同盟暦512年・脱出行7
アグラオニケの呼びかけに答えられる者はいない。
「魔女アグラオニケ殿」
「…………新教に連なる人間か」
一礼したテュルパンを睨みつけるアグラオニケ。
テュルパンは怯まない。
「彼とはいかなる者の名でしょうか?」
「聞くまでもなかろう。汝等の主人よ」
「我々の主君、ダミートリアス・スクルージ王の事だと?何故です?」
「知れたこと。対価を差し出せ」
アグラオニケの言う対価とは生贄の事だ。
「訳をお聞かせ下さい。王が惑いの魔女といかなる約定を交わしたのですか?」
「九年前、彼は軍を率いて森を横断した。妾は許した。一つの誓いと引き換えに。次にこの森を訪れたとき、その心臓を貰い受けると」
俗に言う魔女との契約であることが分かり、テュルパン達は驚く。
「九年前というと……ベガの反乱か」
荒涼国の王ベガ・グリフィンドルが盟主に反旗を翻した戦いこそベガの反乱だ。
鉄王冠国の先代国王ヘリオス・フェッレアは名君であったが、温和な政策が野心家のベガを増長させた。
ベガの勢いは凄まじく、ヘリオスは王都に籠城するまでに追い詰められた。
しかし、ダミートリアス率いる白雪国の軍勢が援軍に駆けつけベガの軍勢に多大な被害を与えた。
ヘリオスが救援の早馬を送って、わずか三日で辿り着いた奇跡のような行軍は、長年に渡り謎だった。
「そうだったのか…いやしかしおかしい。九年前といえば俺も従軍していた。だが、ここを通った覚えはないぞ!」
「覚えている事を許したのは彼だけだ。他の者達は許しておらぬ。ゆえに記憶を喰ろうたまでのこと」
アグラオニケは騎士達を見回した。
「彼は何処ぞ?」
「我が主君はお隠れになられました」
「彼が死んだとて契約は破棄とはならぬ。……そこにいるな。彼の血族が」
馬車を指差したアグラオニケ。
「心臓をもらう」
身体を霧状にして瞬く間に馬車の前に移動したアグラオニケの前に、ポーが立ち塞がった。
「それ以上、近づくな」
「小さき者。妾に刃向かうか?」
ポーは剣を握る手に力を込めた。
「僕は騎士だ」
強靱な精神が魔女への畏怖の念を退ける。
「ベアトリスを守ると誓った。何者であっても誰であっても彼女を傷つけることは許さない!」
ポーは焔の拵えを抜いた。
炎を固めたかのような刃がアグラオニケに向けられた。