第2話 『餌とは……』
「ちょっとケンジ、アンタ大丈夫?」
シャーリーがケンジの顔を覗き込みながら、心配そうに尋ねている。
ただでさえ白めのケンジの顔は睡眠不足のせいか、いつもより数段白くなっており、青白くなっていた。
貧血で倒れないか、注意が必要だとジュンは思った。
「うん。大丈夫、今日って始業式なんでしょ?」
眠そうに目を擦りながら、フィーナへ訊くケンジ。
今ジュンたちはフィーナの部屋にいる。あの一件の後、ようやく事なきを得て、なし崩し的にこの部屋に入る事になったのだ。
そしてレオンとケンジの野郎2人が、雰囲気が落ち着いた頃に、ササッと姿を見せたときはジュンの心の中に殺意が湧きあがった。
だが、『お前が俺たちをダシにしようとしてたのは、ちゃんと聞いていたぞ』と先にレオンに言われ、口を噤むしかなくなったジュンであった。
「そうだよ。でも学園長の話、とても短いから、すぐに終わっちゃうけどね」
言った後でフィーナは優雅に、コップに入った紅茶を口に含む。
フィーナの台詞にガーンっとショックを受けるケンジに向かって、ご愁傷様の思いを込め、合掌。
「アーメン……」
一応、神父にも言っておいてやる。
「どこに神父がいるんだよ……」
その小さな声をあざとく聞きつけたレオンが、冷静なツッコミを入れてきた。
アーメンとはアメンともいう。神父が祈りの言葉を言った後に、民衆がそのとおりだと言ったことが語源だ。
「いいんだよ。こういうのはノリで」
しかし今はそんなことはどうでもよく、目の前の金色の青年にもいつか、ノリというものを理解してもらいたい。
この素晴らしき文化を理解できる心豊かな人材になって欲しいと、ガラにもなく親のような感情に陥ってしまう。
その瞬間、ギロッと鋭い視線を感じた。
思わず飲んでいた紅茶を噴出しそうになる。
相変わらずレオンのヤツはこういうのには、本当にめざとい。そして紅茶は美味い。
「ところでフィーナ。今日から通う学園ってなんて言ったっけ?」
レオンの視線をさらりとかわす意味でも、話題を提起する。
今日から学園に通うことになったはいいが、肝心の名前を聞いていなかったことを思い出したのだ。
名前は大切だよね……たぶん。
「エルデリアよ。『王立魔法魔装学園エルデリア』。でも長いから、みんなは『エルデ』って略して言っちゃってるけど……」
「エルデリア――エルデか……なかなかいい響きだな。なんか楽園みたいで」
エルデ、ここに通うのか。
学園長の話だと、この学園の中に元の世界戻る方法を記してある書や、知っている人がいるかもしれないとのことだ。
ジュンとしては、もうすでに1つの踏ん切りが付いているので、ゆったりと構えて、模索していきたいと思っている。
レオンやシャーリーやケンジも、きっと自分と同じ考えだと、彼らのワクワクしている顔から見て取れた。
あの時――帰れないと絶望していた時を、しっかりと乗り越えると、案外、元の世界に戻る事は後でもいいかと思ってしまったジュンなのである。
そして何より、もう少しだけでもフィーナと一緒にいたいと感じてしまったのは、絶対に内緒であるが。
「今日の放課後にね、フィーナが私をエイン・ロッド専門のエンチャンターのところへ連れて行ってくれるのよぉ~いいでしょ?」
空になったコップへ紅茶のおかわりを注ぎながら、ピンクポニーが自慢げに語ってくる。
思わず、その後ろに垂れている馬の尻尾のようなピンクの髪を思いっきり引っ張ってやろうかと思ってしまった。
「へっ、俺たちは別にエイン・ロッド使えないから関係ないねぇ~」
ジュンはその衝動を紅茶を飲むことで抑えつつ、強がって見せた。
本当は行ってみたいし、見てみたい……。
「え? ジュンたちは行かないの? 工房は魔装専門のエンチャンターも一緒の場所だから、付いて来ない?」
その空気を読んだわけはないが、絶妙なタイミングでフィーナが提案してくれた。
これで、口実ができる。自分たちも行くっていう口実だ。
だが、ここですぐさま食い付くのは早計にして、愚の骨頂。
餌とは、撒かれてから30秒の間が大切なのである。紅茶が半分ほど残っているコップを指の微かな動きで弄びながら、じっと待つ。相手がより譲歩をするのを待つのだ。
「…………」
「ジュン、一緒に行こうよ? 他にもいいところへ連れてってあげられるから」
ほら、餌が増えた。
ニタリ――と自分の顔のほくそ笑んでいるのが、紅茶の水面に映っている。
「……しょうがないな……そこまでフィーナが言うなら、行ってやらないこともないけどね」
わざと、もったいぶるような口調で話すジュン。
そんな時フィーナが口元へ手を当てるのをやめてから、ポンと手を打った。
『ポンポン』と呼ばれるフィーナの癖である。
「じゃあ、ジュンにいいものあげる……」
そう言って近づいてくるフィーナ。
(なんかコレ、激しくデジャブが再到来した予感がするんですが……)
やはり、自分の頼りになる感覚がゴーンと除夜の鐘を鳴らせている。
しかし何故か、動けない。足がまったく動かない。なぜ? どうして? まずいって! と内心がうろたえている。
「あ、さっきジュンの紅茶のコップにお母様からいただいた、麻痺系のラルクリア――パラクリアを入れちゃった……てへ?」
「あ、アンタこそ何やってんだぁ! てへって可愛く笑えば許されると思ってんのかフィーナぁ!」
「そうカリカリしないで、大丈夫。お母様もお父様を落とす時に使ったって言ってたよ? ……さぁ、力を抜いて……」
フィーナ様が何やら暴露しているようですが、それ以上に気になるのは彼女の目が完全に狩人のモノにトランスフォームしていることだ。
駄目だ、やられると思ったその時、思わぬところから援軍が到来した。
「ちょっとフィーナ! 何しようとしているのよ! やめなさいって!」
グイッとシャーリーが、フィーナとジュンの間に体を割り込ませてくる。そのままプリンセスを椅子へ戻らせる。
(ホントにフィーナってば気が置けない……)
シャーリーはそう思うと同時に、自分もあれぐらい積極的になれたらなと思ってしまう。
しかし、駄目だ。あんなことを行っている自分の姿など、気持ち悪くて、想像すらしたくない。
自分は自分。フィーナはフィーナ。それでいいと、切実に感じてしまった。
でも、見かけたらできるだけ阻止していこうと決意する。
「ちょっとシャーリー。いいところだったのに……」
プウッと頬を膨らませるフィーナ。
後一歩のところで邪魔が入り、ご機嫌斜めのようだ。
といってもジュンとしては、大いに助かったという気持ちで一杯であった。
もちろん、ジュンはフィーナのことが嫌いではないし、むしろ昨日あったばかりだけれど好きといっても過言ではないし、ああいう甘い展開も吝かではない。
だが、強すぎるのだ。刺激というか誘惑というか、とにかくそういうものの類全般が。
あんな風に迫られると、いつか自分の中の男が猛烈に具現化してしまいそうで怖いのだ。その時に自分を制御する自信がないとも、言い換えられる。
「ところでフィーナ、この痺れっていつまで続くの?」
ジュンは痺れて動かす事のできない下半身が、いつ動けるようになるのか、とてつもなく心配でたまらない。
『すぅすぅ』と寝息を立てている天然パーマの栗色少年を羨ましく感じた。
「え~と、たしか5分も経たないうちに治ると思うよ」
たしかって……大丈夫かな。
「じゃあ、ジュンが回復し次第、朝食を食べに行きましょうか」
フィーナが時計を見ながら言う。時計の針は、ちょうど7時になりそうなところ示している。
ジュンたちの部屋に使いの者を寄越すと言われていた時間だ。きっと人がいないことはすぐに分かるはずなので、問題はないだろう。
「そうね。私、とってもお腹減っちゃったぁ~」
食べる事専門であるところの、目下料理作成努力中のシャーリーが自身の腹部をさすっている。
「俺もだ。ジュン、さっさとしろよ」
基本的にシャーリーにだけ、シャーリーにだけは――ここが重要なので二度言わせてもらう――優しいレオンは、あたかもジュンが悪いように言っている。
そんな金色の『がっシュべる』と、『そうだ、そうだ』と言っているピンクポニーと、元凶なのにクスクス笑っている蒼のプリンセスに対し、理不尽な思いを感じてならないジュンであった。
結局、フィーナが言ったとおり、麻痺は5分ほどで回復した。
食事処へジュンたちは到着した。
王族が食事をするところだということで、それは豪華な食堂であることを予想していたのだが、フィーナに連れられいざ来て見ると、こぢんまりとした空間にテーブルが置かれているだけだった。
「ここは家族専用の場所だから……」
ジュンの何か言いたそうな視線を感じたらしいフィーナが説明を加えた。
フィーナの話によると、こことは別に大広間があって、他国からの来客があった際などはそこを使うらしい。
「へぇ~、じゃあ俺たちは家族扱いなのか……」
なんとも嬉しい心遣いだ。
「そうよ~」
そんなのんびりとした声と共に現れたのは、女王であるジュディだ。隣にはジュディやフィーナと同じ銀の髪を持った青年がついている。
青年は短く丁寧に編みこまれた銀の髪に、金の瞳をしている。
フィーナの兄か、弟なのだろうか。見たところ、弟の線はなさそうだが。
「おはようございます。お母様、お兄様」
やはり兄だったようだ。
ジュンたちもフィーナに習って挨拶を交わす。
「ふんっ、母上。何故に素性も分からぬ者たちをここへ招いたのですか。私は納得できません」
ジュディは快く「おはよう」と返してくれたが、兄の方はそうはいかないようだ。
秀麗な顔の眉間に皴を寄せ、ジュンたちを睨みつけている。
本来の王族の反応なら当然だとジュンは思った。フィーナや女王様が、そういうのをあまり気にしないだけなのである。
「そのような事を言ってはなりませんよ、クリス。あの方たちは大切なお客様なのですから。ね?」
どうやらクリスという名前らしいフィーナの兄を、ジュディがよしよしと頭を撫でながら言っている。
思いっきり子供扱いだ。無論ジュディにとってクリスは子供なのだけど、兄で年はフィーナの上という事なので、少なくとも18以上のはず。
それを考慮すると、フィーナは女の子だからまだしも、クリスは男の子なのだから、嫌がっているじゃないかと感じた。
しかし実際はそんなことはないらしく、あの兄は大人しくしている。その顔も心なしか和らいだものになっている。
「母上がそこまでおっしゃるなら、我慢しますけれど……」
素直になった! とジュンは驚いた。
彼は重度のマザコンであるらしいと一瞬で悟りに至った。
「いい子ですねぇ~クリスは」
未だに『いい子いい子』をしている女王は、学園長が言ったように完全無欠に親バカなようである。
「お母様。そろそろ食事にしなければ、学園に遅れてしまいます……」
下手をしたらいつまでも続けていそうなので、どうしたものかと思っていたところで、フィーナが言いたかった事を言ってくれた。
「おい、フィーナ。僕と母上の間を邪魔するのか!」
それを、突然声を怒らせたクリスが遮った。
駄目だ……コイツ。寝惚けているケンジ以外のピース組は、マザコン全開な彼の姿を見て思う。
それにクリスの金色の瞳は、フィーナに対する憎悪さえも感じさせる。
昨日の会談の最後の方で察知した視線の正体は、おそらく彼なのだと推測された。
「で、でも、お兄様。時間が、その……」
少しビクビクした様子のフィーナが言い募ろうとしている。
彼女の方は兄を嫌っている印象はないが、兄が自分のことを嫌っていることは知っているようだ。
不安そうに蒼い瞳が揺れている。
「黙れよ。勝手に余所者を連れてきた分際で、調子に乗るな」
クリスに一蹴されたフィーナは、どうしたら兄が話を聞いてくれるのかと、オロオロしている。
そんなフィーナを見ていられなくて、そっと彼女の肩を掴むジュン。
「すいません、王子。私たちが家族団欒を壊したばかりに、迷惑をおかけしました」
それから謝罪した。一緒に頭も下げた。
正直、頭を下げるのは癪だったが、自分たちが来たせいでフィーナが責められる道理はないはずだ。
ここを出て行って、大広間とか言う場所で食事をいただこうと思う。お金がないので、ここで世話になるしかないのが心苦しいが、仕方がない。
「それでは失礼します……」
もう一度礼をしてから、出口の方へ歩いてゆく。
ちゃんとシャーリーや、ケンジを引っ張っているレオンが後に付いてきてくれている。
彼らもジュンと同じ思いのようだ。
「ちょっと、ジュン。待ってよ」
慌てて追いかけてくるフィーナ。
彼女にはジュンたちが、自分のことを庇ってくれているのだと分かっていた。
だからせめて、自分も彼らと一緒に食事をとりたい。
「その必要はありません。みなさん」
厳かな口調でジュディが言った。
彼女の普段の様子からは考えられないほど、威厳に満ちているように思える姿だ。
その身に纏うオーラというのだろうか、とにかくそういうものが全然違っているのである。
「クリス。貴方がそのような事を言う資格はありませんよ。なぜなら、ここは家族の間。その長たる私が許可しているのだから」
ジッとクリスの金色の目を見つめながら、女王は言う。クリスがその視線に耐えられなくなって、横へ逸らすと、グイッと彼の顔を自分の方へ向けて、もう一度見つめる。
女王はまったく目を逸らさないし、瞬きすらしていないように見えた。
「ですが、母上。その、私は……」
「黙りなさい」
「――ッ……はい」
そうしてようやく肯定の返事をしてから、目を悲しげに伏せてしまったクリスに優しく微笑みかける女王。
クリスは渋々という表情は崩さないものの、文句を言わず食事を取る準備に入った。
「分かればいいのですよ。それにね、彼らの中の……」
言葉の途中でジュディはゆっくりとした動きをもって、今度はジュンたちの方へ蒼い瞳を向けてきた。
その白く美しい、とても一介の母親だとは思えないジュディの面には先ほどまでの優しげな印象はなく、ただイタズラ的な光を放つ双眸だけがある。
鋭い感覚の持ち主であるジュンは、なにやら雲行きが怪しくなるのを感じた。
「なんたって彼らの中の……ジュンって子は、フィーナのお婿さんになるんだから♪」
予感的中。この世界に来てからというもの、この感覚が外れた事が一度もない。
思わずズッコケそうになる。
「ちょっと、お母様! 何言っちゃってんですかのよ!?」
フィーナも相当動揺しているようで、何やら言い回しがおかしな事になっていた。
昨日も言われた――いや、言われそうだった台詞を今度は止められなかったのだ。
そしてシャーリーも、何か言いたげに口をパクパクやっている。
「でも、嫌じゃないんでしょ?」
悪魔的な笑みを浮かべて、フィーナのトマトのように真っ赤な顔を覗き込んでいる女王様。意地悪だ。
それから『ね?』と今度はジュンの方へ可愛らしく首を傾げられても、彼はどう反応していいのか全く分からない。
女王の餌が二匹になった。
「うっ……それは……その、ジュンさえよければ吝かではないというか、何というか……」
真っ赤な顔のフィーナによる言葉は、しどろもどろで、どんどん語尾が小さくなってゆき、最後の方はまったくといっていいほど聴こえない声量である。
言葉の先を少しだけ聞きたかったジュンは、自分以上にフィーナが慌てていることを見て、随分と落ち着きを払っていた――わけはなく、完璧に石化していた。
しかしどうやら耳だけは過敏な反応をしているようで、ピクピクと痙攣中だ。
石化中のジュンは、思った。少し前に――フィーナとの会話の際に――焦らすと餌が増えるといったことを考えたが、女王にとっては焦らす必要もなく餌とは増えていくモノだと思った……。
「早く食べないと、本当に間に合わないのだが……」
そんな中、半分寝ているケンジと、淡々とした様子で座っているクリスを除いて、唯一落ち着いた態度のレオンが呆れたようにぼやく。
しかし彼の呟きは、この空間に飛び交う喧騒のせいで綺麗さっぱり掻き消えてしまった。