プロローグ 『平和の国』
遥かなる未来、洸暦――洸とは、まるで水が広がるかのような薄い光。
強すぎる光ではなく、淡く、優しく、そして長く輝いてゆく未来になるように。
そんな願いの基、人間たちが定めた暦である。
しかしそんな想いとは裏腹に洸暦342年において、人類は最大の禁忌とされる『第三次世界大戦』を勃発させた。
戦争により地球上の生命体のおよそ70パーセントが死滅し、地球自体とても生命が住める環境ではなくなってしまう。
核によって汚染された大気、水、食物。人は長らくシェルターの中での生活を余儀なくされる。
それから50年ほど経った洸暦398年に、人類は新たな生活の場を求め宇宙へと進出した。
不断の努力と苦難の末辿り着いたのは、未知なる星。この星を『PEACE』――平和と名付け、人類は新たなる国『平和の国』を建国したのだった。
この洸暦398年から100年ほど経ったある日。
洸暦503年の4月11日から物語は始まる。
――平和の本当の意味を知るために。
どこからか大きな音が聞こえてくる。
ヴィオラパートが重厚で厳かな旋律を奏で、第一小節目から低音によるコラールが入ってくる教会楽曲『いざ来ませ、異邦人の救い主よ』。かの有名な音楽家ヨハン・セバスティアン・バッハ――通称『大バッハ』の大昔の大作だった。
音源はどうやら、『俺の部屋』と殴り書きされた紙がドアに張ってある部屋の中にあるようだ。
案の上、室内はあの厳格で壮大なメロディに包まれていた。
曲は携帯電話の進化型『ホログラフォン』の目覚し機能として登録されてあるようで、机の上で激しく震えながら、音を発している。
そのホログラフォンのホログラム機能によって、空中に8時00分と表示されていた。
「……オーケー、止めてくれ」
くぐもった声が布団の中からあがった。この声を認識すると、机の上に置かれた『ホログラフォン』は目覚ましを止めた。
音声による認識機能がこの新型携帯電話には付いている。
その認識パターンは数千万を超えており、集音域も最大半径100メートルほどまでと、かなりのモノだった。
「くぁ~あ……、ねみぃ。昨日徹夜で『F・S』をやってたからなぁ……。しょうがないよな、後5分だけ寝よう……」
一瞬起きたかと思えば、言い訳がましい前置きをした後、また微かな寝息を立て始めた。
その寝顔はまだ少し子供らしさが残る少年のもので、声の音質も年の頃は17か18ぐらいのものに感じる。
艶やかな黒髪がスッと前に垂れており、その顔つきは中性的。それなりにカッコいい部類と推測された。
「すぅ……すぅ」
規則正しいが、寝言だか、寝息なんだか判別できない呼吸。それからすぐに寝返りをうった。
それでも余程眠いのか、下半身がほとんどベッドから落ちた状態になっても少年に一向に起きる気配はない。
しかしこの朝のまどろみの一時の終焉は、あっけなく訪れることとなる。
突然ドタバタと階段を駆け上がる音が聞こえたかと思うと、いきなり乱暴にドアが開いた。
「ジュン、ジュンー起きて!」
扉を開いた訪問者は、いまだ夢の中を散策している少年の愛称を叫びながら大きく体を揺すり始めた。
揺すっているのは、ピンク色の髪をポニーテールにして腰の少し上まで伸ばしている少女だ。瞳は吸い込まれそうな紫をしている。
歳は少年と同じぐらいだろうと身長や、声音から窺えた。
「ええい、もうめんどくさい。いいかげんに、起きろぉージューンバルト!」
何度叫んでも揺すっても、全く起きる予兆のない少年――ジューンバルト・ソリドールにさすがに痺れを切らしたのか、ほとんど床に落ちている状態の彼の下半身を一気に引き摺り下ろした。
これにはさすがのお寝坊さんも、敵わなかったらしい。
「はいはい……わかりましたよ」と言って、スクッと起き上がった。
しかし彼が起き上がった次の瞬間、ズルッと何かが衣擦れのような音が耳に付いて。
「……っっっ!?」
瞬く間に少女の顔が、自身の髪の色に余裕で勝ちそうなほど赤く染まってゆく。
そしてあの紫電をたたえる双眸が、ある一点で完全に動きを停止していた。
「おいっ! なんで脱がせるんだよ!」
彼女から愛称のジュンと呼ばれた少年が、思わず怒りの声を上げる。
見ると、彼のズボンが下まで脱がされていた。それもトランクスも同梱で、だ。彼が起きた瞬間に、彼女はまだズボンの裾を掴んでいたため奇しくも少女が下ろし、少年が下ろされたという構図が完成してしまっていた。
「い、いいから早くっ、速くズボンを履けぇ!」
真っ赤なリンゴのような顔をした少女が、ものすごい速さで後ろを向く。
声には多少の涙が混じっていた。
「つーか、シャーリー。お前が出てけば、問題は解決するんじゃないか? ついでに着替えたいし……」
テンパっている少女――シャーリー・クロフォードはその言葉にハッと顔を上げ、いそいそとドアの外に消えていった。本当に気付いていなかったらしい。
ジュンはその光景を微笑みと共に見送りながら、さっさと自身の着替えを済ませてしまう。その動作はとても無駄がなく、且つ速いものだった。
十秒もしないうちに、仕上げとばかりに黒の学生服をワイシャツの上に被るジュンが存在した。
これほど速い着替えには訳がある。それは彼がよく遅刻寸前で着替えを行っているため、どうすればより速く着替えられるかを追求した結果だった。
――何とも情けない理由なことで。
「ほんっとにサイテー……」
ムッと頬を膨らませながら朝食のパンを齧るシャーリー。ピンクの髪が独自の意思を持つかの如く、怒りに揺れている。
今しがたの声はジュンが下へ降り、顔を洗ってから、リビングに入った直後に聞こえてきた第一声だ。
そんなリビングの中央に置かれたテーブルでは、すでに二人の男子学生が各自の朝食をとっていた。
二人の学生のうち、一人は金髪朱眼のすらっとした長身とクールで精悍な顔だちの青年。もう一人は栗色のクセ毛が乱立している、メガネをかけた少年だった。
青年はレオン・メイクラフトといい、少年はケンジ・スオウインという。
二人とも――いやこの場に居る全員が同じ年齢の十七なのだが、その中でもレオンだけが少し大人びて見えた。
「どうしたの? 朝から何かあった?」
彼女の怒気を含んだ声に、最初に反応したのはケンジだった。当事者であるジュンもすでに顔を洗面所で洗い終え席についていたが、彼女の自分に向けての敵意丸出しの声に反応できずにいた。
そしてケンジの隣に座る金色の髪をした青年――レオンはこういうことにあまり口を挟むようなタイプではないので、ベーコンを丁寧にアスパラガスに巻きつけながら食し、我関せずの態度を貫いている。
「それが――」
シャーリーが事の顛末を語りだした。
話は変わるが、今ジュンたちがいる場所は学校の部室。学校には研究と嘯いて、頻繁にここで寝泊りしていた。
だから、これがいつもの『コスモ探求部』の朝の風景だ。
コスモ探求部とはジュンたち四人が所属する部活の名前で。活動人数、入部人数四人と、実質ジュンたちのためだけに存在しているような部活だった。
といってもこれは当然のことで、彼ら四人は学校の成績上位の四人であり、その褒賞として、部活の設立を許されている。
コスモ探求部は、その褒賞として創られた部なのだ。
この豪華な部室は、主席の者にのみ与えられる研究施設の増設権限を使って建てられた。
またこれも余談であるが、その栄光ある成績第一位にはレオンが君臨しており。入学以来ずっと、だ。この成績とは全学年統一で上は24歳まで、下は15歳までで同じ基準で測られる。
さらに単位取得も、褒賞の条件に入っているため、まだ随分と若い彼らがこの成績とは信じがたいものだった。
しかし当然、この若者たちの中でも順位はあって。レオンに続く形で、第二位がジュン、第三位はシャーリー、そしてケンジは第九位となっている。
努力家でオールマイティーなレオンに、柔軟な発想重視のジュン、文型や芸術に特化したシャーリー、メカニック一直線なケンジ……と妥当な線だ。
それにしても、おかしなことが1つ。
本来、成績上位者十位までがこの褒賞を受け取れる。故に、この四人は自分の好きな部活という名の遊び場を形成できるというのにも関わらず、そうはせず。全員が同じ部に入り、同じ研究所で寝たり、朝食をとったりしているのだ。
頭はいいが、なんともおかしな集団だと周囲からは認知されていた。
「でさ、昨日は『ファイトシミュレーター』やってて徹夜だったわけよ。それなのに……それなのに、あの脳内春色ピンクは、俺の高尚な睡眠時間を奪ったってわけなんだ!」
朝食を食べ終わったジュンは、今朝あったことをケンジと熱く語り合っていた。
……いや、愚痴っていた。それもジェスチャーつき。
それはファイトシミュレーター――通称『F・S』と呼ばれる疑似体験型アクションゲームを徹夜でやっていて、とても眠いんだ! というところから始まっていた。
何故に先ほどまで縮みこんでいたジュンがいきなりそんな暴挙に出たかというと、天敵であるシャーリーが洗い物のために席を外しているから。
なんとも情けない理由である。
「うん、睡眠は大切だよね……特に朝一度起きてからの五分が非常に重要だよね」
ケンジがメガネの縁をクイッと持ち上げながら同意した。彼がジュンと反対の意見を言うことは滅多に無い。
これは彼がジュンに対して感じている恩から来るものなのかは、いま一つ判断しかねる。
だがケンジが、ジュンのことを大切に思っていることは言葉の端々から十分に伝わってきた。
「そうっ! そうなんだよ! やっぱわっかてるなぁ、ケンジは」
しきりに首を縦に振っているジュン。
それを傍目に、ケンジはニコニコと笑いながら手元にあるパーツを組み合わせていた。
「そういや、もうじきできるのかソレ?」
ジュンはケンジの手元に置かれた、先端の尖ったナイフのような物を指差している。
その質問に対しては、一人静かに読書をしていたレオンも気になるのようで。朱色の目を細め、ジュンたちを見ていた。
「うん。もう少し振動数の上昇と、音波による影響の削減さえできれば完成かな」
少し興奮したように語るケンジ。
彼は重度の機械マニアで、様々なものを創っては保存、創っては試し、また創るといったことを延々と繰り返している変人だ。この流れの中に捨てるという選択肢が無いとこが、マニアの所以であった。
「それなら後で一度フォノン解析をして、微調整を行えばいいな」
レオンもケンジの熱に当てられたか、賞賛を色濃く含む声で言った。彼の言葉を聞いたケンジが、晴れやかな笑みを浮かべる。
我が子のように開発してきたケンジにとって、自分の子を褒められて嬉しくない親がいるはずがないのと同じ理由だ。
ケンジは昔、独りで物を造っているのが幸せなんだと思っていた。
自分以外の人の為に物を造ろうとも思っていなかったし、造る事はないだろうと思っていた。結果的に世間の役に立ったとしても、その本質はゆるぎないものだと信じていた。
しかし今の彼にとっては、ジュンやレオン、そしてシャーリー。彼らと一緒の空間においてある種の団欒を満喫し、そこで物をつくるのがとても楽い。
彼らと共に時間を過ごし始めた時、自分の幸せな事が――。
『独りで物を造る』ことから、『共にモノを創る』ことに変わったんだと思う。
「よっしゃ! できたら、俺に使わせてくれよ!」
喜びの声を上げるジュン。
そして昔苛められていたケンジを無理やり引っ張って自分たちのグループに入れた時のことを思い出した。
当初、彼とシャーリーとレオンの三人のメンツであった。そこにケンジが加わるとジュンが言った時、他の二人は難色を示した。
新しい人手が欲しいわけではないだろう、とそんなことをレオンは言っていたし。シャーリーも口には出さなかったが、賛成ではない雰囲気を構築していた。
確かにジュン本人も、あまり人数が増えるのをいいことだと思っていなかった。
何故なら、彼らが優秀だったからだ。勉学だろうが、芸術だろうが、スポーツだろうが。とにかく優秀過ぎた。そんな優秀な三人に付いて来られる同年代の人間は、この学校にほとんど存在しなかったのである。
だからメンバーに入ったはいいが、肩身の狭い思いを与えてしまうのではと不安に思っていたのだ。
しかし、ジュンは知っていた。
ケンジの造る機械が、とんでもなく高度なものであるということを……。彼が作業しているところを何度か見たジュンは、それが自分にもできないことだということを知っていたのだ。
だから、彼なら大丈夫だと確信し。
その旨をシャーリーとレオンに伝えると、二人ともその高度な機械を見てみたいと言って。実際に見た時は、二人揃って驚いていた。
まぁそれもしょうがないだろう。
なんとケンジは、このピースランドの最先端の技術を使っても造れないでいた音声認識の集音機能を、たった一人で創り上げていたのである。
コレを見た二人は今までとは打って変わり、手放しにすごいすごいとケンジを褒めまくり。あのレオンまでもが珍しく熱血していたのには、けっこうびっくりしたものだ。
それからだ。未だ孤独であろうとする少年を、今度は三人で引っ張っていったのは。
「うん。もちろんだよ」
かつて孤独を愛した少年はあの頃と変わり、十分に社交的な性格であり。
明るい表情で、ジュンの言葉に頷いていた。
「ふぅ、やっと終わったぁ~」
ピンクのポニーを揺らしながら、ベターっとテーブルにダイブしてくるシャーリー。
洗い物で相当疲れたようだ。
「相変わらず、シャーリーは家事苦手だなぁ」
そんな様子を見かねた黒髪の少年が呆れたような声をあげた。彼女が洗い物を開始してから、すでに一時間が経っていた。朝食の片付けだけなのにそんなにかかるなんて、ちょっと信じられないが、それほど彼女は家事が苦手だった。
女の子であるくせに、家事のジャンルに限ってトコトンダメダメなのだ。
まず料理。匂いを嗅いだ途端、意識混濁。
次洗濯。洗濯機爆破、洗濯物消失。
次窓拭き。窓パリン。
次掃除機。全てを吸引。
次――と続くわけだが、そんな中で唯一なんとかできるのが食器洗いだった。
そのため、この研究所にいるときは全て当番制で役割を回しているが、彼女だけ洗い物以外の家事類の仕事は一切与えられない。
もし与えたならば……天然の『パウリ効果』――パウリという物理学者は実験の最中何度も実験器具を壊すことで有名で、その壊れ方がなんとも不自然なので『パウリ効果』と呼ばれ親しまれる――に遭遇することになるんです。
「しょうがないでしょ。こればっかりはほんと意味がわかんないんだから……」
そうは言ってもやはり悔しいのか、下唇を少し噛む仕草をしている。
「まあ、パーフェクトな人間よりも多少欠点があったほうが魅力的ってもんだ」
だから少しフォローを入れとくジュン。彼女がまたいつかのように暴走して、『今晩の料理は任せて!』などと言い出さないように……。
「え? そう? ほんとうに?」
ジュンの言葉を聴いたシャーリーは急に身を乗り出して、彼に詰め寄る。
正直に言うと、とてつもなく嬉しい気持ちで一杯だった。ジュンの口から魅力的なんていわれる日がこようとは思ってもみないことだったからだ。
彼の漆黒の瞳が、自分だけを写している。
だいぶ前、そこに新しい感情が芽生えたが、それを何と呼ぶのか理解できなかった。理解したのは、その感情は痛みを伴うという事だけだ。
ジュンはシャーリーにいきなり顔を寄せられて、少し驚いていた。
彼女は学校の女子の中でもかなり可愛い部類だ。特にあの魅力的な紫電に見つめられると、その視線を外せなくなることがジュンにもたまにあった。
「なぁ、そうお前らもそう思うよな、な?」
だから急ぎ顔を目の前の席に座る二人へ向け、口早で捲くし立てた。
「ああ。確かに、パーフェクトな人間というのも味気ない気がする」
「うん、そうだね。パーフェクトな人と一緒だとかえって、疲れちゃいそうだしね」
レオンの方がケンジよりも少しだけ、熱心に言っているようだ。彼の真剣そうな朱眼が、シャーリーのことをじっと見つめている。
「うんうん。だよねだよね! よかったぁ」
そんなレオンの視線には気付かずに、安堵の声を漏らすシャーリー。
気付いてくれなかったが、それでもレオンは満足だという顔をしていた。
「別によくはないだろ。よくは。僕たちも男ですから女性の手料理とか憧れちゃうわけですよ。それなのに……シャーリーがその夢を木っ端微塵に吹き飛ばしたんだぞ。……あれは地獄だった」
しかしそんな空気をちっとも読んでいない黒髪の少年J君が、ニッと口の端を吊り上げながら爆弾を投下しました。
和やかなムードが一転。シャーリーが自身の髪に負けない真っ赤な顔でジュンを追い掛け回す構図が完成。
――だけど、四人ともが笑っている。それも有る意味怖い絵だが。
――この光景を見ると、もしかしたら先ほどの推察は間違いで、彼は一番場の空気を敏感に察していたのかもしれないと思えてくる。
あのレオンの満足げな顔は。
確かに満足そうではあっても、決して笑顔ではなかった……。
しかし、今はどうだ。
レオンもケンジもシャーリーも、そしてジュン自身も、四人全員が楽しそうに笑っていた。
「よしっ、できた!」
時計の針がちょうど12時を指し、あの『シャーリーと鬼ごっこ』から2時間ほど経過していた。この時間になると、今日は休日なのでみんなそれぞれ色々な過ごし方をしている。
レオンは読書を終え予習をやっており、シャーリーはクッキング本『はじめての手料理』を読み進めていて、ジュンは大きめの機械の帽子を被りファイトシミュレーターに熱中していた。
そんな中でいきなり大きな歓声をケンジが上げるものだから、三者三様にビクッと反応を示した。
「どうしたの?」
「どうした?」
「どうかしたのか?」
上から、本を閉じシャーリー、帽子を外しながらジュン、ペンを止めレオン。
「やっとできたんだよ、宇宙開拓用ナイフが」
ケンジがそっと手を前に出す。前を見ろということだ。
皆がそれに従うと、そこには一振りの小型のケースが置かれていた。形状からして、ナイフがその中に入っているだろうと思われ。
「おおっ、やったか!」
「すごい、すごい!」
「ついにできたか!」
三人ともケンジに負けず劣らず、熱気を持った声をあげる。特にジュンなんか漆黒の瞳が、まるで黒曜石がキラキラ光っているかのように輝いていた。
「うん。あとはレオンにフォノン解析してもらって、安全性に問題はないか、調べてもらうだけ」
そんな三人の賞賛を浴びるケンジは、いつもに増してウキウキとしたテンポで話している。
今、この空間を支配しているのは、喜びだけのはずだった。
――次の瞬間までは……。
急に辺りが暗闇に包まれた。
すぐさま静寂がこの空間を掌握し――。
「……雨?」
研究所リビング区画の窓から、外を見たレオンがぽつりと呟いた。
「は? そんなわけ……」
ジュンはそんな言葉を受けて、自身も窓辺に寄っていき――そして固まった。
「……雨だ」
「え? ……ほんとう」
「そんな、まさか……」
そんな不自然な二人に触発されて同じく窓辺に近づいてきたシャーリーとケンジも、信じられないものを見て驚いている。
信じられないもの――それは『雨』だった。
この人類第二の故郷であるピースでは、『雨』が降らなかった。それ以外の環境体系は地球とそっくりなのに、『雨』だけが一度も降ったことが無いのだ。
移住当初、水は地表より無限に湧き出ており。それを利用していたが、それだけでは不便なので、人間は人工的に『雨』を降らせる装置を完成させた。その装置の本質は、太古の昔行われていたと聞く『雨乞いの儀』に近い――詰まるところ、火を焚くことで上昇気流を生み出しそれにより雨雲を形成するといった類のもので。
だから『雨』の周期は、統一国家ピースランドの政府によって管理統括されているはず。
そして今日、洸暦503年の4月11日は『雨』の日ではなかった。
「今日って『雨』の日じゃなかったよな……?」
その声は疑問系だが、声の主ジュンは今日が『雨』の日えないことを知っていて、あくまで確認をしているようだ。
彼の声が先ほどまでとは違う意味で、少し震えている。
「ああ、そうだな。今度の『雨』の日は、来週の木曜だったはずだ」
冷静に言ってのけるレオンだったが、やはりジュン同様その声音は少し上ずっていた。
「それじゃあ、まだ9日もあるよね……?」
不安げに尋ねているシャーリー。普段強そうに振舞っている彼女だったが、実は結構な怖がりなのだ。
「そうだなぁ。とりあえず、外へ出てみないか? 様子が気になる」
他の三人の顔を見渡しながら、ジュンはそう提案する。いつも余裕そうな表情をしている彼も、今の状況を完全には処理できず少し困惑している様子だ。
ジュンは一同がその言葉に頷くのを確認すると、先ほどまで熱気の矛先だったケンジ作の宇宙開拓用ナイフを掴みとる。もしものためだ。
「万が一に備えて、これ持っていっていいか?」
「うん、いいよ。最終チェックは終わってないけど、最低限の安全性は問題ないはずだから」
ケンジのその言葉を聴き終え、研究所の玄関へ歩きだすジュン。彼に続くようにして、シャーリー、レオン、そしてケンジの順で歩きだした。
「気をつけろよ、ジュン。はっきり言ってこの状況は、日常ではない……」
鋭い声でレオンが言い放つ。心配というよりも、いつも軽はずみな行動をすることが多いジュンをたしなめている印象が強い。
突っ走るジュンと、彼を制止するレオン。コレが彼らの関係だった。
そんなレオンだから、ジュンは全幅の信頼を寄せている。彼は別に思慮が無いわけで軽はずみな行動をしているのではない。しっかりと考慮した上で、行動を起こしている。
ただ、たとえそれが『危険』な行動であったとしても、必要ならばやるしかないと彼は割り切っているだけで。
そしてその行動が本当の意味で『無謀』であるのならば、必ず、レオンが自分を止めてくれると信じているからこそのモノだった。
ジュンを止めるのはレオンの役目。これがこのグループの暗黙の了解でもあった。
シャーリーはただ一人の女の子ということもあり、男である自分たちが守ってやらねばという妙な観念も働くし、ケンジは腕っ節があまり強くないため、前ではなく後ろからサポートすることが多く。そのため自然とこの形になっていた。
ジュンはこの連携をとても気に入っている。
自分が心置きなく行動できるのは、レオンの助言と相棒としての力や、ケンジのサポート、シャーリーを守らねばという強い意志――これらが常にある御蔭だと思っているからだ。
「わかってるよ。これは明らかに非日常だ。さっきホログラフォンを見たら、通信不能になっていたしな」
先ほどのことがニュースになっていないか、さっきホログラフォンをチェックしたジュン。すると画面から通信不能の文字が浮かび上がっていることに気が付き、言葉を失ったものだ。
『ホログラフォン』において、圏外という概念は存在しない。『ピース』のどこであっても通信が可能なように造られているはずだ。
超衛星探査システムを使っているので、すべての地域をくまなく網羅しているのだ。
それがバッテリー以外の問題で通信できないとなると、もはや完全に異常事態だと認識しなければならなかった。
「え?」
驚きを前面に思いっきり押し出したような声を、ケンジがあげる。なんせこのホログラフォンの製作にはケンジ自身も深く関わっていたため、この通信不能の異常さがこの中で、一番理解しているのであろう。
「ほんとだ……」
シャーリーが自身のホログラフォンを見つめながら呟いた。とても不安そうな声音で。
「ははっ、大丈夫だって。そんなに心配するなよ。雨が降ったせいで一時的な通信障害に陥ったのかもしれないし、この雨だって管制局の手違いだって可能性が一番高い」
この不安げな雰囲気を払拭しようと、ジュンが底抜けに明るくおどけて見せた。しかも張り詰めたような顔ではなく、本当に大丈夫そうな、いつもと変わらぬ表情を浮かべて。声も先ほどとは違い、まったく震えてなどいない。
その姿は聞いている者、見ている者、その全てを安心させるかのようなものだった。
「ああ、確かに。その線が一番妥当だろう。心配するほどのことでもない」
レオンは、ジュンが本当はやせ我慢していることに気付いていていたが、敢えて優しい肯定の言葉を投げた。他の二人を無闇に心配をさせる必要もないからだ。
そんな二人の対応に、不安そうだったシャーリーも落ち着きが無かったケンジも、二人ともがいつも通りの態度に戻っていった。
やがて一行は出入り口に到着した。
外は、想像以上に真っ暗な世界だった。
思わず身構え、ナイフをいつでも抜けるような体制を取るジュン。
「よし。じゃあ俺が行ってくる。安全そうだったら呼ぶから、それまで待っていてくれ」
このままでは埒が明きそうにないので、そう言い残しジュンは研究所の外へ出て行った。
空間の把握能力はジュンが仲間内でもずば抜けて高い。要するに適材なのだ。
持ち前の鋭敏な感覚を頼りに、辺りに危険が無いかを確認する。外はとても暗かったが、危険な気配は無い。危険な気配が無い代わりに、確かな雨の感触が感じられる。
ジュンは自身の手に付着した水滴の匂いを嗅いでから、それを微量舐めた。しょっぱい水の味がする。
少し塩味が効いているそれは、間違いなく雨だった。
確認してから周囲を見渡す。暗くてよくは見えないが、別段変わっているものはない。日常の夜のような風景が、目の前には展開されていた。
「おーい、お前ら。出てきても平気だぞぉ~」
ナイフをいつでも抜き放てる体勢は崩さないまま、仲間を呼ぶ。
しばらくして、パシャパシャと水を掻き分ける音が辺りに木霊した。どうやら、声を聞いた他の三人がこちらへ向かってきているようだ。
しかしそのままゆっくりとした歩調で進んでいたジュンは、突然の異変に気が付いた。
いきなり雨が消えたのだ……いや、消えたのではない。降っていないのだ。
ある場所を境界線に、ピタッと雨はやんでいて。
それはまるで、世界を隔てる壁があるかのようだった。徐々に視界も晴れ渡ってゆく。この現象は、はっきり言って異常以外の何物でもなかった。
急いで後ろを振り返るジュン。
視線の先には、真っ黒な壁が天高くそび。向こう側は全く見えない。そしてただ、他の三人が水を掻き分けて歩くことで生じた『パシャパシャ』という音だけが聞こえてくる。
「お、おい! みんな速くこっちに来い! 走れ!」
まずいという思いが漠然と湧き上がり、叫び声に近いものを上げた。
だが、その叫びは間に合わなかった。
「う、うわぁー!」
突如ケンジの悲鳴が響き渡る。
やはり何かがあったかとジュンは悟った。悟ってからの彼の行動は異常なまでに速かった。
素早く身を翻し、黒い壁に突進していく。鍛え抜かれた筋肉の反応速度――瞬発力が学校の中でも最速クラスであるジュンは、100メートルを6、7秒台で走っているかのようなスピードで暗闇の中を駆け抜ける。
――間に合ってくれ……。
その願いだけが、彼の脳内を占めていた。
「キャーッッ! ケンジ!」
今度はシャーリーの、耳にこびり付くような甲高い声が聞こえてくる。声がした方向へ、ひたすら全力で走った。
「ケンジ!」
風を切る音に加え、次はレオンの声が耳に入る。いつも冷静な彼があんなにも声を荒げるなんて、相当とんでもないことが起こっているであろうと推測された。
「くっ、いったい何が……」
雨が肌に纏わり付いているようで、気持ち悪い。制服もすっかり濡れて、その重みを増している。とても軽いはずのナイフも、今はかなり重たく感じられる。
それでも我武者羅に走るジュン。彼にはそれしかできないのだから……。
(くそぉ、俺がもっと、ちゃんと確認しなかったから!)
今このときもみんなが危険に巻き込まれていると思うと、ふつふつと焦りが心の中に吹き上がり、思考をどんどんマイナスなモノへ染めてゆく。
「れ、レオン! それ!」
またしてもシャーリーの悲鳴が、ジュンの耳に飛び込んできた。無意識のうちに『マズイマズイ』と呟くが、そのことにさえ全く気付く様子はない。
「くっ!」
何としてでもシャーリーだけは守りたい。この思いが、レオンの中にはずっと昔から存在していた。その思いがいつからだったのかを思い出す事ができないほど、幼い頃からずっと。
今も自分を引っ張り出そうとしてくれる、本当は怖がりで心配性の彼女の紫の瞳を見つめる。その眼に映るの人が、自分だけであって欲しいと何度思った事だろうか……。
そしてそれが自分ではない、黒髪の少年に向けられている事もずいぶんと前から分かっていた。
だが、長年持ち続けたこの気持ちに一片の不純物も混入してはいないし、思い続ける事を後悔した事もないと断言できる。
後悔している事があるとするならば、このような事態へ巻き込まれる前に、彼女だけでも逃がしてやれなかった事と、自分の中で燻る熱い思いの丈を伝えなかった事だけ。
――だから、俺は離さなければならないんだ。彼女の手を。
「シャーリー、手を離してくれ……。このままでは君まで巻き込まれてしまう」
「いやっ!」
彼女の声を最後に聞けたのだから、満足だ。泣き声だったが、こんな不甲斐ない自分の為に泣いてくれる彼女を絶対に守りたかった。
そしてこの思いは、彼女が今叫ぶようにして呼んだ黒髪の少年が継いでくれる――そう信じている。
――だから俺は、手を無理やり離すんだ。
ジュンはレオンの苦悶の声を聞いた。
「レオン!」
ようやく漆黒の視界の端に写った金色の髪に向かって全力で走り寄りながら、湿った黒髪を振り乱すようにしてありったけの声量で叫ぶ。
しっかりと見えた光景は、異常だった。もやもやとした暗闇が彼の体を包むかのように漂っていて、段々とレオンの体がその闇に飲まれ、体の組成を消去させられている。
「ジュン!」
こちらに気が付いたシャーリーが、切羽詰ったように叫んだ。今の彼女はレオンの体を暗闇から引きずり出そうと、必死の形相を浮かべている。
しかしどんなに引っ張っても一向に動く気配がないどころか、逆に彼女の体までも引きずり込もうとするかのように闇が胎動していた。
「待ってろ! 今行く!」
彼女の苦悶に歪んだ表情を見て、今まで以上の力が全身に満ちる感覚を感じた。もっと速く走れるはずだと、自分に言い聞かせる。そうしなければ、心が折れてしまいそうだった。
(もっと速く、もっと、もっと!)
そんな思いもむなしく、彼がシャーリーたちの場所に辿り着いた時、すでにレオンの姿はどこにもなかった。
ただ、一人取り残された少女がその顔を涙で濡らしている。ピンク色の髪に良く映えるはずの紫眼も今は、腫れて赤くなっていた。
「はぁ、はぁ……シャーリー」
掛ける言葉が何も見当たらず、自然に身を任せるように、名前を音にした。
「うっく、ひっ、うぅ」
それでも泣き続けるシャーリー。
本当ならばここはいったん雨空間の外へ出て、体勢を整えるべきだ。そう頭では理解していても、行動に移れないジュン。
「…………」
そっと無言で、彼女の肩に手を掛ける。
「れ、レオンも、ケンジも二人ともいなくなっちゃった……。レオンなんかこのままじゃ私まで引きずり込まれるって、手を離しちゃうし……」
シャーリーは涙を必死に抑えながら、たどたどしく言葉を紡いでいた。彼女の声からは自分の無力さに打ちひしがれているような印象を受ける。
「ああ、そういうヤツだよ……アイツは」
ジュンは自分の身も、そしてシャーリーの身もそれら全てが、この空間を支配する雨の闇に飲まれていくのを感じた。もう全てが蝕まれるのも時間の問題だろう。
おそらくシャーリーもそれが分かっているのか、彼女は少年の体にギュッとしがみ付いている。震える彼女の細い腰に片手を回し、もう片方で頭を撫でた。
自分は守らねばならない立場だというのに。それなのに仲間を守れなかったという後悔だけが、ジュンの心を埋め尽くす。
しんしんと天から降り注ぐ泪。
それだけがピチャピチャと規則正しい音の羅列を奏でている。
酷く悲しげな楽曲だなと、薄れゆく意識の中で、確かにそう感じ――。
――途切れた。
高校生なので、文章的に未熟で、更新もスローペースになると予想されますが、頑張って書ききりたいと思っています。
今度ともよろしくお願いします。