オカルティック・ムーン
りんごはめざめといっしょに、少し渋くて酸っぱいジュースをごちそうになったあと、静かの村へと戻った。
着いたころには空が赤紫に燃えていて、「あ、夕方になったんだな」と分かった。
時計こそ無かったものの、体感で自分が目覚めたのが午後だったということに気づく。
陽が沈むと、りんごのための歓迎パーティが開かれた。
ホールに集まり、火の焚かれた穴あきドラム缶を囲って、いつもよりも豪勢な夕食を共にするのだ。
食事はお腹が空いたときに、あるいは食べられるときに個別でとるらしく、こうやって集まるのは何かのお祝いや、大きな獲物を分けあうときなど、特別なときだけだとハカセが教えてくれた。
出された食事は、りんごの知っているものばかりで安心して口にできた。
生まれた時代でもおなじみの野菜や卵、あの毛玉ニワトリのものであろう鶏肉。
どれもが簡単に焼いただけのもので、ひと口大に切らずに塊での提供。
味付けはせいぜいネギや何かの葉っぱの薬味くらいで、初めのうちはりんごの舌には少し物足りなかった。
けれど、果樹園で働いてる人たちや自分の木を大切にするめざめのことを思うと、自然に噛む回数が増えて、食材そのものの味がよく分かって、おいしかった。
ここでひとつ訂正だ。
りんごのまったく知らないうえに、おいしくないに違いない食べ物が、りんごのためだけに一皿提供されていた。
「さあ、食え!」
カリトがお皿を突きだしてくる。みんなはくすくす笑っている。
お皿の上に乗っているのは黒焦げの「なにこれ?」。
カリトは新入りが来たり、よそから誰かが訪ねてくると、自分の役目でもないのに張り切って自作の料理を出すのだという。
りんごは助けを求めてかぐやを見たけど、彼女は「私は止めたんだけどね」と肩をすくめるばかりだ。
ハカセもノーコメントで微笑んでいるし、めざめは「がんばるです!」なんて、こぶしを握っちゃっている。
ご飯のおこげは好きだ。ステーキはウェルダンでもオッケー。でもこれは……。
なーに。ニ、三日のうちに死んじゃうかもしれないのだ。
お腹を壊すとか、発がん性物質がどうとか、平気平気。
なんて、さっきまで自分を苦しめていた死神さえも味方にして、りんごは思いっ切りかぶりついた。
もちろん、まずい。苦みも酷いけれど、血のような味も混じっている。
失礼にならないように、こらえたつもりだったけど、「うぇっ」とえづいてしまった。
「うっそ!? まずいのか!?」
カリトが何か言っている。まずいに決まってるでしょ。
みんなも当たり前だよと言って笑った。
りんごもそれにつられて、「ちょっと厳しいかな」と言って笑う。
さざめきが引くと、かぐやが「ようこそ、りんごちゃん」と言った。
ハカセが拍手をすると、不満そうに頭を掻いていたカリトも笑顔になり、みんなといっしょに拍手の嵐が起こる。
昼間にも同じように歓迎をしてもらったのだけど、そのときはふわふわしていて拍手に胴上げされているような気持ちだった。
だけど今は、なんだか、波打ち際で寝転がっている気分。
少しだけ気持ちの整理がついた。
ほんのちょっぴり。パインの飴玉の溶け残りに似た月くらいだけど。
りんごは頑張ろうと思う。頑張って、ここのみんなの一員になろうと。
それから、叶うはずもないのだけど、もしも他の家族が流れ着いたら、今度は自分が歓迎するのだと心に決めた。
パーティでは、昼前の質問のお返しがおこなわれた。
最近あった面白いことや驚いたこと、不思議なことが、みんなからりんごに話される。
大きな獲物を取り逃した(身振り手振りからしてゾウくらい大きそうだ)とか、すてきな宝物を見つけた(滅亡前のアクセサリーなどだ)とか、そういう話だ。
面白いと思ったのが、「月を見た」なんて話。
知らないものごとや見間違いを怪奇現象のように思ってしまうのは、いつの時代でも一緒なんだろう。
りんごは、まるでオカルトか怪談かという感じに話される月にちょっとだけ笑ってしまい、ハカセのほうに目配せをした。
あれ? ハカセが難しそうな顔をしてる。
みんなは語り部に向かって、「そんなわけないでしょ」とか「嘘だあ」とか言っているけど……。
「ありえない話じゃないよ」
彼がそう言うと、火がぱちりと音を立て、みんなはざわついた。
「ただ、本物の月ではなくって、月が無くなったあとに用意された電子の月だろうけどね。投影設備がかろうじて生きていて、何かのきっかけで映し出されることもあるのかもしれない」
「じゃあ、修理することもできたりして」
そう言った若い男性は“ナオシ”さんだ。
「可能性は無くないね。投影施設は天文台という、宇宙を観察するための設備に似た形をしてるんだ。こういうドーム型の屋根をしているよ」
ハカセはお絵描きボードに天文台の絵を描いてみせた。
「見たことあるような無いような。屋根も壊れちまってるかもしれねえしな」
ストロングさんが唸る。彼は若いころにあっちこっちを冒険してきたらしい。
りんごは眠りに就く前に見上げた電子の月を思い浮かべる。
どういう仕組みかは知らないけど、ちゃんと西の空から登ってきて、満ち欠けもしていた。
天気が悪いと、月が映される部分の雲の箇所が不自然に明るくなる以外は、見かけ上は普通の月だ。
今のあのピンクの空でも、ちゃんと映るのだろうか。
ふと、四月の月にピンクムーンという異名があると天気予報の余談でやっていたのを思い出す。
「月が、戻ってきたの?」
誰かが言った。
声のしたほうを見ると、ぼさぼさの髪の女性が立ちつくしている。
割と若い感じ。二十代半ばくらいだろうか。
彼女はりんごの顔をまっすぐと見ていた。
「あなたが月を呼んだのね?」
満面の笑みだ。本当に、嬉しそうな。
「ねむりさん。月は戻ってきていないし、その望みもない。りんごくんも関係ないよ」
ハカセがそう言ってくれるも、ねむりと呼ばれた女は聞こえないかのように、じっとりんごを見つめ続けている。
めざめが彼女に駆け寄り「見たかもしれないって話です」と諭す。
しかし、ねむりは「あなたが、月を呼び戻してくれるのね」と言って、りんごの両肩をつかんで揺さぶった。
「痛い!」
すごく強い力だった。数人がねむりを取り押さえようとする。
けれどねむりは容易くそれを振り払うと、まるで妖精がダンスをするかのように、ウサギが遊ぶかのように、ぴょんぴょんと跳ねまわりながら外へと出て行った。
彼女は去りぎわに、なぜか「月は地獄だ! 月からそれが来る!」と叫んだ。
めざめはりんごに謝ると、ぼろ靴を鳴らしてねむりを追いかけて行った。
みんながねむりの悪口を言う。
彼女はちょっとヘンらしい。
いつもぼんやりしてるかと思えば、突飛なことを口走るし、異常な行動をとったのもこれが初めてじゃないという。
そして、彼女は役割を果たしていない。それはきっと、この世界ではすごく悪いことだ。
りんごだって何か役割を果たそうと思っている。けれど、ああいう人が「しょうがない」のも知っている。
それから、めざめがねむりの分まで頑張ろうとしているのも。
だから、廃病院のホールに響く悪口が親子のいる外まで聞こえないように祈ったし、「めざめがちゃんと見ていないからだ」なんて言葉が聞こえたときに、「それは違う!」と叫んで立ち上がってしまった。
しん、と静まり返るホール。
りんごは身体が芯から熱くなり、やめておけばよかったと思った。
これからみんなとやっていかなきゃいけないのだから、鼻つまみ者のねむりの味方に見えるようなことをするべきじゃなかった。
りんごは学校では誰とでも仲がよかった。
ううん、誰とも仲が悪くなかった。
誰かをいじったりイジメたりすることはなかったし、ケンカもしない。
それから、イジメに声をあげることも決してしなかった。
『そういうの、ほっとくタイプなんだ?』
姉の声がリフレインする。言わなかったけれど、「私はほっとかないよ」と言いたげな顔だったのを覚えている。
みんなの沈黙が針のように刺さった。
りんごは「みらいびとなんて、やっぱり原始人だよ」と心の中で強がり、耐えた。
「りんごちゃんの言うとおりだと思う。ねむりさんはともかく、めざめちゃんは悪くないよ」
味方をしてくれたのはかぐやだ。
救いの声は優しい耳ざわりがした。
温かくてすべすべした、おろしたてのベロアのブランケットのような。
それにハカセも「その通りだね」と続き、慌ててカリトも味方につく。
めざめのせいにした人も認めて、「聞こえてたら謝っておくよ」と約束した。
ねむりを非難していた人たちも、「少し言い過ぎたかな」、「かこびとの言うとおりだね」なんて口にする。
パーティーはそこでお開きとなった。
みんなはもう寝るらしい。陽が沈むと眠くなり、陽が昇る前に起きだしてくる。
退屈しのぎの語らいは毎晩のことらしいけど、今日はこんなふうになってしまった。わたしが、してしまった。
りんごは足早に目覚めた部屋へと戻る。
こんな時間に眠れるはずがない。そうでなくとも、起きたのは昼だ。
そのうえに、興奮と不安が、さっきのねむりのように胸の中で跳ねまわっている。
りんごは、自分は嫌な人間だと思った。
めざめをかばったのは本当の気持ちだったけど、ねむりの味方をしたわけじゃないという言い訳もしたかった。
あんまりしつこく言葉を並べても“すっぽん”みたいだ。
みんなはりんごのことを正しいと言ってくれたけど、ホントのところ、心の中ではどう思っているのだろうか。
ねむりは心の病気なのだろう。
一度手を出したら、ちゃんと責任を持たないといけない気もする。
でも、りんごは精神科医でもカウンセラーでもないし、無理に関わっても、それこそ「月の影取る猿」がいいところだ。
こんな夜こそ、月が恋しい。
暖かなアップルティーや、誰かを感じたい。
りんごはカバンから手帳を取り出し、家族写真を見つめる。
そんなことをしている自分が小説や映画の登場人物みたいだなんて思って、少し笑う。
家族はもちろん、昼間はベッドに紛れこんでいたニワトリさえも見当たらない。
まさか晩御飯だったわけじゃないだろうけど(違うよね?)、あれは確かに生きていて、あったかかった。
声に出して「寂しい」と言ったら、何か変わるだろうか。
どうしてだか、それを言うのが怖い。
言ってしまえば、何かがぽきりと折れてしまうような、そんな気がする。
「りんごちゃん」
口を開いたところに声を掛けられ、どきっとしてしまう。
かぐやがついたての横から顔だけをひょいと出した。
「眠れないの。少し、お散歩に付きあってもらっていいかな?」
真夜中の太陽がにっこりと笑った。
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