ハカセとニワトリ
「こけこっこーっ!」
カリトの腕の中の獲物が叫ぶ。
りんごは駆けだした。
鳴き声がスタートの合図ではなく、悪夢の終わりを告げるものであればどんなによかったかと思った。
「ハカセ、ハカセ!」
喘ぐように白衣の男の名を呼んで、病院に向かって丘を駆けあがる。
解凍されたばかりのりんごの面倒を見てくれたのは彼だ。
ハカセを呼べばそれだけで助かるような、何もかもが解決するような。
りんごの頭の中では、「被ばく」とか「ガン」という単語が踊り狂っている。
「ハカセは物置き棟にいるぜ」
すれ違ったストロングさんが親切に教えてくれる。
彼は物干しざおの両端にバケツを結んだものを肩に担いでいた。
そういえばこのおじさん、髪の毛が一本も生えていない。
「物置き棟って、どこで……」
口の中が鉄の味でいっぱいで、鼻の奥から流れた血が喉に絡んで咳きこんでしまう。
「りんごちゃん、待って! 案内するよ。ハカセはいつも自分の部屋にいるの」
うずくまってしまったりんごの背中を抱いてくれたのはかぐやだ。
二の腕に触れた彼女の指は力強く、温かい。
物置き棟はりんごの目覚めた部屋やホールのあった本棟の隣の検査棟で、その名の通りたくさんのガラクタが押しこめられている。
タイヤや車のドアなんかもあったけれど、もともと病院にあった機材が中心のようで、パソコンのモニターや手術のシーンとかで見たライトなんかが部屋からはみ出して廊下にも積まれていた。
そんなごちゃまぜの世界の一角に、ハカセの部屋があった。
ベッドは病院のものだったけど、黒のシックなテーブルとデスクチェア、破れてスポンジが見えているもののソファもあるし、割れていないガラス戸のついた本棚には日本語のタイトルのついた難しそうな医学書がびっしりと並んでいた。
そこだけ別世界のように整然としていて……ううん。
りんごは元の世界に帰れた気がして、ぼろぼろと涙が出てきた。
「ハカセ、りんごちゃんを診てあげて。血が出てるの! りんごちゃんが死んじゃう!」
ハカセは、駆けこんだふたりをずれた眼鏡で見ていた。
彼は床に転がってしまった鉛筆を拾うと、「言うのを忘れてたよ、ごめんね」と言った。
ハカセ曰く、コールドスリープから目覚めた人は、身体が調子を取り戻してくると誰でも出血するとのことだった。
人によっては耳や目から出ることもあるらしいけど、大抵はりんごと同じ鼻血だ。
これは本来は専用の施設でしなければならない解凍処理をカプセルの緊急システムでおこなった後遺症だという。
「だから、大丈夫だよ。うがいぐらいはしたほうがいいと思うけど」
ハカセに勧められてペットボトルの水を貰い、部屋に付いていた流しを使って口をゆすぐ。
かぐやが心配して覗きこんできたのが恥ずかしかったけど、りんごはあえてそのまま鼻の掃除もした。
センサー式の蛇口だったからつい癖で手をかざしたけど、水は出なかった。
「ふたりとも、ありがとうございます」
すっきりした。血ももう止まったらしい。
鼻の痛みも無いし、走ったおかげか、解凍明けの身体の凍えもほとんど解消されてむしろ調子がいいくらいだ。
「平気?」
心配するかぐやは、また泣きそうになっている。
りんごはかぐやちゃんはいい子だなと思い、別の理由で鼻の奥がじんとなった。
「どうしても心配なら、簡単なテストをしよう」
ハカセがデスクの中から赤いボードと白いペンを取り出した。
ボードには見覚えのある、パンをモチーフにしたアニメキャラクターの顔がくっついている。
子ども向けのおもちゃ。磁石のお絵描きボードだ。
ハカセはそれに簡単な算数の問題を書いて手渡してきた。
7+8、5-8、3×6、9÷5。
それを解くとハカセはうなずき、「きみの名前と簡単な文章を」と促される。
一度、書き損じてしまい、名前の途中でつまみをスライドさせてリセット。
それから、「宮沢苹果」と書き上げる。
「りんごちゃん、すごいっ!」
「きみもこれくらいできるだろう?」
かぐやが横で興奮し、ハカセが苦笑している。
「でも、ハカセに教わるまで誰もできなかったし、りんごちゃんが書いてるのって、漢字ですよね?」
「そうだね、漢字というものだ。りんごくん、もう少し難しい計算や文章はできるかな。その制服、高校のものだよね?」
りんごはボードを白紙に戻し、記憶を手繰り寄せ、簡単な因数分解の式を記述する。
ハカセがうなずき、かぐやが「えっ、えっ」と首を傾げると数式を消して、和歌の百人一首のひとつを書いた。
「月みれば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身一つの 秋にはあらねど……」
ハカセは詰まることなく読み上げる。
かぐやが「どういうこと?」と聞いてきたので、りんごは「月を見たらやたらと悲しくなってしまう、秋が来たのは自分だけではないけど」と教えた。
「月を見たら悲しくなるの?」
「時と場合によるかな。わたしは、本物の月を見ているときは幸せだったよ」
「じゃあ、アキっていうのが来るせいで悲しいんだね」
かぐやが分かったようにうなずく。
それから、さも大きな真実に気づいたような顔をして、こう言った。
「アキって奴が、お月様を消しちゃったんだ。そうでしょ!?」
ハカセが声を立てて笑った。
りんごはかぐやをバカにしたみたいになるのが嫌で笑えなかった。
眼鏡の下で涙をぬぐうハカセの顔を見ると、彼はふっと寂しげな表情を見せた。
それはちょうど、コールドセンターで「おやすみ」を交わしたりんごの家族たちと同じ表情だった。
「秋っていうのは、そういうものじゃないよ」
ハカセはボードを取ると、「春夏秋冬」、「花鳥風月」と書いた。
それから、春夏秋冬に横線を引いて打ち消す。
「地球から四季は無くなったんだ」
りんごは静かにうなずく。地球には季節というものがあった。
季節があったのは、りんごが中学生のころまでのことだ。
月と別れた地球は異常気象の繰り返しで、自然環境はかき回されっぱなしだった。
「それから……」
ハカセは「花」の字を指す。
「これは花という字だ。花は今でも見られる。その辺では地味なものばかりだけど、自然に呑まれたところでは昔よりも豊かで鮮やだそうだ。このあたりだと、野菜や果樹のものが見られるよ」
続いて「鳥」を指す。
「これは鳥。といっても、あれのことじゃない」
そう言って、ハカセは自分のベッドを指差した。あれは枕ですけど。
「木々のあいだや大空を飛び回る小鳥のことだ。これも、地域によってはまだ生息している」
「どんな姿をしてるのかな?」
かぐやが何かをせがむようにこちらを見てきた。
りんごはあまり絵が得意じゃない。
けれども、彼女の期待に応えようと、子ども用のお絵描きボードに相応しい鳥を一匹、用意する。
すると、ハカセが「ここが頭でくちばし、これが翼で」なんて解説をしたものだから恥ずかしくなった。
落書きみたいな鳥に向かって、かぐやは大まじめにうなずいている。
「ニ、ニワトリもね。わたしの時代のもっと昔、平安時代や奈良時代に愛玩用のペットとして外国から来たもので、雅なものだったんだって!」
誤魔化すように知識を披露するも伝わらなかったらしく、かぐやに首を傾げられてしまい、りんごはやめておけばよかったと余計に頬を熱くした。
「こけっ!」
ニワトリの声だ。声のしたほうを見ると、ハカセのベッドの枕がもぞもぞ動いていた。
「ぼくも飼ってたりして。家禽をルーツにした種類らしくて、人間への警戒心が薄い」
「コッコちゃんはハカセのことが大好きなんだよ。りんごちゃんは?」
かぐやの屈託のない笑顔。
「そういう好き」ではないというのは分かるけど、りんごはちょっと焦った。
「ど、どうかな。え、えっと、次は風。ハカセ、風が緑色に見えたんですけど」
りんごは話を変えようとハカセの役目を奪う。
けれど、あの緑色の風を思い浮かべると、さっきの鼻血のときにした心配が吹き戻されてきた。
「何かの微粒子が影響してるらしいけど、分からない」
聞いてもいいものかどうか戸惑う。
かぐやは相変わらず意味が分かってないようだったものの、りんごは用心してハカセの耳元に寄り、声を潜めて訊ねた。
「その微粒子って、放射能とかだったりしませんか? 核戦争があったんですよね?」
「核戦争?」
ハカセはきょとんとして、それからちょっと声を出して笑った。
「なんで笑うんですか? 滅亡したんですよね?」
「うん、見ての通り。でも、滅びた原因は核戦争なんかじゃないよ。核ミサイルという代物は使われたみたいだけどね。放射線は人が住み着いて集落にしている地域に関しては問題ないはず。ただ、この検査棟には医療用の放射性物質があるかもしれない。そうでなくとも、注射器やメスなんかも残ってるかもしれないから、ここでのゴミ漁りは禁止だよ」
ハカセはまたずれてしまった眼鏡を、くいっと直すと、「むかしむかし」と語り始めた。
復興と存続を賭けて別れた人類だったが、すぐに次の危機が訪れた。
宇宙のかなたから、これまで観測されてこなかった隕石群が飛来し、それが地球圏を直撃することが分かったのだ。
隕石のほとんどは小さく、大気圏で燃え尽きて綺麗な流れ星になる。
けれども、この隕石群にはかなりの大きさの天体がいくつも含まれていた。
一番大きなものについては、大陸をふたつくらいダメにする威力があったそうだ。
全世界の眠りに就かなかったひとびとは総力を結集し、処分待ちだった核兵器を宇宙へ打ち上げ、危険性の高い天体を退けた。
「……って、本に書いてあったよ。その本には、月が地球圏から去ったことと隕石の飛来が無関係ではなかったことも記されていた。それに本来なら月が隕石から守ったとか、軌道がそれたはずだとか」
ハカセはそう言うも、「難しくてほとんど理解できなかったけどね」と肩をすくめた。
「きみのいう滅亡のあとにも何度か小隕石の衝突があった。世界各地にあった月の投影装置もその混乱のさなかに失われてしまったんだ。そういった事情もあって、ここにいる人たちはみんな、月に戻ってきて欲しいと願っているんだよ」
「月は地球の守り神様なんだよね? 月にはウサギが住んでいて、宮殿にはお姫様がいる!」
童話のようなことを言ったかぐやの顔は輝いている。
りんごはその勢いに圧されて「う、うん」と返事をしてしまった。
ハカセは訂正したりしなかった。
でも、彼の表情は雰囲気から、それが間違いだってことを知っているのが伝わってくる。
もしかして、ハカセも本当は「かこびと」なんじゃないかな。
もしそうだったら、いいな。
「かぐや、りんごくんはもう大丈夫だから、少し外してもらっていいかな。専門的なことなんだ」
「いちゃダメですか? 分からなくても、聞いてて面白いから」
「ダメってことはないけれど、彼女の歓迎パーティーの仕度もあるだろう? カリトの料理よりも、きみの料理を食べさせてあげたほうが、ぼくはいいと思うな」
ハカセがそう言うと、かぐやは「それもそうだ」と声を立てて笑った。
そして、「りんごちゃん、またあとでね」と手を振って、退室していった。
「さて、りんごくん。きみに話しておくことがある」
診察室で医者と向い合せて座っているような気分。
ちょっと、余命宣告みたいだな、なんて思うも、ハカセの打ち明け話がなんなのか、もうお見通しだ。
「ハカセもかこびと、なんですね?」
りんごの声は弾んでいた。
けれど、ハカセは目を伏せ首を振る。
「残念だけど、違う」
弾んだりんごの言葉をどこかへと弾き飛ばすような硬い声だった。
「で、でも、かぐやちゃんは、あなたがここにやってきて計算や文字を教えたようなことを言ってました」
「そうだね。それは事実だ。ぼくはよそのコミュニティの、知識人の多く集まるところから来た。それだけだよ」
「そうなんだ……」
がっかりしていると、「ぼくが伝えたいのはそんなことじゃないんだ」と硬いままの言葉が飛来する。
ニワトリのコッコちゃんが起き出してきてベッドの端で、ハカセに向かって「こーっ」っと鳴いたけど、ハカセはそちらを見なかった。
「はっきりと言おう。きみのいのちは、覚醒から七十五時間が山場だ」
「えっ……?」
りんごの頭の中でお絵描きボードのつまみがスライドされていく。
「解凍されたかこびとは、その多くが目覚めないまま死んでしまう。目覚めても脳や四肢に問題が残ったりすることも多い」
ハカセの言葉が分からない。死んでしまう? 脳に問題?
「きみのように脳機能の低下が見られないケースでも、突然発作を起こして死んでしまう人もいる。原因は残念ながら分かっていないが、恐らくはコールドスリープの技術が不完全だったか、解凍に問題があったからだろう」
「どうして、そんなこと、言うんですか」
「事実だからだよ」
聞きたくなかった。
りんごは何も言わずに頭をかかえ、いやいやと首を振る。
「きみがここに溶けこめそうだと思ったから教えたんだ。かこびとは文化や常識の違いで、この時代の人間と上手くやっていけない者も多い。でも、きみはかぐやと仲良くなったみたいだし」
「それのどこが教える理由なんですか!? 教えるにしても、七十五時間? とかいうのが過ぎてから教えてくれたらよかったのに!」
「乗り越える必要があるからだよ。七十五時間というのは、今の時代での三日だ」
りんごは部屋中を見回した。
時計、時計。掛け時計、腕時計。スマホの。パソコンの。
毛玉ニワトリは、りんごの声に驚いてベッドの反対側の端で丸くなって震えている。
「時計を探しているんだね。きみの時代にはどこにでもあったものなのだろう。こちらにも無いことはないが、ここには無い」
「どうして、こんな酷いこと」
「すまない。ぼくには権利が無かったかもしれない。けれど、きみは乗り越えなきゃいけないんだ。あのころの文明も、きみの知っていた人たちも、もういない」
りんごはハカセを睨んだ。
謝るのなら、言わなければよかったのに。
「知ってる、知ってるよ……」
お父さんも、お母さんも。
近所の人も、学校の先生も、クラスメイトも。
コンビニの店員さんも、同じ電車で乗りあわせる知ってるけど知らないサラリーマンも。
それから……お姉ちゃん。
「宮沢苹果」
ハカセが静かに言う。
「月はもう、無くなったんだよ」
***