コーヒーの香り
ハカセは今晩のうちに、エクリプスのあとを追って静かの丘をあとにするという。
そんな話、聞いてない。
かぐやはそれをりんごに知らせるために海までやってきたのだ。
ところが、そこで見たくないものを見てしまった。
でも、今はしっかりといっしょに走ってくれている。
ふたりは硬いものにつま先をぶつけたり、なんだかぐにょりとしたものを踏んだりしながらも瓦礫の丘を駆けあがった。
静かの丘、あおがわら病院検査棟。ガラクタと危険物の押しこめられた建物。
ゴールまであと一歩というとき、かぐやがびたりと足を止めた。
りんごも遅れて止まり、振り返る。
かぐやは言った。これはりんごちゃんとハカセとの問題だから。
もう、一歩も動く気はないようだった。
りんごは助けを求めたかったが、彼女に近づけなかった。
たった数メートルの距離が、三十八万キロメートルに思えた。
「前みたいに盗み聞ぎもしない。ハカセと話して気が変わっても、それはりんごちゃんが決めたことだから」
行って。早く行って。
月は地球に背を向けて。
足の裏は万有引力に吸いつけられて。
ひとりぼっちの地球には、小隕石の群れに立ち向かう力は、ない。
「りんごくん」
ハカセだ。
りんごは息を止めた。意味なんてないのに。
「本当は、黙って出て行こうと思ってたんだ。けど、逃げられそうもないね」
わたしが追い出すみたいに言う。
りんごはちょっと腹が立ったけど、おかげでハカセの顔をちゃんと見ることができた。
血の跡の残る白衣と、ずれた眼鏡。
目の奥は、なんだか眠そうに笑っていて。
彼のほうから、ふと懐かしい香りが漂ってくる。
職員室に入ったときによく香った、毎朝起きたときにいっぱいに吸いこんだ、こうばしい香り。
「コーヒーを飲んでいかないかい? 持ち越し品に飲食物を入れるのは推奨されてなかったけど、味は保証するよ」
ハカセの部屋。
難しい医学の本。小学校の先生には不釣り合いだから、あれはここで見つけたただのインテリアなのだと、今では分かる。
ベッドにはもこもこの毛玉。「こーっ、こーっ」と小さな寝息を立てている。あの子は連れて行くのだろうか。
「エクリプスのところに戻ろうと思う」
ハカセはカップを取り出し、デスクの上に置いた。
すでにコーヒーが入っているカップと同じ模様で、柄の色だけが違った。
銀のスプーンが瓶から茶色い粉末をひとさじ。
お湯が注がれると、ふわっと懐かしい香りが強くなる。
「砂糖は持って来なかったんだ。うちではどっちもブラック派だったから」
りんごもハカセのまねをして飲む。苦い。
元の時代でもコーヒーは飲まなかった。においだけが好きだった。
りんごはアップルティーもお砂糖やリンゴの砂糖漬けを入れて飲むくちだ。
そういえば、姉はひとりの時はいつもブラックコーヒーを飲んでいた。
教授に付きあっているうちに、それが自然になったんだと言っていた。
「本当は、戻るつもりはなかったんだ。りんごくんも話を聞いたのなら、気づいただろう? エクリプスは、瓦礫暮らしの人たちのことを見下している」
「そうですね」
やっとしぼり出した声は硬かった。怒ってると思われるだろうか。謝りにきたのに。
「でも、安心していいよ。彼らはみんなを“白”で、自分たちを“赤”だなんて分けているけど、それにもちゃんとした理由があるんだ」
ハカセはエクリプスたちのことを話し始めた。
彼らも、できることなら“白”の人たちも仲間に入れたいのだという。
けれども、物資が圧倒的に不足している。
地震や津波、嵐、イルカを始めとした敵性生物、そして空から落ちてくる星。
これらのせいで、整った環境を拡げることができない。
いつ滅びるかも分からない状態の中、無理をして仲間を増やし、誰もが科学に頼るようにしてしまえば、次の滅びが起こったときに、本当に人間は絶滅してしまうかもしれない。
だから、科学を忘れて白紙に戻ってしまった人たちを残したままにして、エクリプスは自分たちに何かあったとき、彼らに望みを託すつもりなのだという。
「こういう場所で暮らす人たちのほうが、体力もあるし、病気にも強いらしい。極限状態になったときには有利だ。日常的な危険は多いから、平均寿命はそう変わらないらしいけどね」
ハカセはコーヒーをすする。
いつの間にか目覚めたらしいコッコちゃんがベッドから羽ばたき、ハカセの膝に乗った。
「でも、ああいう態度ってないと思います」
「ぼくもそう思う。かこびとのことも大切にしているようで、本当は自分たちのほうが偉いって思ってそうでね」
ハカセは続ける。
「名簿に知り合いの名前は?」
りんごは首を振った。
「そこには、ぼくの名前のひとつ下に妻の名前がある。彼らがそのデータの最後を書き記したとき、ぼくは彼らを見限った」
失敗。
解凍の失敗、あるいは七十五時間の経過観察のうちに死んでしまった人につけられる印。
「妻も小学校教諭でね。とても正義感の強い人で、イジメなんて絶対に許さなかった。反対に、ぼくは見て見ぬふりをするタイプだった」
ハカセと奥さんの馴れ初めは、ハカセが担任をするクラスで放置されていたイジメに、隣のクラスの担任だった奥さんが口出しをしたことだった。
「子どもたちの苦しみをダシに幸せになるなんて、最悪な教師だろ? でも、ぼくは彼女のおかげで、少しはマシな教員になれたんだ」
結婚したふたりは幸せだった。
そして、ほどなくして議論が交わされた。
眠らない選択をした家庭の子たちを教え続ける道を選ぶか、その子たちに未来を託して眠りに就くか。
「ぼくたちの選択は間違いだったのかもしれない。人類は生きのびたけど、あんな連中が偉ぶっているのだから。ぼくは彼らのもとから逃げ出したあと、廃虚に暮らす人たちに簡単な学問を教える旅を始めたんだ」
あの人なら、きっとそうしたと思うから。
「最初のうちは苦労したよ。日常会話さえも、いろいろと言い換えなきゃいけなかったし。現役のころを思い出したよ。実際に小学生レベルで行動する人も多かったから、ちょっとバカにもしていた」
ハカセはまたコーヒーをすする。
りんごもそれに続き「わたしもです」と言った。
「だったら、ハカセがエクリプスに戻ろうと思ったのはどうしてですか? わたしが、あなたに冷たくしたから?」
問いかけると、ハカセの顔がリンゴみたいに色づいた。
「あのときはちょっと、きみに感情移入し過ぎていたんだよ。丘のみんなに頑張って教えようとする姿が、自分や妻に重なったから」
りんごは今だと思った。
ハカセに「ごめんなさい」と「ありがとう」を伝えた。
「いいんだよ。それに、お礼を言うのはぼくのほうだ。きみのおかげで、戻る決心がついたんだからね」
ハカセは首を振り言った。
「いろいろとすまなかったね。試すようなことをしたり、身分を偽ったり」
ハカセの謝罪に、りんごも首を振る。
彼女だって、同じようなものだから。
「エクリプスに戻って、どうするんですか? ここで、“ハカセ”や“センセイ”をしているほうが、ずっといいと思いますけど」
「ぼくが本当に教えてやらなきゃいけないのは、彼らのほうなんだ」
エクリプスたちとの生活では、綺麗な水が気兼ねなく使えて、灯りは火ではなく電気で、廃材利用だけでなく、原料からの鋳造や加工もしていて、無線通信までも使えたという。
そのほとんどは、かこびとの知識や過去の遺産の流用ではあったけれど、エクリプスの暮らす地には、確かに科学があった。
「けれど、連中が求めるのは技術とか発展とか効率とか、そういうものばかりでね。ぼくもあのときは“あるもの”が欠けていることに気づかなかった」
ハカセはわざとらしく耳の横に手を当てた。
そうしなくっても聞こえる。また誰かが“オンガク”をやっているようだ。
「ぼくらの時代には、娯楽は多すぎるくらいに溢れていた。あんまりにも多すぎて、義務みたいになって疲れるくらいに。常に耳に音を入れて、スマホや本を手にして、何かの更新や情報を追いかけ続けてね。この時代は、そういうものとは無縁だけど、案外悪くないだろう?」
ハカセが鼻で笑ったのを見て、りんごは思わず立ち上がっていた。
ニワトリが驚いて飛びはね、ベッドに逃げる。
「でも、本当につらいときには助けになります! 人と人を繋ぐことだってできます!」
「ザッツ・ライト。りんごくんは正しい。エクリプスも今の人類に、いや、地球に必要な存在だ。でも、このままじゃどん詰まりになる。ぼくがどれだけ影響できるか分からないけど、彼らにもちゃんとした文化が芽生えるように、働きかけようと思う」
「できるんですか?」
「分からない。きみと話すのを怖がってこっそり逃げようとしたぼくなんかじゃ、ダメかもしれない。だけど、彼らはかこびとの知識や経験を信じているし、上手く丸めこむことだって、できるかもしれない」
すごいことだと思った。
やっぱりハカセは、偉い。
「でも、わたしは……」
「いいんだ。来てくれなんて言ってないし、言わない。きみは、きみの思うように生きなさい」
眼鏡の奥がにこりと笑った。
「わたしの、思うように……」
りんごは家族を思い出す。りんごの家族は、誰もそう言ってくれなかった。
三人とも、当たり前のようにそうしていたから。
でも彼女は、それが人生においてとても大切なことだと分かっていたのに、言ってくれなかったせいで、かえって義務や重荷に感じていたんだと、気がついた。
規範に従うことと、自分に従うこととの板挟み。
誰かの目を気にして、自分の幸せも不幸せも認めないで。
「わ、わたし! ここで必ず、自分の役目を見つけます! 本当にやりたいことを!」
「その意気だ、りんごくん。かぐやも言ってたけど、やっぱりきみはすごいよ」
「そ、そうかな。かぐやちゃんとも、ケンカしちゃったし……」
りんごは座りなおす。コーヒーは冷め始めていた。
「若い子ってのは羨ましいね。愛しの妻とのケンカと仲直りの事例を百個くらい引いてもいいかな?」
そう言って彼は日記帳らしきものを取り出した。
「遠慮しておきます。今、そういう話はお腹いっぱいなんです」
りんごが断ると、ハカセはお腹をかかえて笑いだし、眼鏡の下をぬぐった。
「やっぱりそうなったんだ? カリトがきみに告白か何かして、それでかぐやとケンカになったんだろ?」
「ハカセ、知ってたんですか!?」
「知ってたも何も、見てたら分かるよ。テンプレートってやつだ。そういうのって、小学生でもやるものだよ」
ハカセの顔は、姉が意地悪をしたときの顔と、どことなく重なった。
りんごはつい、「バカにしてるんでしょ!」と怒鳴ってしまった。
「ごめんごめん。でも、バカになんてしてないさ。きみも知ってるはずだ。小学生だって、一所懸命なんだって」
りんごはため息をつき、そっぽを向きながら「そうですね」と言う。
「誰だって同じだ。かこびとも、この時代の人も、白でも赤でも。だから、対等な立場として、一人の人間として、りんごくんの意見を聞いておきたいと思う」
そういいながらもハカセは「若者のほうがトレンドに詳しいだろうし」と言い、「おっと」と打ち消した。
「つまり、エクリプスに広めるものでオススメは何かないかなって話なんだけど」
りんごは困ってしまう。
音楽はここでは確かに広まったけれど、りんごの腕前じゃ底が知れている。
瓦礫を笑う連中から見れば、下手な音楽なんてたいしたことがないと、かえって切り捨てられてしまうだろう。
小説などの創作なんかも、彼らに受けるとは思えない。
余裕がないうちに作り話を広めるのは、かこびと全体への信用問題だ。
学術的な線も絡めていうなら、哲学あたりが妥当だろうか。
それも、やっぱりダメかもしれない。
姉が「形而上学は、暇人が星を眺めたときに生まれたんだよ」なんて言っていたし。
エクリプスたちでも、空を見上げるくらいの時間はあると思うけど……。
星、空、お姉ちゃん……。
そうだ、月!
「ハカセ、月の投影施設の修理って、できませんか?」
「月か。施設の位置は把握されているけど、放置状態らしい。何度か空に出現している以上、復活の目もあると思う」
「月があればカレンダーが作れます。何かと便利だし、星空を見上げる癖がつけば、きっと彼らも何か思うはず」
ハカセがにやりと笑った。
「名案だ。彼らは独自の時計は持っていたけど、暦は無かった。一日の時間の把握と、エクリプスが発足してからの累積時間だけだ。科学をずるして手に入れたし、四季も月もなくなったから、その必要が生まれなかったんだろう。だけど、実用的な方面と、技術的な挑戦をダシにすれば、上手く仕向けられそうだ」
ふたりの声が弾む。
「ほかのぼくらの時代の仲間にも手伝ってもらえば、きっとできる。なんてったって、ぼくら地球人類は月のありがたみをいやと言うほど知っているからね。それがバーチャルなものでも、拝まずにはいられないんだ。彼らも絶対にそうなる。言い換えれば……おっと、もうお腹いっぱいなんだっけ?」
りんごは首を振る。
「お堅い連中に、月に恋をさせる、ってことですね」
言っておきながら、頬が熱くなってしまう。
何言ってるんだろ。ハカセも同じ気持ちだったらしく、ふたりそろって吹き出した。
「そうと決まれば、やる気が沸いてきたぞ。りんごくん、空は毎晩欠かさずに見上げててくれよ。いつになるかは分からないけど、絶対にやり遂げてみせるから!」
「はい!」
ハカセは再びお湯を沸かし始めた。「やっぱりカフェインは最高だ」、なんて言いながら。
ブルーのキャップのボトル。インスタントだけど、おいしいは本物。
りんごはベッドの上のニワトリを捕まえると、ぎゅっと抱きしめた。
「いい感じにしてるところ、悪いけどさ」
ついたてからカリトの顔が現れた。彼は鼻を鳴らすと「いいにおいがするな」と呟いた。
「カリトまで盗み聞き? 別にハカセとは、そういう関係じゃないから」
「そうかい、それなら結構。ま、りんごはこれから、おれのことを見直すんだけどな」
「無いと思うけど」
りんごはきっぱりと言った。
「あるんだよな、それが。しかも、ふたりはおれと同じで、赤コートの連中にむかついてるんだろ? だったら、お手柄ってやつだ。本当は、ハカセには教えるかどうか、悩んだんだけどな」
「何それ」
「まあ、りんごくん、聞こうじゃないか。カリト、何があったんだい? その様子だといい知らせのようだけど」
ハカセが促すと、カリトは歯を見せ満面の笑みを浮かべた。
「見つけたんだよ、カプセル。赤い連中を出し抜いてやったんだぜ。壊れてないし、ランプってやつが、ちかちか光ってるんだ!」
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