ピンクの空と白いもこもこ
りんごはかぐやに手を引かれて病院内を案内してもらった。
ホールのカウンターの奥には『あおがわら病院』と書いてある。
緊急外来も受け付けている大きな総合病院だったらしく、案内板には五階までの表記がある。
けれど、建物が古くなっていて危険だからという理由で、二階への階段は物が置かれて封鎖されていた。
上には「水を作る場所」があるらしいけれど、“ミズモリ”さんの許可無く近づいてはいけないそうだ。
エレベーターも障害物でガードされていて、まっくろな闇がぽかんと口を開けている。
かぐやは「この穴は昔、変なにおいがしたの」と言った。
りんごは、何かが落ちたのか、ゴミ捨て場に使われていたのかな、と思った。
電気は当然来ていない。ケーブルのたぐいはみんなロープ代わりにされている。
火が焚かれている場所を除けば、外からの光が入りこむ場所以外は薄暗かった。
それでも、夜の病院という不気味な印象のある景色と少し違うように思うのは、非常灯の緑の灯りが無いせいだろう。
あの病院らしいにおいもない。りんごはくしゃみをした。ほこりっぽいばかりだ。
静かの丘には二十人くらいしか住んでいないらしくて、陽のあるうちは屋外で生活しているらしく、休むときと何か用事があるときにだけ建物を使っているそうだ。
見せてもらったどの部屋も片づけられていて、ガラスが無くて壁や天井がはがれていること以外は綺麗に思えた。
何かに使っている部屋やスペースには、どこからか拾ってきたのだろう、病院には不釣り合いな家具や道具が置かれている。
りんごも空いている部屋をどれでも好きに使っていいと言われた。
廃材やどこかが不調の家具ばかりではあったけど、自分で自分の部屋をコーディネートできるのは楽しそうだな、と思う。
自宅にも、自分の部屋があったし模様替えも自由だったけど、それも無くなってしまっただろうし。
「このくらいの説明なら、めざめちゃんでもできるんだけどね」
かぐやが案内を買って出たのは、同年代の友達が欲しかったからという理由だけではなかった。
科学の欠けた世界では、文明人、とりわけ女子が苦労するだろうことの説明がしたかったのだ。
誰が呼んだか“地獄の穴”。地下フロアの一室の床に排泄物を捨てるための穴がある。
海のほうから水が流れて来ているらしくて、闇の中でごうごうと荒らぶっていた。
お風呂のほうは、ここと湿りの村のあいだに“泡の谷”という場所があるらしくて、そこにはお風呂があると教えてもらった。
「でも、りんごちゃんは十回も洗ったくらい綺麗だから、案内は今度だね」
りんごは恥ずかしくなった。
綺麗と言われたこともだけど、調子の戻り切らない身体は汗をかいていて、できることならすぐにでもシャワーを浴びたいと思っていたからだ。
でも、水は貴重なんだろうなと思い、我慢することにした。
かぐやは説明をするときに、大きな身振りや手振りを交えて話をした。
何か言うたびに、にこっと笑うので、りんごも何度かつられて笑ってしまう。
笑顔も魅力的だったけれど、髪の毛をちゃんと整えていることや、衣装が着重ねたぼろでも、色合いやシルエットに気を遣っていることがなんとなく分かるところも可愛い。
ホールに集まっていた人の中には、髪は伸ばしっぱなしで常にどこかを掻きむしっている人も少なくなかった。
同じ生き残りでも、根っこの部分で諦めている人と諦めていない人がいるのかな、と勝手に思った。
りんごは、手を繋いだのなんていつぶりだろうと思う。
まだ小学校の低学年くらいのときに、姉に繋いでもらったのが最後だろうか。
お姉ちゃん以外の誰かと繋いだことなんて、あったっけ。
体育のダンスくらい?
ほんの少しだけ、どきどきする気がした。
病院の外へ出ると、やっぱりピンクだった。
さっきは気がつかなかったけど、昼間で明るく、雲も浮かんでいるのに太陽が見当たらない。
「太陽は、見えるときと見えないときがあるよ」
そう言って、かぐやは目いっぱい背伸びをした。
マンガやアニメに出てくるような、大げさな動きだけど、それは彼女によく似合った。
どうやらこれは彼女だけの癖じゃないらしくて、遠くでクワっぽい道具を持って何かしている人たちも、ジェスチャーは多く表情も豊かだった。
でも、あっちの人たちとかぐやちゃんは違うな、とりんごは思う。
かぐやがアニメのヒロインなら、あっちは原始人が「うほうほ」言ってる感じだ。
どうしてだか、高校のクラスメイトだった子たちも「うほうほ」に思えた。
「狩りっていってたけど、動物がいるの?」
「動物。うん、いるよ動物。カリトが歓迎パーティーのために大きいのを獲ってくるって張り切ってたでしょ? ほら、あのあたりでトリを追いかけてる」
目を凝らすと、土や草とまじりあったアスファルトの上で、棒を振りまわしたカリトが「白くてもこもこした集団」を追いかけているの見えた。
カリトがその一匹を捕まえそうになるが、腕のあいだをするりと抜けてしまい、彼は引っくり返ってしまった。
かぐやはそれを見て笑った。
ところで、あれを「鳥」と呼んだけど、ここからじゃ遠すぎるからか、小さい羊の群れにしか見えない。
もこもこはクモの子を散らすようにばーっと逃げたり、カリトの頭の高さくらいまで飛び上がって逃げ、ふわりふわりと地面に着地したりしている。
その姿はどこか、タンポポの綿毛のようにも思えた。
もしかしたら結構、可愛い生き物なのかもしれない。
「すごいね。りんごちゃんの時代では、あれがたくさん空を飛んでいたんでしょ?」
「えっと、あれは、鳥じゃない気がする」
「そうなの!? ハカセがあれもトリの仲間だって言ってたんだけど。じゃあ、トリってどんな生き物なの?」
「羽根があって……」
「羽根ならあれにもたくさんあるよ」
「飛行機みたいに空を……」
「飛行機! それもハカセが言ってた。たくさん人を乗せて遠くの場所へ移動できるものだって」
そもそも、飛行機が空を飛ぶ鳥に憧れて作られたものなのに、このたとえでは教えてあげられない。
それでもかぐやは鳥のことなんて忘れて、ハカセから聞いたという飛行機や電車について質問を浴びせてきた。
何かを聞くたびに感心して、楽しそうにしてくれる。厭味ひとつない笑顔。
姉もそんな感じだったけど、りんごの話したことを補足するようなことを言ったり、間違いを正すこともあった。
もこもこと格闘するカリトを眺めながらおしゃべりに興じていると、何かが自分たちのそばでうごめいていることに気づいた。
「あれは、何?」
“あれ”をはっきりと見たりんごは、声が凍りついた。
ナメクジと内臓を足したような物体が、じっくりねっとりと地面を這っていた。
「あれも動物で、ニクダマって呼んでるやつだよ」
かぐやがりんごの腕を取り、離れるように促した。
「危ない生き物なの?」
声を潜めて訊ねると、「少し。でも、平気」と返ってくる。
ニクダマはどこにでも出没する生物で、動きは見ての通りゆっくり。
噛んだり跳ねたりはしないそうだけど、触ると炎症を起こすらしくて、野菜や木、食べかすなんかにも寄ってきて溶かしてしまうらしい。
もしも畑や果樹園の近所で見つけたら、棒を使ってそっと転がして、遠くへやらないといけないという。
「つついたら穴が開いて、汁が飛ぶから気をつけてね。すっごくくさいの!」
ふたりはニクダマから離れたものの、ピンクでぬめったそれは舵を切ってこちらへと向かって来ている。
歩きでも簡単に逃げられる速度だけど、とても気味が悪い。
鳴き声もあげるらしくて、ときおり「ひょぉーーーっ」とか「ひゅろろろ」とか聞こえる。
呼吸が苦しい病人みたいな音で、なんだか助けを求められてるようで、怖い。
かぐやが「あっ!」と声をあげた。
ニクダマが急に風船のように膨らんで、何かを向こうに噴射したのだ。
それは赤色かと思ったらいくつかの色を経て青、紫になっていった。まるで虹の霧だ。
「今のが汁? ホントに平気?」
りんごは声をうわずらせる。
綺麗だとも思ったけれど、ゲームに出てくるようなモンスターの毒液にも思えた。
「汁は血みたいなもので、あれはその……うんちか何かだって言われてるよ。ニクダマは誰かのいる方に向かって進むし、ふんは反対側から出るから平気だよ」
かぐやは解説して、「ストロングさんがあれを吹きかけられて、においを取るのに嵐の中に突っこんで行かなくてはならなかった話」をおまけにつけた。
彼女の口調からして、笑い話らしかった。
「本当に危ない動物はね、イルカ」
イルカ。
「イルカってあの、可愛い?」
「とんでもないよ! あれならまだイヌのほうがマシ!」
あっ、イヌはいるんだ……と思うも、イヌも危ない様子で、それよりも危ないイルカとは一体なんだろう。
変わった生き物をふたつも見ているのだ、イルカも何か別の生き物だとか、クマあたりと取り違えているのではないだろうか。似てないけれど。
「イルカはね、嵐の大洋が静かになったときに、海の中からやってくるの。私たち静かの丘の人間は、それを見張って他の集落に知らせる役目があるんだ」
かぐやの顔から笑みが消えている。
「長く陸地にはいられないから、丘を越えてくることは滅多にないんだけど、あいつらが来るときは、私たちも湿りの村に避難するの。でも、この前……」
彼女の顔がまっかなリンゴのように紅潮していく。
瞳には朝露のような雫を浮かべて。
「“むすび”ちゃんが襲われて、それで……死んじゃった」
さっき言ってた、湿りの村の、いなくなったっていう同年代の子。きっとその子のことだ。
りんごはかぐやの肩を抱いて、おでこを寄せた。
同年代の女子でそうやって慰め合う子たちを見たことがあったけど、自分がやったのは初めてだった。
「カリトは仇を討つっていうの。みんなやめろっていうのに。イルカに仕返しをすると呪われちゃうのに!」
呪い。
急に現実離れ……ううん、もう飽きるほどに非現実的。
空はピンクで、鳥はもこもこ。内臓が歩くなら、イルカが陸で呪いを掛けたっていい。
ふと、何かが噛み合わない気がした。
コールドスリープの説明会では、「安全な保存期間は、有月時間換算で最長四百年」と言っていた。
それと、姉から聞かされた考古学や、授業で習った進化の話だ。
四百年足らずのあいだに、イルカが陸に上がるだろうか?
ニクダマみたいな単純そうな生き物が生まれるのはありえたとしても、生物が変化するのには、もっともっと時間が掛かるはずだ。
何万年とか何億年とか、そういう単位がよく出てきたのを覚えている。
この人類の親戚だったネアンデルタール人ですら四万年だ。
「今は西暦でいうと何年なんだろう……」
りんごの呟きはかぐやには届かない。聞こえてもきっと西暦なんて言葉を知らない。
りんごはいまだ泣き止まないかぐやの背を静かに叩く。
彼女は笑うのも豊かに表現していたけど、泣くのも同じだった。
ピンクの空、少ない人口、奇妙な生き物。だけど近未来。
そういえば、お年寄りの姿が見えない。
一番年長に見えたストロングさんだって、りんごの両親よりは若そうに見える。
それはつまり、長生きはできないってこと?
世界は確かに滅びてしまったけど、その原因は一体、何?
りんごの知識でこれらを総括すると、宇宙への切符とは少し違ったロケットが発射される映像が頭によぎった。
「ほーら、どうだ。月のお姫様! でっかいのが獲れたぞ!」
いつの間にか、カリトがこちらに戻ってきていた。
彼の両腕にはまっしろなもこもこが抱えられていて、そいつは「こっこっこ……」と聞き覚えのある声で鳴いていた。
インターネットのケーブルらしきものでチョウチョ結びに縛られた脚は、確かに鳥のものだ。
「かぐや、また泣いてるのか」
カリトは、もこもこニワトリの脚に結ばれた紐を握って隠した。
いくつかの謎が解けたけれど、りんごはそれどころじゃなかった。
あの広がる桜色の空が、丘を吹く緑色の風が、そこいらにある灰色の瓦礫のひとつひとつが、毒を放っている気がしていた。
「仇は討ってやるよ。今度、“蛇の森”に連れて行ってやるからさ。でっかいキノコが見たかったんだろ?」
カリトがかぐやを慰めている。
でっかいキノコ? りんごの頭に浮かんだのは、小屋ほどもあるまっかなキノコの傘の下でワルツを踊るふたりの姿だ。
「そうだ! りんごも一緒に森に行こう。おれはキノコ狩りも得意なんだよ。ホントはタケさんの役目だけど、採り方をおまえに教えてやるよ」
カリトはまだ泣いてるかぐやを放って、何かを摘むような身振りを交えて笑顔でりんごに言った。
そんな彼に少しイラつきを覚えた瞬間、りんごの鼻の奥がつんとした。
起きてからずっと、鼻が詰まっていて、鼻声だったのが少し気になっていた。
りんごは咳ともくしゃみともつかない発作に襲われ、痛みと共に手ひらの中に何かを吐き出した。
まっかなまっかな、かたまり。向こうで這いまわっているニクダマに似た、それ。
続いて、通りのよくなった鼻から、つーっと温かいものが流れ、ぼたぼたと地面に落ちた。
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