紅きエクリプス
きゅいーーん、ほわーーん。
きゅいーーん、ほわーーん。
イルカがやってきたぞ。
“虹の入り江”のみんなを襲っても、まだ足りないから丘も越えてやってきたぞ。
前回に襲撃のあったときには、湿りの村までやってきたから、みんなはもっと遠くの森まで逃げた。
大きなキノコのたくさん生える、“蛇の森”までやってきた。
その名の通り、森にはときどき大蛇が出てくるし、巨大キノコの傘には謎の繭がぶら下がっているし、言葉が通じなくて服も着ていない“ヒト”も潜んでるって聞いたけど、だからハカセはそこに逃げろって叫ぶんだ。
なぜならイルカは「科学のにおい」を嗅ぎつけて、「殺すために」やってくるのだから。
「イルカたちは先に虹の入り江を襲っていたんだ。あいつらは“虹のカリト”と“リョウト”を咥えていた!」
カリトがキノコにやつあたる。繭がぶらりとし、星明りの中に胞子が雪のように舞った。
虹の入り江は嵐の大洋に面した集落で、静かの丘からはずいぶんと離れている。
入り江の人たちとは、狩りに出るカリトたちがたまに海で会うくらいの関係らしくて、りんごは見たことも聞いたこともない人たちだった。
ところで、それはホントにイルカだったのか?
ウィ? ノン? 答えはウィだ。
りんごは確かに見た。瓦礫の斜面の向こうを進む、てかてかした群れを。
つるつるの頭に尖った鼻先。ぎざぎざの牙には、りんごの知らないあの人を咥えて。
りんごにはそれが頭だとは分からなかったけれど、同じくらいの位置にいた他のみんなは分かったと言うから、りんごは「みらいびとはかこびとよりも目がいいんだ」なんて、どうでもいい感想が浮かんだ。
だって、こんなの現実とは思えなかったから。
まるでB級映画かC級映画。そう、ちょうどサメのおふざけパニック映画みたいな。
りんごの見たあいつらは確かにイルカで、瓦礫の上をはいずり跳ねてやってきていたし、それが噛みついたり、呪いで人を殺すなんて言うんだもの。
「もう嫌! もっと遠くまで逃げようよ! みんなでやりなおして、違うところに住もう!」
かぐやが叫ぶも、誰も同意しない。
この世界で暮らしの基盤を築くのは大変なことだし、果樹園にいたっては何十年と積み重ねてきたものだ。
泡の谷みたいな場所も、他にはないかも知れない。
入り江の人たちも、イルカの存在を知っていて海のそばに住んでいたはずだ。
それにストロングさんが言うには、「どこに行ったって海はある」のだから。
「イルカは半日もすれば海に引き上げていく。一度、去れば次に晴れが続くまでは現れない。もう少しの辛抱だ」
ハカセがなだめるも、かぐやは「ここまで来ませんように、ここまで来ませんように」と繰り返すばかりだ。
可哀想なかぐやはぶるぶると震えていて、りんごと繋いだ手に溜まった汗も冷たくなっていた。
「おい、静かのカリト。あっちにヘビが出たんだ! ちょっと手を貸してくれ!」
よその集落の男の人が叫んでいる。
「行かないで!」
かぐやがカリトの腕をつかむ。
「離せよ。ヘビだって危ないんだぞ」
「だって、イルカが来るかもしれないんだよ! 見つかったら殺されちゃうよ!」
「大丈夫だって。おれはイルカなんかにやられはしない。この槍でひと突きだ」
カリトの持った先のとがった鉄の棒が、赤みを帯びた星光にきらりと返事をする。
「イルカを傷つけると呪われちゃうんだよ。カリトのお父さんだって」
「だからだろ。むすびが死んだのだって、イルカが噛んだからだ。あいつら、寄ってたかって、食うわけでもないのに身体中に歯型をつけて!」
カリトが怒鳴ると、かぐやは目をぎゅっと閉じて頭を振った。
「いざとなったら、ここに住むヒトたちに助けてもらえ。ここの連中は言葉は通じないけど、気のいい奴らだから」
それでも彼女は手を放さなかったけれど、カリトは強引に振りほどいた。
りんごは思った。もしもカリトに何かあったら、かぐやはきっと立ち直れない。
「待って!」
今度はりんごの手が彼を捕まえた。
「カリトじゃなきゃダメなの」
りんごが懇願するとカリトは目を丸くし、それから目を細めて少しのあいだ見つめたあと、「分かったよ」と笑った。
きゅいーーん、ほわーーん。
きゅいーーん、ほわーーん。
空にイルカの歌が飛んでいる。
それは長いあいだりんごたちを揺らし続けていたけど、東雲が紅を差し始めたころになって、ようやく小さくなって消えた。
今日は太陽が薄っすらと見える。
それは目に痛いほどの白ではなく、理科の教科書で見た月蝕を思い出させる赤だった。
「もう大丈夫だろう。イルカもこんなに長いあいだは陸地にいられないはずだ」
ハカセがそう言うと、つぎつぎとため息が聞こえた。
みんな疲れ切った顔をしていた。
全員を集め、欠けた者がいないか調べる。
豊かの城、泡の谷、湿りの村、それから静かの丘。よかった、誰も欠けていなかった。
虹の入り江の人たちは、残念だったけれど。
ようやく話し声やあくび、「やっつけてやったのに」なんて強がりも聞こえ始めた。
やっと、帰れる。りんごたちは蛇の森をあとにする。
イルカはどうして人間を殺しに来るのだろうか。
りんごの生まれた時代では、イルカと人間は友達のイメージだった。
イルカ漁はあったけど、それに対して乱暴なほどの反対者もいたりした。
その人たちならきっとこういうのかな? 「イルカは人間に復讐をしようとしているのだ」って。
けれども、今りんごの目に映っているイルカたちは、まるで水族館のショーでボール遊びを披露するかのように、ニクダマを弄んでいた。
イルカだ。イルカの群れだ。
森をすぐ出たところに、奴らはいた。
鳴き声を消して、帰ったふりをしていたんだ。
そろって、くるり。
イルカたちはこちらを見ると、きゅきゅと笑った。
語尾にハートマークがつくのがぴったりな、とってもキュートな笑い声。
イルカはりんごたちを追い回し始めた。
地面をのたうちながらやってくる彼らは、とっても楽しそうだ。
りんごには「遊ぼう、遊ぼう」と言っているように聞こえる。
もしかしたら、本当に遊んでいるだけ?
人間がイルカ漁をしていたのは、小十郎がなめとこ山のクマを撃つのと同じだと知っていた?
イルカは賢いらしいし、もしかしたら読書家なのかも。
まさか。彼らは逃げる背中を鼻先でついて転ばして、腕や脚に噛みついて。
りんごは気づいた。
そうか、これ、知ってる。学校で見たことがある。
「みんな、反撃はするな! 逃げるんだ!」
ハカセが叫んだ。
どうして無抵抗なの? ハカセもかこびとなのに、呪いなんて信じているの?
「このやろう!」
誰かが叫んだ。誰だろう。それから「きゅう!」と心が痛くなるような悲鳴があがる。
イルカたちの笑い声がやんだ。
「なんだ、こいつら。弱っちいぞ」
言ったのは誰だろう。彼はお腹を上に向けて転がったイルカにキックをお見舞いした。
りんごは急に「きーーん」という音があたりに響いた気がした。
音のない音。テレビやパソコンモニターの電源が入っているけど音声が鳴っていないときに聞こえる、耳鳴りのようなあの音。
それから、「呪われてしまった人」を見たりんごは、電子レンジでゆで卵を作れると聞いて試して失敗したときのことを思い出した。
悲鳴が耳をつんざく。ゆで卵のそばにいた人は、トマトソースまみれになって尻もちをついた。
イルカたちが笑い始める。また誰かが突き飛ばされて、誰かが噛みつかれる。
どんっ。ゴムのような感触がりんごの背中を押した。
りんごは転んでしまい、「りんごちゃん!」と叫びを聞いた。
イルカだ。イルカたちがこっちを見ている。つぶらな黒真珠を並べて。
ぎざぎざの歯が並んだピンクの口をぽっかりと開け、ブラックホールみたいなその奥から、かぷかぷかぷかぷ笑い声。
りんごは立ち上がれない。
かぐやが手を放してくれないせいで、腕にひねりが加わっていたからだ。
突如、イルカの上あごが割れて、ピンクのお口の中に銀色の柱が現れて、下あごまで貫いた。
カリトはずるりと血に染まった槍を引き抜くと、ほかのイルカを睨んだ。
イルカたちは、またもぴたりと静まり返っている。
「立ち止まるな! 逃げろ!」
叫んだのはハカセだ。彼はカリトにタックルを喰らわせる。
「逃げろカリト! 少しでも遠くへ、じぐざぐに走って逃げるんだ! 立て、りんごくん!」
ハカセがかぐやの手をほどき、りんごはようやく立ち上がった。
その代わりに、ハカセがイルカに突き飛ばされて転がってしまう。
どうしよう。逃げなきゃ。
でも、ハカセがピンチだ。
彼はりんごも助けようとしてくれた。
りんごはあんなに冷たくして、あの日から今の今まで言葉を返さなかったのに。
りんごはいまさらになって思い当たる。
きっとハカセだって寂しかったんだ。誰かに頼りたかったんだ。
カリトも逃げようとしてるけど、イルカたちがぶつかって邪魔をしている。
あいつは好きじゃないけど、それでも死んで欲しくない。
りんごは、助けようとしたのだろうか、逃げようとしたのだろうか。
どちらにしろ、その場から動けなかった。
立ち上がれたものの、かぐやがりんごの脚に両腕を回して抱きついていたからだ。
「お願い、りんごちゃん。助けて!」
彼女は見上げて懇願している。
その腕は噛みついたすっぽんのように硬く、放してくれない。
きゅいーーん、ほわーーん。
きゅいーーん、ほわーーん。
それから、きーーん。
ぼんっ!
何かが爆発した。
りんごの眼前で血しぶきがあがる。
つぎつぎと、つぎつぎと。
それは、クジラの潮吹きを赤く染めたようなもので、吹いたのはその同類たちだった。
乾いた音が響き、イルカが潮を吹き、びくびくと痙攣して、血の海を広げていく。
地球が赤く染まる。
まっかなまっかな海だよ。
ぱんぱん、きゅう。
イルカたちはみんな死んでしまった。
殺されたんだ。
「わたしたち、助かったの……?」
見回すと、みんなは血まみれだったものの、しゃがみこんだり頭をかかえたりして震えていた。
カリトは青い顔をしながら死んだイルカを槍でひっくり返していたし、死骸の下からはい出てきたストロングさんの腕の中では、めざめがきょろきょろしている。
りんごの足元のすっぽんも、泣いてはいたけど無事だ。
それから、白衣を赤に染めたハカセが立ち上がり、ずれた眼鏡を直した。
彼の目はりんごの後方を見ていた。
振り返ると、見知らぬ人間の集団がいた。
一瞬、蛇の森の言葉の通じないヒトたちかなと思ったけれど、たぶんあれは正反対だろう。
彼らはまっかなコートに身を包んで、筒状の何かを持っていた。
りんごにはそれが鉄砲だとすぐに分かった。
「危ないところでしたね、“先生”」
赤コートたちのひとりが言う。
「イルカは危険だ。やはり、あなたはわれわれと来るべきなんです」
彼はハカセのことをまっすぐ見ていた。そして、りんごのほうを向いて友好的な笑顔を見せた。
「そちらにいる女の子は“学生”ですね。これは収穫だ」
赤コートの集団が歩いてくる。
みんなは怯えた視線を向けたり、お礼を言ったりしているけど、赤コートたちはそれを無視してりんごを取り囲んだ。
「おケガはありませんか、学生のお嬢さん」
手が差しだされるも、りんごはそれを取らずに訊ねた。
「助けてくれてありがとうございます。あなたたちは誰、ですか?」
すると赤コートはかしこまってこう答えた。
「おっと、これは失礼。私たちは“エクリプス”。あなたたちかこびとを蘇らせて、科学の復活を目指す者なのです」
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