ピグマリオンとチャムシップ
ふたりが手を繋いで歩くのは、暑苦しいほどの満天の星空。
新月の夜に田舎の山奥へ行ったのを思い出すような。
ううん、夜でも桜色シエルは相変わらずで、星もなんとなく赤みがかっていた。
昼間ははっきりしなかった雲は色づき、正しい黒とのフロンティエールを浮き立たせている。
りんごは思わず「綺麗」と口にした。
「だよね!? でも、みんなはあんまり分かってくれないの。カリトなんて、見てて眠くなるなんて言うんだよ」
「もったいないね」
「そう、もったいないよね! でもでも、天気よけりゃ毎日見れるのにもったいないってなんだよ、って!」
カリトの口まねだろうか。かぐやは声色を変えて語り、ころころと笑う。
それから、ふと目を細めて、ささやくように言った。
「ね、さっきの話」
りんごはさっき怒鳴ったことを思い出して、身体が熱くなる。
それでも外は寒い。強い風が吹いている。
気のない返事をしながら、冬服を持ち越したのは正解だったけど、タイツを入れなかったのは失敗だな、なんて思考する。
「月を見たっていうの、ホントかな?」
りんごはつまづきそうになった。なんだ、そっちの話か。
「ハカセは投影装置がまだ動いてるのかもって言ってたね」
「うん、難しい話をしてた。宇宙って、ずーっと上にあるんでしょ? 本物の月はそこに浮かんでいて、小さく見えても本当はすごくおっきいんだって教えてもらったの」
かぐやは足を止め、見上げてため息をつく。
「すごいよね、過去の人たちって。もちろん、りんごちゃんも」
「わたしは、別にすごくないかな」
りんごはかぐやに昔の世界を話して聞かせた。
なるべく通じやすいように、今の時代の人たちもよく口にしている単語を選び、質問にもひとつひとつ答えて。
「昔も役割分担をしてたんだよ。わたしは学生でまだ子どもだったから、なんにもできないかも。偉さでいうと、めざめちゃんのほうが上だよ」
「あの子もすごいよね。見てて頑張れーっ、ってなっちゃう。カリトよりも全然、“おしえ”になれると思うなー」
「おしえ?」
「いろいろ教えるのが役目の人のこと」
かぐやは続ける。
「私のお父さんの名前だったの」
りんごはなんて言ったらいいか分からなかった。
だから、繋いだままの親指で、そっとかぐやの手の甲を撫でる。
「カリトには気をつけてね。すっごい教えたがりだから。私にもずーっといろいろ教えてくるんだよ」
「分かった。気をつける」
りんごは口先だけでなく、本当に気をつけようと思った。ああいうタイプは嫌いだ。
「教える役目じゃないくせにね。狩りだけしてればいいんだよ」
「役目といえば、かぐやちゃんの名前って、ほかの人とは違うよね?」
「あ、うん。ちょっと変わってるでしょ?」
かぐやの表情がいたずらをとがめられたかのように笑った。
「いい名前だと思うよ。わたしの時代にもいた名前だし」
「ホントに!?」
食いつくようにかぐやに手を取られる。
りんごがうなずいてやると、かぐやは「お父さんがつけてくれたの。月のお姫様の名前なんだよ」とまくしたてる。
「竹取物語のかぐや姫だね」
りんごが「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。野山にまじりて……」と暗唱してみせると、かぐやは大笑いした。
何やらツボにハマったらしく、お腹をかかえて涙を見せて。
彼女は自身の名前の由来は知っていても、竹取物語の内容は知らないようだった。
りんごはかぐや姫が竹から生まれて月に帰っていくまでの話をしてあげた。
「おじいさんとおばあさん、ちょっと可哀想だね。りんごちゃんは、月に帰らないでね」
りんごは「帰らないよ」と即答して、過去に戻りたいという気持ちが和らいでいることに気づいた。
かぐやといれば、きっと大丈夫。
「不思議な宝物って本当にあるのかな?」
「おはなしだし、無いと思うけど……」
まじめに回答してしまい、「ちょっと夢がないかな」なんて思う。
蓬莱の玉の枝、火鼠の皮衣、仏の御石の鉢、燕の子安貝、あとは龍の首の珠。
「でも、ネズミはいるよ? たまに建物の中まで入ってくるし。勝手に食べ物をかじる悪いやつ!」
ひょっとしてネズミも食べたりしてるのだろうかと不安になる。
さもありなん、だけど怖くて聞けない。
「ありがとう、りんごちゃん」
急にお礼を言われた。
「私、名前を変えるの、やめる。本当は、私が“おしえ”になろうかなって思ってたの」
かぐやが言うには、この時代では名前が変わることは珍しくないらしい。
彼女の父親はかぐやにもおしえになって欲しくて、さまざまな仕事のやりかたを教えたそうだ。
「なんでもできるけど、なんでも中途半端。私はお手伝いが役目なの。最近、ものを聞かれることも増えたから変えたほうがいいかなって。でも、この名前は“宝物”だったから」
かぐやはもう一度、ありがとうと言った。
「みんな、ハカセやカリトに聞けばいいのにね」
「ハカセのことはみんな尊敬しているけど、ちょっと怖いみたい」
「怖い?」
訊ねると、かぐやはまじめな顔になり、あたりを見回してりんごの耳元へ顔を近付けた。
「みんなの知らないことを知りすぎてるからだよ。噂があるの。文明? とか、機械? とかを復活させて、私たちみたいな暮らしをしている人を滅ぼそうとしてる連中がいるって。ハカセはそこからやってきたんだって」
滅亡から何年も経てばそういう分断もあるのだろうか。
もしかして、ハカセはその一味で、かこびとであるりんごを一味に勧誘する気だったりしないだろうか。
「という冗談をハカセが言っていました。ハカセが言うことは難しすぎるんだよ。あの人は計算とか字を教えるのが役目。あと、カリトは教えたがりなだけで、結構バカだし」
騙されたらしい。かぐやがにやついてこちらを見ている。
りんごも彼女を軽くこづきながら笑った。
ふたりはまた手を繋いで、きた道を戻り、それぞれの部屋へ帰って眠りへと就いた。
さて、翌日。
困ったことが起こった。
かぐやがちらっと予言していたことなのだけれど、つまりはカリトのことだ。
りんごはハカセの提案で、ほかの住人のひとりひとりの仕事を体験させてもらった。
カリトがそれに付きまとい、いちいち口を挟んだのだ。
そのせいで、あんまりにもあんまりな一日を過ごすことになった。
まずは、ストロングさんの力仕事。何かを運んだり壊したりする力仕事が彼の役目だ。
ストロングさんはりんごの部屋の模様替えを手伝い、ガラクタ倉庫から棚やデスクをかかえて運んだ。
元の時代ではマッチョなんてなんの役に立つんだろうなんて思ってたけど、撤回だ。
彼だけにやらせるのもなんだし、りんごも手伝おうとしたけれど、そこでカリトが「女には向いてないよ」と言った。
りんごは「男だ女だ」とうるさくするのはあまり好きじゃなかったけど、これには同意した。
だって、同じく手伝おうとしたカリトでさえ、机といっしょに持ち上げられて、「邪魔だ!」なんて怒られるくらいだったし。
ただし、家具やオブジェの配置にまで口を出してくるのを無視するのには骨が折れた。
かぐやが彼をたしなめなかったら、ケンカになっていたかもしれない。
次に、屋上で布やシートを使って雨水や結露を濾過し、煮沸消毒して飲料水に変える“ミズモリ”の役目。
「かこびとは水に不自由してなかったんだろ? 適当にされたらみんなが困るよ」
りんごがはっきりと誰かを睨んだのは何十年、あるいは何百年ぶりだった。
もっと悪いのは、廃材をケーブルで結んだり、熱で溶かして繋いだりするナオシの役目を見学したときだ。
「りんごには向いてない講釈」はおいても、「湿りの村の“むすび”のほうが上手にやったけどな」なんて言ったものだから、ナオシも怒ったし、かぐやもまた泣きそうになってしまった。
まだまだ。
彼はねむりの前を通りかかったときに、「りんごは昼寝の仕方は知ってるか?」なんて笑ったのだ。
加えて、「陽が沈んだら出歩いたりしないでさっさと寝たほうがいい。夜空はつまらないし、明るくなる少し前に動き始めるのが効率的だからな」なんて言う。
りんごはますます彼が嫌いになった。
極めつけはこの一幕だ。
「大きな音が鳴るなら、別にフライパンでなくてもいいです。金属の薄いものと硬くて長いもので叩くといいです」
りんごは看板の残骸と何かの棒を手にして、ばんばんとやりながら「お、起きろーっ……」と言った。
「照れちゃダメです!」
「わ、わたしには向いてないかも」
そう言って、りんごは廃材を置こうとした。
すると、カリトの手がそれをもぎ取り、事故か工事現場かという音を響かせた。
「こんなの、簡単だろ。誰にだってできる」
「うるさすぎるよ」
りんごはとうとう文句を言った。
「寝てるやつが起きれば、なんでも同じだろ」
「同じじゃない」
「同じだよ。こんなの役目ってほどじゃないね。おれなんか、めざめよりも早く起きるから、こいつに起こされないし」
カリトがめざめを指差し、かぐやが「やめなよ」となだめる。
彼はさっきから自分の役目をりんごに体験させたくてじれていたのだ。
「でも、かこびとを起こしたことがあるのは、めざめだけです」
女の子は顔を赤くし、こぶしを固めながら反論した。
「それも間違いだよ。カプセルを見つけたのは“ひろい”だったし、開けたのはハカセじゃないか。ハカセがスイッチを押したら解凍ってのが始まるっていっただろ。ハカセが起こしたのと同じさ」
また、だった。気づいたら叫んでいた。
「違う! わたしが最初に聞いた音はフライパンの音だった!」
カリトはちょっとびっくりしたようだったけど、「優しいんだな」なんて訳知り顔でのたまいやがった。
だからりんごは、まくしたてるように続けた。
「それに、保存ポッドの緊急解凍システムとコールドステーションの設備で解凍するのは同じじゃない! 生体に負荷が掛かって後遺症が残って、脳細胞や四肢の神経にダメージが残るかもしれないんだよ!」
わざと理解できないように言ってやった。
けれども彼は、「それがなんだってんだよ」と知ったかぶりをやめない。
りんごは、すっと身体が冷えていくのを感じる。こいつ、ホントに無理。
「かこびとは目覚めて三日のうちに死ぬかもしれないんだって。昨日、わたしが鼻血を出したのも、そのサインだよ」
少しだけ嘘を混ぜ、平坦に言ってのけた。
この言葉が彼をブラックホールのように吸いこんでしまうようにと念じながら。
効果あり。カリトはひるんだ。
ところで、「りんごちゃん死なないで!」とりんごを揺さぶっているかぐやも、じつは知っている。
また誰かが、いきなりいなくなったらつらいだろうと思って、かぐやには昨日のうちに本当のことを教えておいていたから。
彼女は心配を見せず、「大丈夫だよ」と言ってくれていた。
「だったら、やっぱりりんごは何もするなよ。おれがなんでも用意してやるからさ」
ぞわっとした。
解凍明けなんて目じゃない。足の裏から背中を抜けて、首筋、二の腕までもがトリハダだ。
「ホントだったら、カプセルだっておれが最初に見つけてたんだ。あのときは魚を追いかけてたから、ほっといただけでさ。だからおれにだって、権利はあるはずだ」
カリトが何か言っている。
これまで、この手の男子に遭遇したことがないわけじゃなかったけど、過去一番に話が通じない。
強引に押せば人を思い通りにできると思ってる奴は、サイテーだ。
「おれがりんごのことを……」
まだ何か言うつもりか。耳を塞ぎたかったけど、身体が凍ってるので無理。
このバカからの自己防衛のことも大事だったけれど、りんごは大きな見落としをしていたことにようやく気づいた。
めざめには解凍後のリスクの話をしていない。
あまりにも腹が立ったために、彼女のことまで気が回らなかった。
ところが、それどころじゃなかったのはめざめも同じだったらしい。
地球に月があったように、りんごにはかぐやがいてくれる。
あるいは、カリトがぐるぐるとまとわりついたように。
衛星みたいな関係は、どこにでもあるのだろう。
めざめちゃんいわく、「この棒とフライパンが一番いい音がします」。
ならば、「彼女のフライパン」と「彼の膝のお皿」は衛星的関係になりうるだろうか?
「りんごは、めざめが起こしたんです! みんなを起こすのが、めざめの役目ですーーっ!」
すこーん! 答えはノン。メテオインパクトってやつ。
りんごの宇宙では、誰かさんの悲鳴の声もよく響くようだ。
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