、彼女はバスタオルを片手でしっかりと支えながら更衣室へと繋がる階段を駆け上がっていった。
「みんなも、早く上がって! それと各自、エイン・ロッドも持って来て!」
走りながら、シャーリーは他の生徒たちに指示を飛ばした。
彼女の指示を受け、怒りのマークを額に浮かべた多くの乙女たちが口々に罵倒を述べながら、シャーリーの後に続く。
「ぶっ殺すっ!」
シャーリーは恐ろしく低い声音で、これまた恐ろしい内容の言葉――いや、呪詛を唱える。
更衣室ですぐさま着替えを終え、そのまま外に飛び出していった。
結局浴槽に残ったのは、慌てることなく、優雅に湯につかるセレスだけとなった。
「さてさて、私の予言が当たるかどうかは、貴方しだいですよ、ジュンさん」
微かな笑みを口元に刻み、ほぅっと息を吐くセレス。その青い瞳まで、どこか楽しげだった。
一方、ジュンたちは今や、大慌てで鍾乳洞から抜け出そうと走っていた。しかし出口に近付くにつれ、どんどん空間の大きさが狭くなってゆく。
そうなると必然的に、我先に出ようとする人物が現れてくる。
ジュンは彼らを優先的に出すからと言うことで納得させ、何とか事なきを得た。こういう時は、諌めている時間すら惜しい。
皆の最後に、何とか外へ飛び出ると、そのまま来た道に向けて走り出す。どこからか、女生徒の怒鳴り声が聞こえてきた。
その声の中でも一際目立って聴こえるのが、まさしくシャーリーの声だ。ジュンにはすぐに分かった。
そしてやっとのことで男子寮へと繋がる穴の場所に到達したはいいが、またもそこでは男どもが揉めている。
(――まずい! 男子寮から女子寮へと繋がる穴もかなり小さい! このままではすぐに追いつかれる! かといって、すでに場所がバレてるあの穴に戻ったところで――瞬殺されるだろうしなぁ)
逃げてくる際に見てしまったシャーリーの鬼のような形相が、いとも簡単に想像して、再現できてしまう自分が恐ろしい。
ぶるっと体が、寒くもないのに、勝手に震えた。
「ジュン。大丈夫?」
隣にいたケンジの心配そうな声が聞こえてきた。
彼の自分を気遣ってくれる声を聴いた瞬間――そうだ、俺には責任がある。全ての罪過は俺が背負うと決めていた!
そう、ジュンは固く決心をした。
「よっしゃ! ケンジ、お前はいいから先に行け! ここは俺が食い止める!」
「ジュン――」
尚も言い募ろうとするケンジを遮って、ジュンは言い放つ!
この際、声バレするのは致し方ない。
「皆の衆! よく聴け! この俺、ジューンバルト・ソリドールが、この場は死守する! よって、同志諸君らは絶対に元の平穏な世界へ戻れるはずだ! 列を組んで順番に落ち着いて、穴を通れ! 繰り返す、絶対にここは俺が死守するから、1人ずつ落ち着いて穴を通れっ! 分かったなっ!」
「ジュン」
ケンジが涙ぐみながら呟きを洩らしていた。
その肩をジュンはそっと押してやる。
男たちもジュンの言葉を聴き、いくらか冷静になったようで、口々に「勇者よ」、「英雄よ」、「ジューンバルトよ」と言っていた。
「そうだ! 俺の名はジューンバルト・ソリドール! 我は数多の戦場を渡り歩いてきた英雄であり、魔王をも恐れぬ勇者である! さぁ、行くのだ! 戦友たちよ!」
『おぉージューンバルト、おぉージューンバルト!』
皆の心が1つになり、確かな絆が芽生えた瞬間だった――。
「へぇ、アンタ、いつから勇者さまになったの?」
底冷えするドス黒いオーラを満遍なく辺りに撒き散らしながら、ピンクポニーではなく、髪を纏めていないピンクロングの魔王がやってきた!
魔王は、オーラで髪を逆立て、怒りで真っ赤に燃えるような紫の瞳をしている。そこには殺! 殺! 殺! 滅殺! の文字しか映っていない。少なくとも、ジュンにはその文字しか見えないのだ。
「消えなさい――ジュンッ!」
そう叫びながら魔王は、手に持った太陽のエイン・ロッドをジュンへと向けた。
すでに確認すらしようとしていない。問答無用である。
「くっ、リクリエイション!」
すぐさまジュンもエイン・シェルを復元する。
一瞬で翼を抱く双剣が手元に出現し、それをしっかりと握り締めた。
「炎の塊よ。我が前に集いて、アイツを消し飛ばせ! Flame・Impact!」
最後は滅茶苦茶な詠唱であったが、確実に魔法は発動しているようだ。
魔王が持つエイン・ロッドの太陽部にある『スタールビー』が、これでもかってほどに輝きを放ちながら空中に炎の塊を生成していた。
(なんかあれ、ヤバくない? でかくない? でかいよな……)
ジュンが見つめる炎の塊は、尚もその大きさを増してゆく。すでに直径5メートルはあろうかという大きさになっていた。教科書に載っていたアレの――魔法本来の大きさの比ではない。
こっちの方が遥かにデカく、凶悪そうだった。
(あ、アレくらうと、俺、死ぬ? 死ぬよな、きっと)
熱気がここまで伝わってきていることから鑑みるに、その温度は絶対温度で約1000度はありそうだ。
くらえば焼死体の完成である!
「は、あは、あははははー。……だ、誰か『水』属性のヤツ、コイッ! 頼む! 死ぬって!」
やはり炎に対抗するには、水が一番だと思う。よって水属性の魔装士を全力で呼んだ。
しかし、いくら待っても、返事がない。
まさかと思いながら、恐る恐る後ろを見ると、すでにそこには誰もいなかった。
「なにぃー! お前ら! 逃げ終えたなら、俺に言えよ!」
「ふーん。やっぱり、アンタだけじゃなかったんだぁ。でも安心して、ジュン。ソイツらも、きっちり、アンタと同じようになると思うから。ねぇ? 嬉しいでしょ?」
女子寮の門を見ると、すでに大勢の女子が男子寮へ向かっていた。この様子では、すぐさま不埒な者共に乙女の断罪が下ることだろう。
「嬉しいに決まってるよ。ね?」
魔法杖を腋に抱え直し、ポンと手を合わせながら、シャーリーはニッコリと微笑んだ。
凶悪な笑みだ。あれほどまでに凶悪な笑みが、この世にあったとは……。
「フィーナの真似しても、シャーリーには似合わんぞ!」
「あらぁ、まーだそんな口が利けるんだ? へぇー」
「あ、いや、これはその、言葉のあやであって、シャーリーにはシャーリーの良さってものがあるから、真似はそれを台無しにしちゃうんじゃないかなってさ……そう、ホントそれだけなんだよ!」
ジュンの言葉に、にんまりと不気味な笑みを浮かべるシャーリー。口は笑っているが、完全に目が据わっている。
きっと心の中では鬼バージョン・シャーリーがいるんだな、とジュンは思い、涙が出てきそうなのをグッと堪えた。
「それは、アンタの本心?」
底冷えする声音。
「も、もちろんもちろん、もちろんろん! スモモも桃も桃のうち!」
めちゃくちゃに首を振った。ブンブンと風を切る音が聞こえた。
それから恐る恐るシャーリーを見る。
すると――
「……な、なら、その……言ってみなさい」
何故か顔を赤らめたシャーリーがいた。あの炎のせいで暑いのだろうか、それとも湯冷めでもしたのだろうか……。
少々心配になったが、ここは促したほうが無難だろう。
「何を、ですかね?」
というよりも会話するなら、さっさとあの火の塊を消して欲しい。頼むから。
「だから! わた、私の良い所よ! それぐらい分かりなさいっ! アンタの頭は空っぽなの!? バカなの!?」
再び怒り出したシャーリー。
――俺は何かを間違ったらしい。取り敢えず、バカなの!? のところは華麗にスルーして、質問に答えねば……。そうしないと命が危ない。
シャーリーの良い所なんて、一杯思いつく。
(伊達に数年間も付き合ってないぜ)
心の中で独りほくそ笑む。
――今心の中に浮かんでいる、シャーリーの良い所を言えば、きっと彼女も感動して、俺を攻めることはできないはずだ!
「シャーリーの良い所。その1、シャーリーはツンデレ」
「はい、消えろ!」
ジュンが言った瞬間、炎の塊から分岐した小規模の火の破片が飛んできた。
「うっわ! ちょ、いきなりですかっ!?」
言葉なんかを口にしている場合じゃない! このままでは黒焦げどころか、本当に死ぬだろう。
急いで双剣を構え直し、全力をもってその塊を切り裂いた。
光の尾を引き、まるで流星のような二本の剣の煌きによって、見事に炎の塊は真っ二つになって空中で霧散した。おそらくシャーリーも手を抜いていたのだろう。
そうでなければ、ああも易々と消し去れることはできなかったはずだ。
「ちっ!」
明らかに、シャーリーの舌打ちする音が聞こえてきた。きっと隠す気もなかったことだろう。
先ほどの“手加減説”が一気に不安なものとなった。
――しかし、防ぎ終わった今は言葉を続けることが先決だ!
「良い所、その2! シャーリーは頑張り屋!」
「……へ?」
シャーリーはジュンの言葉を聴いて、思わず次の魔法を中断した。知らず知らずの内に、頬が熱を持ってゆく。
もう少し続きが聴いてみたくなった。
「その3! 紫の瞳が魅力的!」
「…………」
もう言葉もでない。ただ、ジュンの言葉を聴くことにのみ全神経を集中させる。
「その4! 意外と優しい!」
「意外とって、何よ!」
無意識に反論してしまったが、ジュンがそれに対し、ニッと、余裕ありますな、いつもの笑みを見せたので、どうしても、シャーリー自身も釣られて口元が緩んでしまった。彼のあの顔には、きっと勝てないのだ。そう思った。
もう何だか、覗きの件もどうでもいいような気分になってしまう。
「その5! 俺の仲間!」
それが良い所なのかは不明だった。
しかしシャーリーには、その言葉が何より一番嬉しく感じてしまった。
「その6! ドジっ娘!」
「…………は?」
聴いた瞬間に、疑問符が口から飛び出てしまったシャーリーだったが、それにジュンが気付いた様子はない。
ジュンはそのまま言葉を続ける。
「その7! ピンクポニー!」
「…………」
先ほどとは別の意味で沈黙するシャーリー。彼女の今はロングの髪が不気味に揺れていた。
でもまだ大丈夫だ。我慢できると、シャーリーは思った。きっとジュンにとっては、良い所なのだから、我慢しよう。
「おっと、シャーリー。これが一番重要だから、よく聴けよ。その8! シャーリーは、貧乳!」
ブチッ――何かが切れてしまった音がどこからともなく聞こえてきた。
ジュンが何の音だろうと、当たりを見回すと、発見した。間の前に対象はあった。
ピンク色の髪がまるで炎のように、揺れている。
(あれ、なんかヤバイ? だが、俺は褒めたよな? 貧乳はレア度高いって前にネットで見た気が……)
ゴクリと口内に溜まった唾を飲み干した。タラーッと嫌な汗が顎まで伝い、滝のように地面へと流れ落ちてゆく。
「貧乳。ええ、確かに、私はフィーナ様に比べると、ほんのすこーしばかり小振りですがね。ええ、それはもう、ほんの少し!」
(やけにほんの少し! を強調しているな。もしかしてシャーリーは突っ込み待ちかっ!)
完全に褒めていた気だったジュンは、勘違いも甚だしくそう思い――
「いや、ほんの少し! じゃないだろ。ダイブ! だろ」
ニッと笑顔で突っ込んでやった――その刹那、ジュンの顔があった場所にいきなり火の玉が飛んできた。
瞬間的に顔をずらしギリギリ避けたが、数本の髪の毛が焼けてしまいチヂれてしまっている。焦げ臭い匂いが鼻腔を埋め尽くす。
炎はすでに青白く変色しており、それが超絶的に高温であることを証明していた。
「なんですってぇー!! もう一度言ってみなさい、ジューンバルトォ!」
「ひっ……ご、ごめん、シャーリー。今のはジョーク。そう、ブラックペッパーを程よく効かせたつもりのジョークなんだって! しかも本当に褒めてたよ!」
もうこの場に居てはやられると思い、双剣を元に戻し、ジュンは一目散に駆け出した。
案の定シャーリーも追いかけてきたが、そもそも女と男の力の差や日頃の訓練の成果で、ジュンの方が圧倒的に速い。どんどん2人の距離が離れてゆく。途中でシャーリーが炎弾を放ってきたが、それを横目で確認しながら全て避ける。
ようやく女子寮の出口に到達した――その時!
「そこにいるのは……ジュン?」
この地獄絵図にはあまりに場違いな、鈴を鳴らしたかのような透明な声がジュンの耳に入り込んだ。
声音で誰だか分かってしまったので、すぐさま声のした方を恐る恐る振り返る。振り向いた先には、女子寮の出口の鉄柵を背にしたフィーナがいた。
「な……何でございますか、フィーナ様?」
何故に敬語かというと、どうしようもなく敬語を使いたい気分だったのだ。
ジュンがそう聞き返すと、フィーナは問いには答えず、ムッと可憐な唇を引き結んで彼の傍に近付いてきた。
そしてジュンにそっと寄り添うようかのように佇むと、フィーナは彼の漆黒の瞳をじっと見つめる。
入浴を覗いたという後ろめたさから、サッとその視線を外すジュン。
するとフィーナは悲しげな光を蒼い瞳に宿し、美しい弧を描く眉を心細そうに寄せた。
「あ、いや、そのだな。……ゴメン!」
彼女のその姿を見た時に、ジュンは自分のしでかした事の重大さがよく分かった。素直な気持ちで、そして最大の謝罪の念を込めて言葉を紡いだ。
「え? 何が?」
しかし当の本人は、ジュンの謝罪を理解していないようだった。
「何がって……ほら、覗きの件なんだけど」
「なんだぁ……そのことか」
とても残念そうな声をフィーナがあげた。
何やら謝る内容が違ったようである。ジュンは少しの間、何を謝るべきなのか再検討してみた。しかしどう考えても、謝るべきはあの件しか思い浮かばなかった。
取り敢えず、何かを言おうとして――
「その……」
「あの……」
同時に声を発してしまった。
「お先にどうぞ」
「いえ、ジュンから言って……ください」
お互いにテンパッているのだろう、さっきから慣れない敬語を使ってしまっている。
「いやいやいや、ここはやっぱフィーナから」
「……分かりました。……あ、あの、ジュンは、その……私のこと、嫌いですか?」
――この言葉を聴いた時、俺は自身の耳を疑った。
(俺が、フィーナを、嫌い?)
頭の中にハテナがいくつもいくつも浮かんでゆく。
「なんで! 何でそんなこと言うんだよ、フィーナ!」
無意識なのか、怒ったような声でジュンは言ってしまった……いや、叫んでしまったの方が正しいかもしれない。ちょっと怒れていたのも、事実だった。
自分がいつフィーナを嫌ったことなどあろうか、いやない。と反語だって言えるぐらいだ。
「だ、だって……何だか最近、ジュンから避けられてるような気がしてたから……」
「は? 俺が? フィーナを避けてる?」
本当にジュンには意味が分からなかった。
いつ、どこで、自分が彼女を避けたのだろうと記憶を模索する。結果、該当件数0だ。なんだったら、記憶を司る海馬を取り出して、解析したって構わない。
――俺がフィーナを避けることなんて、絶対の絶対にない! そう断言できる。
「そんなバカな! 俺がフィーナを避けるわけないだろ!」
「じゃあ! じゃあ、何で! 何で最近私の手を握ってゴンドラに乗せてくれないの? 何で私とあまりお話してくれないの? 何でさっきは視線を外したの? 何で!」
突然フィーナが泣き出してしまった。彼女は体をぶるぶると震わせ、ポロポロと涙を止め処なく流している。
顔をくしゃくしゃにしてむせび泣く彼女の姿は、ジュンの心を深く抉った。胸の奥が強烈な痛みに襲われ、地面に倒れこんでそのまま蹲りたくなる。
思い当たった。確かにあったのだ。自分の軽率な行動の結果、それが彼女を苦しめたのだ――。
――ならばここで止まってはならない。俺は言わねばならない、真実を。
「手を握らなかったのは、少し気恥ずかしかったから!」
大声で、ありったけの声で叫ぶ。
その声に、ビクッとフィーナが方を震わせた。
ジュンはそれに構わずに、続きを叫ぶ。
「フィーナとあまり話さなかったのは、覗きの作戦のための下準備をするために他の接点のあまりない女子とか、セレス先輩に女子寮のことを色々教えてもらうため! それと、もしあまり多く話したら、何かの拍子に計画がバレるんじゃないかと思ったから!」
そこで一旦、息を大きく吸う。
フィーナの濡れた瞳が視界に映っている。内心で何度も謝りながら、ジュンは続けた。
「最後に、さっき視線を外したのは、単にフィーナの裸を覗いちゃったから、後ろめたかっただけ! だから本当に、俺はフィーナを嫌ってなんかいない!」
そう――全てを言い放ってから、俺はフィーナのか細い腰に手を回す。彼女の体温が、とてつもなく心を満たしてくれる。
そして、らしくもなく、このような事をしてもジュンは顔色を全く赤くはしなかった。
しばらく……といっても、それが何分なのかといったことは全く分からないが、とにかくそのままギュッとフィーナを抱きしめていると、彼女の体から徐々に震えがなくなってゆき、涙も治まっていった。
やがて、ポツリとフィーナが言葉を落とした。
「……本当に?」
「あぁ」
ぎゅっと力を強める――言葉で伝わらないのなら、全身で真実だと伝えてやるんだ。
もうとっくに、フィーナは俺の大切な仲間だって!
「ジュンは私のこと嫌いじゃない?」
「あぁ。……むしろ、大好きだよ」
言葉を紡ぐと、今度はフィーナの方から力を篭めてきた。
「……嬉しい。私もジュンのこと、大好きだから……」
「そっか……」
フィーナが自身の顔を、胸に押し付けてくる。だからジュンは彼女の小さな頭を優しく撫で、髪を指で梳かした。
くすぐったそうに身をよじるフィーナ。それでも嫌がっている様子はないので、もう少し彼女が落ち着くまでこうしていようと、ジュンは思った。
やがて顔を上げたフィーナがこちらを優しげな微笑と共に見つめてきたので、ジュンもニッと余裕な笑みで応えてやる。
まるでこの空間にだけ、ゆったりとした時間が流れているようだった。
ジュンたちのその様子を、建物の影から見守る1人の少女がいた。いつもはポニーにしている彼女の髪は、今は無造作に下へと流れているだけだ。
シャーリーはしばらく前からジュンに追いついていた。しかしどうにも出て行ける雰囲気ではなかったため、こうして物陰に隠れるようにして佇んでいたのである。
何故か目の奥が熱くなって、涙が出そうになる。
それをシャーリーは唇を噛み締めることで耐え、キッと前を、何も無い前の空間を睨み付けた。
そしてもう一度、そっとジュンたちの様子を窺う。
もうそろそろ、出て行っても良さそうな雰囲気だ。
ぎゅっと左手と、右手にある魔法杖を握り締めて寮の影からゆっくりと歩いてゆく。
「ジュン! アンタもうこんなところにいたなんて!」
姿を見せると同時に、大声で言い放った。多少芝居くさい感じがしないでもなかったが、この際どうでもよかった。
「げっ! シャーリー! ちょっとタンマ!」
こちらに気が付いたジュンが大きな声で待ってくれと言っているが、こんなものシカトでいいだろうとシャーリーは思う。
――私が、どんなにあそこで待ったかなんて知らないくせに……。
「うるさいっ! 黙りなさい! 人間として終わってしまったアンタを丸焼きにしてやるんだから! 覚悟なさい!」
「大丈夫だ! 男としてなら現役だ!」
「死ね、バカ!」
そう言ってシャーリーがエイン・ロッドをこちらへ向けてくるので、ジュンも急いで「リクリエイション!」と唱えてエイン・シェルを復元する。
と、そこで――
「ちょっと待って、シャーリー!」
銀色の髪をなびかせたフィーナが、いきなりジュンの目の前に飛び出した。そのまま彼女は、ジュンとシャーリーに挟まれる形のまま立ち尽くす。
「ちょっとフィーナ! そこをどいて! 今からそこにいる覗き魔を成敗してやるんだから!」
「で、でも私が退くとシャーリーはジュンに魔法を放つんでしょ?」
「そりゃあそうよ! だってコイツ覗きをしたのよ! 私たちの裸を見たのよ! 一発その腐った根性を叩き直してやんないと!」
「うーん、そこはほら、見られて減るもんじゃないし……」
フィーナがまるで言い訳をする男のような事を言い出した。プリンセスは人に裸を見られるのとかに慣れているんだろうかと、変な妄想をジュンはしてしまい、すぐにそれは嫌だなと思った。
そして視線をシャーリーに向けると、キッとそれだけで人が殺せるような視線を送ってきたので、すぐさまサッと逸らした。
「フィーナ! そんな甘い事言ってると、コイツはどんどん付け上がるの! だからこれは、そう、躾なのよ、シ・ツ・ケ! フィーナだって嫌でしょ? 他の女の裸をジロジロ嘗め回すように覗く男なんて」
「うぅ、それは確かに嫌かも……」
ほんのり朱が差した顔つきでそんなことを言うフィーナに、何やら雲行きが怪しくなってきたなとジュンは感じた。
「でしょー! ならここいらで、この腐った性根を直しておかないと、コイツの将来が心配だわ」
コイツと言って指をさしてくるシャーリー。非常に行儀が悪い。しかし指をさすなよと言っている猶予は、どこにもないようだ。
ソローリとした足取りで鉄の柵を通り抜けようと、ジュンが足を踏み出したところ――
ガシッと右肩を掴まれる。
掴んでいる主は、顔を俯けたフィーナだった。
「ジュン。ここは躾けてもらおう? ね?」
「なぁっ!」
ぐうの音もでなかった。
ジュンはただ、あんぐりと口をバカみたいに開けるしかできなかった。
「決まりね! 覚悟なさい、ジュン!」
紅蓮に燃えるロッドを突きつけてくるシャーリーの姿に、諦念の思いしか浮かんでこなかった。
(人間。本当にやばくなったら、命乞いすら言えないだな……)
シャーリーとフィーナによってジュンが引きずられるように運ばれて行った後、ふと物陰から人が姿を現せた。
その人の金色の髪は湿っており、圧倒的な艶やかさを放っている。
夜空に浮かぶ月が見たのは、静かな微笑を湛えたセレスその人であった。
「ね? プリンセス・フィーナ。すぐに分かったでしょう……」
セレスは風で煽られる髪を軽く手で押さえながら、夜空を見上げる。
青い目を微かに細め、彼女は月が今日も綺麗だと、安らかな気持ちで思った。
「……くしゅん。……今日は少し冷えますね」
その後結局、ジュンの同志たち全員も鬼と化した女子たちに捕まり、全員そろって制裁を受けたのだった。
制裁によってズタボロなジュンたちには、罰としてトイレ掃除一週間と、反省文をみっちり書くように命じられた。まあ、退学にならなかっただけマシだろう。
またさらに、何故かサクラリス(学園長)とジュディ(何故かいた女王)の前でパンツ一丁の姿にされ、延々と何時間もエイン・シェルを構えさせられたのである。無論ケンジも参加で、彼は正座だ。
その時にジュンが真剣に感じたのは、自分たちの姿を息遣い荒く凝視するサクラリスとジュディの姿こそ、真に糾弾されるべきじゃないかということと、これは本当に罰なのだろうか――ただの趣味なんじゃ――ということだった。
こうして、ジュンの反逆は終わりを迎えた。