静かの丘へようこそ
未来の地球。
あれから何年経ったかは分からないけど、廃虚の病院が自分の知っている病院と変わらないあたり、眠らなかった人たちはそう長くはもたなかったらしい。
けれども、地球のほうはすっかり様変わりしていて、ただ滅びたどころじゃない状況になっていた。
まず、外に出ればピンク。
ずーっとずーっと向こうまでピンク。高い高いピンク。
昼間だというのに、青空じゃなくて桜色の空が遠くまで続いていたのだ。
それから地上では、戦後や震災後みたいに瓦礫の町が広がっていて、生き残った建物がぽつぽつと見えた。
転がる残骸やゴミは、大抵が錆びたり焦げたりして、割れたコンクリートやアスファルトは草木に浸食されてまだら模様になっている。
それから、不思議なことに「風に色があった」。
吹くと草木のなびきと共に、緑色の霧が尾を引いている。
記憶のかけらと重なる瓦礫が無ければ、どこかよその星か、ファンタジーの世界に入りこんだかのようだ。
この廃病院は“静かの丘”と呼ばれているらしい。
少し高いところにあるから丘なのは分かるけど、フライパンが鳴り響くここのどこが静かなのだろう。
あっちの廃学校は“湿りの村”で、ここと同じく集落になっている。
遠くに見える大学らしき建物の“豊かの城”では、地域で一体となって果樹園をやっているらしい。
この時代では食べ物は「農耕」と「狩り」でまかなっているということだ。
狩りということは、動物も生きのびているのだろう。
りんごが流れ着いた浜辺は“嵐の大洋”と呼ばれる場所で、村や城の見える方角とは反対側にある。
それほど離れていない立地なのだけれど、不気味なことに、そこだけ本当に嵐になっていて、ときどき稲妻も降っていた。
姉と一緒に「ゲリラ豪雨の切れ目」を見たときよりもすごい光景だ。
あの嵐はよく起こるものの、この丘まではやってこないという。
りんごは「だから静かの丘なのだろうか」と思った。
ここは何県だろう。なんていう町だったのだろう。
りんごの住んでいた町や、コールドスリープを受けた場所には海は無かったはずだから、流されたにしてもどこをどうやってここまで来たのだろうか。
「どうかな、きみの暮らしていた時代と比べて」
「わたしが眠ってから、あまり経たないうちに滅びたと思います。空以外は、災害か戦争があったみたいになってるだけで」
「他のかこびともそう言ってたらしいね」
「わたしの他にもいるんですか!?」
思わず大きな声をあげてしまった。
けれども、ハカセは残念そうな表情を浮かべて首を振った。
きっと、そのかこびとは死んでしまったか何かして、もう会えないのだろう。
その人が知人である可能性は限りなくゼロに近かったけれど、りんごは貴重なランデブーに期待を寄せたのを隠せなかった。
「ごめんね、りんごくん」
ハカセはなぜか謝った。
それから、りんごのことを“くん”付けで呼んだ。まるで助手に言うように。
彼は物腰柔らかく、口調もちょっと眠たげで、歩き方もどこかふわふわしていてユーモラスだった。
他のかこびとたちに注意をするときだけ、しゃんとした口調だ。
近辺の説明を受けたのち、また廃病院の中へと戻った。
りんごがあまりにも矢継ぎ早に訊ねられるものだから、ハカセが気を利かせて連れ出してくれたのだった。
これから、質問タイムの続きだ。
昔は空が青かったって本当?
鳥が空を飛んでいたって本当?
飛行機というものに、乗ったことはある?
文化的な質問よりも、空にまつわる質問が多かった。
とりわけ、月に関する質問はダントツだ。
ハカセ曰く、ここの人たちはみんな、月に憧れているのだという。
それにしても質問は子どもじみて思えた。
月はどこからやってくるのか、大きさはどのくらいか、色は? 形は? だなんて。
りんごは教えてやった。
全部が合っている自信はなかったけれど、大抵は小中学校で習った知識を思い出すだけのことだ。
けれど、みらいびとたちはいくつかの言葉の意味が分からなかったらしく、子どもに教えるかのように簡単な言葉に置き換えなければならなかった。
苦労しているりんごを見て、ハカセは言った。「無くなってしまったものに関しては、言葉もいっしょに失われたからね」と。
同じ地球人、日本語の通じる同士なのに、意思疎通が難しいのは不思議だ。
説明に慣れてきたころ、少し調子に乗って、月の重力が地球の1/6であることや、人類が月の洞窟に住み始めたこと、そこでヘリウム3を採掘していたことも教えてみると、体格のいいおじさんが「降参だ!」とつるっぱげの頭をかかえて、みんなが笑った。
りんごは「かこびと」なんて呼ばれているけれど、実際のところ、今の暮らしぶりや知識からして、「みらいびと」は「原始人」ではないかという気がした。
姉がときおり口にした、ネアンデルタール人よりは立派だけど、りんごと同じホモ・サピエンスというには何かが欠けている。
りんごは何も特別なことをしていない。ただ、知っていることを話すだけ。
それだけでみらいびとたちは感心し、大喜びした。
語彙が乏しくなったせいか、「すごい」とか「面白い」のような簡単な単語がやたらと飛び交ったのが、懐かしい学校の教室を思い出させて気分がよくなった。
ここでは、わたしは“すっぽん”じゃない。
すっぽん。小学校の修学旅行で泊まった旅館を思い出す。
その旅館は、両親が彼女を身ごもる前に訪れた思い出の旅館だったと聞かされていて、自分だけがなんとなく先取りで知ってるような気持ちになって「親も来たことがあるんだよ」とクラスメイトにふれまわっていた。
ところが、旅館で夕食にすっぽんが出されたのだ。
美味しいといって食べた子もいたけれど、見た目のグロテスクさに泣きだす子もいて、女子の数人が「宮沢さんのお父さんとお母さん、すっぽん食べたんだ」と笑ったりもした。
あとで笑われた意味を知って、恥ずかしくなった。
それがいじめに繋がったとか、その女子たちとの不和を招いたということは、ない。
だって、りんごは人付き合いが上手だったから。
でも、ずるいことに、姉も八年前に同じ旅館に泊まっていたはずが、彼女はすっぽんを出されていなかった。
この件は両親には話さないままでいる。
けれど、両親がふたりきりで出掛けたり、家族間で旅行という単語が出るたびにこのことが思い出された。
すっぽんという確かな呼びかたが付いたのはそのときからだった。
そう、りんごにはずっと悩んでいたことがあった。
父の賢治は地域の篤志家にも頼られる司法書士で、母の智恵子は雑誌の編集部の仕事をするかたわら、ちょっとした書評家もやっていた。
ふたりは優秀。娘たちに不自由をさせなかったし、職業も好きで選んだもので、それでいて仕事の虫にもならなかった。
りんごもその血を継いだのか、勉強はよくできたし、運動も好きだった。
顔だって人並み以上だと、ひそかに思っている。
それでも、八つ離れた姉と比べれば「月とすっぽん」だった。
りんごは制服で高校を選んだけど、姉は中学のころから狙っていた日本屈指の有名大学に入学して、憧れの教授のもとで考古学を学んでいた。
りんごは部活のスタメンに選ばれたけど、姉はメダルやトロフィーをいくつも持っていた。
りんごは好きじゃない子に何度か告白をされたことがあったけど、姉は大学の時代遅れなミスコンのオファーを断わり非難までしてみせた。
同じ丸でも、こんなにも違った。
果たしてりんごは不幸か?
成績はもちろん、クラスに溶けこんでいたし、友達も多いほうだし、先生たちからの評価も良好だった。
両親だって、遅くに産まれた次女に愛情は注いでも重たい期待は掛けなかったし、長女に対してだって考古学というニッチでマニアックな道を選ぶことに水を差したりはしなかった。
なんなら、年に二、三回の家族旅行のうちの一回は必ず「古墳」とか「遺跡」のそばだったりするくらいだし、りんごの希望の土地にだって旅行もする。
だから、悩んではいけなかった。悩んでいるように見せてはいけなかった。
どんなに頑張っても勉強ができない子や、不登校の子や保健室登校をしている子、親に決められた学校に無理矢理に進学させられる子に比べたら、ずっとマシだったから。
両親は喧嘩をしない。りんごは誰とも喧嘩をしたことがない。
だけど、彼女としては、見上げればいつだって姉や両親の顔をした月があって、それが落ちてきそうなほどに迫ってきて、どうしようもなく息苦しくなる時があってつらかった。
家族のことはちゃんと好きだったのに。
学校でも同じだった。友達がいても、その子には「親友」が別にいたし、勉強やスポーツができても一番ではなかった。
本気を出したら一番になれるかもしれなかったし、友達との距離も縮めようと思えば縮められたし、男子でも女子でも、恋人くらいは作れたのだけど。
何かに向かって突き進むのが苦手なのかもしれない。
いろいろ考えすぎて、思い切ったことができない。
ずっと同じことに噛みついて離せないでいる、自分が大嫌いだった。
そんなりんごでも、姉といっしょにベランダで月を見上げるひとときは大好きだった。
本物の月が見ていてくれれば、重たい月に浮かぶ顔はファンタジーなんだって、はっきりと分かったから。
姉に対していだいていたアンビバレントな感情も、ただ好きだと感じる片方側だけで済んだから。
……アップルティーの香りがした気がした。
ここにはもう、お姉ちゃんも、月も、いない。
あのピンク色の空は、不気味だったけれど、雲ひとつなくて、どこまでも高かった。
大丈夫、わたしはここでもやれる。
「ここでは、みんなそれぞれ役目を果たして暮らしているんだ」
ハカセが言った。
きっと、わたしにも何かやれというのだろう。働く者食うべからず。分かるけど……。
りんごはいきなり心細くなって、自分の前に集まった人たちを盗み見るように観察した。
「みらいびと」たちは、姉が語っていた古代人によく似ていた。
文字の生まれる前の文明では、名前は役割や見た目で決めていたのだろうという話だ。
だから、そこにいるフライパンを持った小さな女の子は“めざめ”ちゃんだし、白衣の彼はこの静かの丘で一番の物知りの“ハカセ”だし、狩りが得意だという青年は“カリト”だし、マッチョで力仕事が得意だというおじさんは“ストロング”さんだ。
血の繋がりについては語られなかった。
こんな瓦礫の世界だ。苗字が無いというのも納得ができる。
みんな、ぼろぼろの衣類を重ね着していて、髪の毛はおおよそぼさぼさで、肌のところどころが黒や茶色で汚れていて、サバイバーな雰囲気だ。
唯一、ストロングさんだけ作業ズボンにランニングシャツ一枚で、なぜか肩からブラジャーをいくつも繋いだベルトのようなものを掛けていたけど。
恐らくこの破滅後の世界では、廃材や過去の遺品を使って、原始時代よりはちょっとマシな暮らしをしている、そう想像できた。
りんごはコンピューターゲームも得意だ。サバイバルやクラフトのジャンルのゲームもやったことがある。
銃で撃ちあうゲームだって男子に褒められたことがある。
だけど、これは現実だ。それに電子機器は持ち越しできなかったから、もう関係のないことだった。
料理はできるほうだと思うけど、ここにはフライパンはあっても、電子レンジやパックされた肉や、だしのもとはきっと無い。
同じ“クラフト”でいうなら、ちょっとした工作や裁縫もできたけど、こちらも道具や材料に問題があるだろう。
勉強は知ってる分は教えられるかもしれないけど、それはなんの役に立つのだろうか……。
ハカセが何か仕事を与えてくれないかなと期待して黙っていたけど、彼は何も言わなかった。
逆に、みんなはりんごが何かを言い出すのだと思っているらしく、ホールは沈黙に包まれたままだ。
いざ、自分で何かをしろとか、決めろと言われると、困ってしまう。
まるで、ひとりきりでまっくらな宇宙に放り出されたみたいな。
どこかに惑星や太陽みたいな目印があればいいのだけど。
けれども、そこに来たのは何かの天体ではなく、宇宙では聞こえるはずのないうるさい音だった。
めざめが「りんごの歓迎パーティーをしますよ!」と言って、フライパンを打ち鳴らしたのだ。
みんなはくちぐちに賛成して、立ち上がった。
自己紹介の途中だったはずだけど、お構いなしらしい。
「パーティだ!」とか「一番いいのを持って来てやる」とか「プレゼントはいるかな?」なんて楽しそうにしている。
「紹介はおいおいしていけばいいさ。みんな、陽気でね。楽しいイベントに飢えてるんだ。心配ないよ」
ハカセはそう言って、眼鏡の奥を笑わせた。
「りんご!」
声をあげたのはカリトという少年だ。
りんごの時代なら高校生くらいだろうか。
彼はおのおのの仕事に散っていく人たちをかき分けて、りんごの前までやってきた。
「おれがここのこと、教えてやるよ。狩りでもなんでも、できるようにしてやる。月の姫君に相応しいように」
うっ、となった。
「姫って概念が無くなってないんだ。わたしの時代でも絶滅危惧種だったのに」という、どうでもいい感想と共に、この少年が寄ってきたことに、ある種の勘がよぎった。
案の定、彼は握手を求めて手を出しだしてきた。
新しい環境になると、急に距離感がおかしくなる男子が現れる。
りんごはそういうのが苦手だった。何も知らないのに、何が決められるというのだろう。
あえて決めるとするのなら、判断材料は「上から目線っぽい」ということだけなのだけれど。
「カリトはあとにして!」
別のみらいびとがりんごの手を握った。
驚いて逃げ出しそうになってしまうも、その手の持ち主を見て、りんごは少しほっとした。
「湿りの村にいた子、いなくなっちゃって。同じ年頃の子がいなくて心細かったの」
ほかの人と同じように、薄汚れてはいたけど、髪には整えた形跡がある。
ちょっと釣り目で気が強そうだけど、顔はちゃんとしてればきっと美人。
りんごも、彼女のことは最初に目にしてから気になってはいた。
「私はここではなんでもやってるから、私に案内させて」
雑用係だろうか。だとしたら名前はなんだろう。
カリトが「なんでもやってるのはおれも同じだろ」と抗議しているが、どこ吹く風だ。
「えっと、あなたの名前は?」
「自己紹介の途中だったね。私の名前は“かぐや”! 静かの丘へようこそ、りんごちゃん!」
そう言って“かぐやちゃん”は笑い掛けた。それは、月じゃなくって太陽のように輝いていた。
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