叩けフライパン、刻めビート
瓦礫の丘をくだって、泡の谷へ。
りんごの時代のお風呂の話をしたり、月の話をしたり。
めざめの心配をしたり、心配の足りない大人たちのことを愚痴ったり。
泡の谷はりんごが想像していたものとは違った。
お風呂と聞いていたから、銭湯の建物が残ってるのかなとか、まさかドラム缶風呂? とか、温泉が湧いてたらいいなとか考えていた。
ところが現れたのは川だった。
それも、ちゃんとした土や砂の底を持った川とか、舗装された水路とかじゃなくって、さびきった看板や廃材やタイヤが沈んでいるものだ。
かぐやが言うには上流の水は「ちゃんとしてる」らしいけれど、りんごの期待の気持ちはすっかりと萎えてしまった。
川をたどって進むと、大きな池にでた。
これももちろん、単にくぼんだ所に水が溜まっただけという感じだ。
でも、水面は静かで、深さは何十メートルもありそうなのに、底に沈んだ車両や家屋のかけらが見えて、水は空と同じ薄桃色に光っていた。
水中に生き物の姿は一つもないけれど、たまに岸に何かがいて水を飲んでいることはあるとかぐやは言う。
「一番底から、たくさんの水が沸いてるんだって」
りんごは水に手を差しいれてみる。氷水ように冷たい。
何かが浮いてるとか、ぬめっている感じもなく、においもしない。
「あそこが水場だよ」
かぐやの示す池の向こう側ではいくつもの湯気や煙が、もっくもっくと上がっている。
廃虚の壁やシート、板状の廃材なんかで作られたブースが複数あるようだ。
トラックのコンテナも転がっていて、それも何かに使われているようで、そばでは何人もの人が色とりどり大小さまざまな容器に水を詰めている。
洗濯もここでできるようで、しかもちゃんと洗剤があるらしく、泡の谷の名に相応しい光景も見られた。
さいわいなことに、りんごの求める倫理観はちゃんと生きのびていたようだ。
それぞれのブースは仕切られていたし、脱衣所もブースごとに用意されている。
湯船はどうしているのだろうと思ったけど、ちゃんと元お風呂の一部だった本物の湯船が置かれているのだ。
カーテンっぽいものが閉まっているのが使用中で、開いているのは自由に使っていい。
タオルの貸し出しや飲み物の提供もあるそうだ。
ただし、この世界ならではのお風呂の流儀もある。
まず、湯船はからっぽで、そばにはバケツなどがあります。
となりには池や飲料水の加工設備があります。
つまりは自分で水を張れってこと。
わざわざ張り直すのは、衛生上の問題で取り替えているのではなくて、単に湯舟が穴あきだから。
それでも使い続けているのは元お風呂のパーツは貴重品だからだ。
ほかの素材だと、錆びたり熱に耐えなかったり、肌を酷く傷つけてしまう。
もちろん、湯加減だって自分で調整する。可燃物や薪の配布場もある。
耐火性のない湯船は金属の板の上に乗せられていて、その下で火を燃やすのだ。
一応、底にはすのこ代わりの何かが敷いてあるけれど、油断すると火傷しちゃうらしい。
火はここに住んでいる“ヒバン”さんから借りられる。
そうそう、湯船に新しい穴が見つかったとき、漏れた水が火に掛かってしまう場合は“泡の谷のナオシ”さんに知らせて修理してもらうのも忘れずに。
それから、ここで貸し出されている「思ったよりは綺麗なタオル」にも要我慢だ。
ここまで歩くのにも距離があるし、着いてからも大仕事。
それでも、この施設は貴重らしくて、静かの丘や豊かの城、湿りの村のほかからも、はるばる人がやってくるらしい。
入浴後らしい男の人はさっぱりとした顔をしていたし、洗濯や水詰めの作業をしている人はみんなおしゃべりをしている。
豊かの城から持ってきたと思われるジュースが配られていて、お風呂上りに腰に手を当てて飲んでいるのっぽのウエノさんを見つけたときには、りんごは思わず吹きだした。
いつの時代になっても日本人はお風呂が好きなようだ。
ひとつ変わった点といえば、大浴場が無いことだろうか。
原始生活に逆行するなら、むしろそっちが流行りそうだけど、りんごはちょっと安心した。
さて、この面倒なお風呂、誰かが使ったあとを利用するのも手らしいのだけど、ふたりは待たずにバケツリレーをした。
かぐやがある特定のブースを使うことにこだわったからだ。
「鏡付きのお風呂がここだけしか空いてないの。ほかの人が来る前に取らなきゃ!」
彼女いわく、男の人は長風呂で、鏡付きのブースを独占しがちなのだという。
りんごは今になって気がついたが、出逢った男性のほとんどはりんごの時代の日本と変わらず、髭を生やしていない人のほうが多かった。
ストロングさんに至っては頭もつるつるだったし、みんなもそのあたりは気をつかっているようだ。
理美容の文化が生きているのはいいことだな、なんて、りんごはひとりうなずく。
ところが、これは勘違いだったことに後で気づくことになるのだけど……りんごはまず別の壁にぶち当たった。
バケツリレーを済ませて「お先にどうぞ」と言ったら、かぐやに首を傾げられてしまった。
まさかいっしょに入るとは思っていなかった。
湯船だって正直言って小さいし、空いた個室はまだあるのだし、何より恥ずかしい。
修学旅行のお風呂のときとかでも、なんともないふりをしながらも、かなり気疲れをしてしまったものだ。
家族と入るのも、じつは抵抗がある。
旅行に行けば温泉のひとつやふたつ入るけれど、いつも決まって誰もいない時間に入り直すのだ。
なんともなかったのは、小さいころに姉といっしょに入っていたころくらいだろうか。
かぐやはカーテンを閉めると遠慮なく脱ぎ始めた。
やっぱりぼろを適当に重ね着をしているだけらしく、ちゃんとした下着も無いようだった。
それよりもりんごが驚いたのは、かぐやの手足だ。
ひっかき傷や擦りむいたあとのようなものがたくさんあった。
当たり前だ。
文明と災害の遺した危険な罠は、世界中の至るところにあるのだろう。
りんごだって、すでに何度か指先を切ったり、とげが刺さりそうになって焦る場面に遭遇していた。
めざめちゃんのような大ケガも、珍しいことじゃないのかな。
だからって、もう少しくらい心配してあげてもいいのに。
りんごが大人たちへため息をついていると、かぐやが「あっ」と声をあげる。りんごちゃん、それマズいよ。
かぐやの指摘で、りんごの思い違いがひとつ正された。
理美容はおまけだった。かぐやや男性陣が鏡にこだわるのも、これが理由なのだろう。
そういえば、ぼりぼりやっている人も珍しくなかったっけ。
つまり、隕石や天変地異は多くのものを滅ぼしたけれど、人間が絶滅しなかったのと同じく、その毛の中の住人も生きのびていたというわけ。
結局、りんごは過去一番の恥ずかしい思いをした。
ちゃんとした剃刀ならともかく、ガラス片や金属片なんて上手に扱えなかったから。
そのうちふたりとも黙りこんでしまって、交わされた会話は「お湯、こんなに要らなかったね」だけ。
お互い向きあったりもしないで、カーテンを監視するようにじっと同じ方向を見る。
お風呂はすきま風、湯船は穴あき。
目隠しはあっても、音は全部筒抜けだ。
「気持ちよかったね。恥ずかしかったけど」
そう言ったかぐやからは、りんごもよく知っている女子のにおいがした。
彼女は、りんごもよく知っているシャンプーのボトルを見つめていた。
それは、カリトが「宝探し」をして見つけてきた「宝物」なんだと聞かされる。
りんごはまた別の恥ずかしさでいっぱいになった。
この世界の暮らしをバカにしていた。原始時代だって、文明は滅びたんだって。
それでもみんな、お互いに気をつかって。些細なことでも驚いたり楽しんだりして。
りんごは、せがまれてボトルに書いてある説明文を読み、その意味を解説してやりながら、かぐやへのお礼を考えていた。
出逢ってからの数日、かぐやの目線や口ぶりで気がついていた。
仲良くなっても、りんごが彼女を頼っていても、それをしてやる気はなかったのだけど……。
「ねえ、かぐやちゃん、わたしの制服、着てみない?」
制服を着たかぐやを見て、りんごはちょっともらい泣きをした。
洗いたての髪をりんごのブラシでとかしてやり、少しきつめで活発そうな顔によく似合うポニーテールにしてやる。
ヘアピンやゴムバンドは余分にあったから、遠慮を押し切ってまでかぐやの宝物に加えてもらった。
本当によく似合っていた。
りんごの学校にかぐやのような友達がいたら、ううん、かぐやちゃんがいたらよかったのにとさえ思った。
ブースから出ると、制服姿を見たみんなが褒めちぎっていつまでも観たがったので、お風呂上がりのジュースは諦めて、ふたり笑って逃げるように谷をあとにすることになった。
道ばたでニクダマを見かけて「お風呂に入ったばかりなのに!」なんて笑いながら大げさに逃げたり、瓦礫の隙間からこちらを覗く大ネズミに向かって「わたしの友達、可愛いでしょ?」なんて言ってみたり。
鼻歌なんて歌ったのは何年ぶりだろうか。
楽しい。
丘に戻ると、りんごはもっと気分をよくした。
カリトがいたからだ。
彼が制服姿のかぐやを見たときの反応が一番楽しみだった。
しかも彼は、天然のシャワーを浴びてきたらしくびしょ濡れで、ウミヘビらしきものとオバケみたいな顔をした大きな魚を棒に刺して担いでいた。
めざめのために危険を冒してまで海へ獲物を探しに行ってくれたのだろう。
ところが。
「あんまり似合わないな、だって!?」
りんごは床を踏み鳴らした。
もう一つむかついたのは、その失礼よりも先に、かぐやの衣装を着たりんごのほうに「似合ってるじゃんか」と言ったことだ。
人をグーで殴りたいと思ったのは、生まれて初めてだ。
けど、当の親友がぶたないのに、ぶてるわけがない。
りんごは「原始人以下!」と怒鳴る。
かぐやはすっかりしょげ返り、丘の仲間のコメントを集めることもなく制服を返却してしまった。
泣いてはいなかったけれど、心の中では大雨に決まっている。
りんごのほうなんて、まさに嵐の大洋だ。
「ああもう、うるさい!」
どこかの部屋からひっきりなし、何かをやかましく叩く音がする。
かぐやが「ストロングさんとナオシさんのガラクタ部屋じゃないかな」と言うので、苦情を言ってやろうとのっしのっしと大股で突撃だ。
声もかけずに部屋を覗くと、その二人が棒やらトンカチやらで廃材をひっきりなしに叩いていた。
「あれ? 修理じゃ、ない?」
首を傾げたのはかぐやだ。
「おう、かぐやとりんごか。かぐや、髪型を変えたのか? いいじゃねえか」
言いながらも、つるつるおやじはずっと一斗缶を叩いている。
もうひとりの男が叩いているのは、スツールに渡した木材だ。
「ふたりは何をしてるの?」
「分かんねえ。うるさかったら悪いな。けどよ、俺たちさっき、むかついたからな」
彼らはさっき、めざめのお見舞いに行ったらしい。
めざめはベッドに座って足のあいだにフライパンを挟み、片手でもなんとか役目ができないかと奮闘していたようだ。
ふたりは休むように言ったけれど、「ねむりが役目をしないから、がんばります」と彼女は譲らなかった。
「ねむりのことは好きになれねえ。いまさら何かやれとは言わねえけどよ。見舞いのひとつくらいしろってんだよな!」
ストロングさんの憤慨。
それからナオシが「まったくだ!」の同意と共に木材を、かつーんとやった。
「よーし、俺も一発でかいのをやるぞ」
おやじは「めざめ、早くよくなれよーーっ!」と叫び、ぶっとい腕を振って一斗缶をばーーん!
「ちょいとすっきりしたぜ。癖になるんだよな、これ」
顔はまだ怒っていたけど、なんだか楽しそうだ。
りんごは“これ”を知っている。
わたしもなんでもいいから叩きたいと思った。
「……音を楽しむと書いて、音楽」
つぶやきに一同は「オンガク?」と首を傾げる。
りんごはそれほど楽器のできるほうじゃない。カラオケも誘われなきゃ行かない。
ピアノはうちにあったけど、姉が小さいころにちょっと習っただけでほこりを被っていたし、軽音部とか吹奏楽部にも縁がない。
でも、なんだか無性に“オンガク”がやりたくなった。
りんごは手ごろな棒を拾い、壊れたフライパンやらパソコンの筐体やらを少し叩いて、音階を三つ四つ探す。
それから、記憶のノートを小学校のころまでめくり、リコーダーの練習曲の、当時はカッコイイなと思っていた曲を引きずり出しておく。
そして、ストロング師匠に習って一発「元気になれーっ!」とやり、廃材たちに向かって思いのたけを刻み付け始めた。
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