ノイズ
おぼろげな満月。
ノイズ交じりでぶれていて、りんごが生まれるよりも昔に使われていたというブラウン管テレビの砂嵐の中にあるようだった。
加えて、設定が狂ってしまっているのか、異様に大きく映し出されていた。
圧巻だった。遊園地のアトラクションのワンシーンを思い出す。
しかし、月はニ、三度大きく揺らいだかと思うと、ぶつりと消えてしまった。
「あーあ、消えちゃった」と残念そうなかぐや。
ふたりは顔を見合わせると、やっぱり笑った。またすごいもの、見ちゃったね。
月を見たのはりんごとかぐやだけじゃなかった。
たまたま外に出ていたストロングさんが気づいて、建屋の中に向かって怒鳴るように呼び掛けたのだ。
間に合った人は感嘆の声をあげ、間に合わなかった人はとっても残念そうだ。
ねむりも早足で行ったり来たりして、「見れなかった、見れなかった」と爪を噛んでいた。
昼寝をしてまで夜空を眺めている彼女が見逃したのは、本当に残念だったろう。
りんごは気づく。めざめちゃんがいない。
感想を言い合ったり、余韻でぼーっとしている人たちの中を見渡すけど、黒い月を握った女の子の姿は見当たらない。
見た感じ、静かの丘のメンバーはめざめを除いて全員が屋外に出てきている。
何人かに訊ねるも、「ねむりといっしょだっただろ」という返事しかもらえない。
りんごの胸に暗雲が立ちこめ始めた。
保護者であるべきはずの女も、餅つきのように同じことを繰り返すばかりで、りんごの言葉は聞こえてすらいないようだった。
気がついたら建屋に向かって走っていた。
また、だ。どうしてだろう。昔はこうじゃなかったのに。
うしろから「どうしたの、りんごちゃん」が追いかけてくる。だから、大丈夫。
壊れた扉を抜け、最初に見つけた部屋をのぞきこむ。
パイプや打ちっぱなしのコンクリートの寂しい景色。見れば分かる、ここにはいない。
「めざめちゃん!」
階段を見つけて叫ぶ。耳を澄ますも、自分の声の反響だけが聞こえる。
地下道のようなそこはまっくら闇で、ここにはいないことを願って、違う場所を探す。
デスクがたくさん並び、壁から落ちたモニターや、引き千切られたケーブルが散乱する部屋に行き当たる。
浄水場の設備を操作する部屋だったのだろうか。
そんな部屋には不釣り合いなものがいくつかあった。
太いパイプの切れ端が立ててあり、焚き火に使ったのかその中はまっくろこげ。
デスクの上には誰かが持ちこんだのだろう、汚れて乾いたままの食器。
ここで誰かが暮らしていたんだ。
どんな人が? 今もいるの?
不安がクモの巣のようになって、りんごを捕まえようとする。
だけど「ここにはいない」と強くひとりごち、建屋の廊下を走った。
最後に行き当たった部屋、ホールのような受付けのような空間。
扉の無くなった扉の向こうに、外の世界が見える。
割れたショーケースが並び、ついたてにくっついたパネルの破片には水滴のキャラクターがいて、カウンターで仕切られた向こうには事務室らしき空間が覗いていた。
ベンチの陰に、小さな人影がある。
それを見つけた瞬間、これまでのりんごの背中を押していた力がすべて消えてなくなった気がした。
りんごは女の子の名を呼ばずに息を潜めて近づいた。
足元にはいろいろなものの破片が散らばっていて、気をつけなければ何かが刺さりそうだ。
りんごの心は「早くあの子のところへ行かないと」と叫ぶも、身体はなるべくゆっくり行くように、たどり着くまでの時間を引き延ばすようにしてしまっていた。
めざめはぴくりとも動いていない。石ころのようにうずくまったままだ。
窓からの薄明りが、うしろにつけていたかぐやの影を教えていたけれど、彼女もじっと立ち止まっていた。
お願い動いて、と祈りながら、まるでネコを捕まえるかのように忍び寄る。
少しだけ安堵。めざめがうめいた。
彼女は腕にケガをしているようだった。
腕を押さえる小さな手の隙間から、たくさんの血が流れていた。
大変だ。
瞬間、りんごの頭が急速に回転し始めた。
とにかく、血を止めないと。
その前に何が原因でケガをしたかだ。ガラス? 破片が入っちゃったりはしてない?
ケガをしたのは腕だけ?
腕だけだ。転んで手をついたのとは違う?
りんごの頭に、月が出たと聞いて慌てたねむりがめざめを突き飛ばすビジョンが浮かぶ。
そんなのはあと! 消毒はするべきか、しないべきか。
しないほうが早く治るとか綺麗に治るって聞いたことがある。
しなきゃダメ。こんな汚いんだから、破傷風のほうが危険だ。
酷い傷だ。死んじゃうかも。ねむり、最低だよ。
違う。消毒、アルコール! 病院なら、静かの丘にならきっとある。
ハカセのことだから、どこからか見つけて確保してるに決まっている。
輸血、いらないよね? もし必要なら……。とにかく帰らないと!
ここから丘に戻るまでかなり距離がある。ストロングさんが負ぶってくれるはず。
まずはこの危ない部屋から連れ出すのに、かぐやちゃんに手伝ってもらって……。
りんごは思考の嵐に呑まれていく。
ぐるぐる、ぐるぐる。ノイズの月が渦を巻いて、コーヒーに溶けるクリームのように消える。
朝になった。
はっきりと覚えているのは、禿げ頭のおじさんや眼鏡のお兄さんが期待通りだったことと、ずっと耳にまとわり続けていた「月が見れなかった」という不満。
めざめはハカセの部屋に寝かされ、腫れあがった腕にはりんごのハンカチがあてがわれている。
それから、高熱を出してうなされていた。
「これができる治療の精一杯だよ」
「薬はありませんか? 解熱剤とか、痛み止めとか」
「無いよ、そんなもの。あっても期限切れだろう」
「傷を縫ったりとかはできませんか?」
りんごは白衣の男にすがるように言った。
「無理だよ。ぼくは医者じゃないんだ。あいにく、針は見つけていないし」
「ナオシさんが服を縫ってるのを見ました」
「医療用のは裁縫の針とは形が違うんだ。あれで縫えるわけがない」
「でも、映画とかマンガだと、火で針をあぶって……」
「子どもの腕へあんな太い針を刺せっていうのか! ぼくが医者などできるものか。養護教諭ですら、ないんだぞ!」
りんごの声を遮り、ハカセは声を荒げた。
それから、「すまない」と力無く首を振る。
りんごは、喉元まで出掛かっていた不安を引っこめて、代わりに疑問を口にした。
「やっぱり、ハカセも……」
ハカセは勢いよく立ち上がり、スツールが倒れる。
りんごを押しのけるようにして部屋の入り口へと逃げた彼は一度立ち止まり、「どっちにしろ同じことだよ。ぼくを頼るのはやめてくれ」と言い残して出て行ってしまった。
彼も“かこびと”らしい。
りんごはハカセのあとを追ったけれど、見失ってしまった。
頼りにならないのはハカセだけじゃなかった。
みんなは夜更かしの遠足をしたうえに、めざめが起こさなかったせいか、外が明るくなってずいぶん経つまで起きてこなかった。
さすがにフライパンが叩かれなかったことに愚痴を垂れる人はいなかったけれど、みんなはめざめのケガのことよりも、昨夜の月との邂逅ばかりを口にしたし、遅れた自分の役目のことで手一杯というそぶりだった。
ストロングさんは「イシャってのには会ったことがねえな」と唸ったし、ナオシは「人間は直せないよ」と言った。
カリトは事情を聞いて「トリよりもいいもん食わしてやるよ」と尖った棒を握って出て行ったけど、「昨日、宝石を見つけたんだ」と、りんごに青色発光ダイオードのついたケーブルを渡すことも忘れなかった。
めざめのそばに一番いてやるべき女は、月が見れなくてふてくされて寝た。それだけ。
唯一、かぐやだけは、寝ずの番だったりんごの代わりに看病を申し出てくれた。
けれど、彼女もまた、めざめが元気になることを期待していないようだった。
「人って、増えるより減るほうが早いものだからね。りんごちゃんの時代でも、そうだったんでしょ?」
悲しそうな瞳には否定も肯定もできなかった。
りんごは無力だ。文明の世界からやってきた、優等生の女の子。
せっかくの知識だって、それを生かすすべなんてなくって、持ち越してきたのもセーラー服ときている。
できるのは祈ることだけ。
そういえば、りんごの生まれた時代には、宗教なんていうものがあった。
仏教やキリスト教、イスラム教やヒンドゥー教。日本には神道なんていうものもある。
これらは姉の考古学の話に出てくる「原始宗教」とはちょっと違うらしいけど、よく分からない。
もう、みんなが信仰していた神や仏は、いなくなってしまったのだろうか?
りんごは心のどこかで、バカにしている。
姉が宗教の起こりを理屈立てたのを何度も聞いていたから。
ファンタジーはファンタジーだって、神様や神話なんて、人間が作ったものに過ぎないなんて、分かっていたから。
だけど、今日ほど神様が本当にいたらと思った日はなかった。
めざめちゃんを助けてください。
めざめちゃんを助けてください。
「りんごくん」
ハカセの声に、はっとなり身を起こす。
いつの間にか眠っていたようだ。ベッドのそばに立つ彼は「デリカシーが無くてごめんね」と言った。
りんごはそんなことよりもまず、めざめはどうなったのかと聞いた。
さいわい、ハカセは沈黙を作らずに「悪くはなっていないよ」と答えてくれた。
彼は何をしに来たんだろう。ねむけの中で思案すると、ぴんときた。
ハカセも、かこびとだ。
りんごと同じ一般人らしかったけど、りんごよりもひと回りは年上のようだし、頭もよさそうだ。
何より、先に目覚めてこの時代を見てきたはず。
医者の居場所や、ちょっと眉唾だけど熱を下げられる草だとか花のありかを知っているのかもしれない。
それを探しに行く提案や作戦のことを話しに来たのだろう。
りんごの知っているロールプレイングゲームや冒険もののストーリーにはよくある話だ。
だけど、そういう展開にはならなかった。
ハカセが話したがったのは、自身の正体だった。
彼は、元の時代では小学校教諭をやっていたらしい。
結婚をしていたけど子どもは無くて、奥さんと一緒にコールドスリープについた。
彼が目覚めたのはここからずっと遠く離れた集落で、ここよりもマシな場所。
多少の電気や電子も扱えて、生き残った知識や文明を集めている組織の暮らすところだったという。
彼は幸運なことに奥さんと共に拾われて、ふたりとも蘇生に成功した。
でも、今は独りだ。
「七十五時間。きみは生き延びられたんだ」
ハカセの声は震えていた。
彼は恩人たちに八つ当たり、集落を飛び出した。
地図なんてない世界だ。一度出てしまえば、戻ることは難しい。
ハカセはほうぼうを流れ、行くさきざきでかこびととしての知恵や知識を活用し、文字や計算を教えて慕われた。
「みんなの期待がどんどんと重くなるんだ。どこに行ってもそう。だからぼくは、かこびとであることを捨てたんだ」
ハカセは逃げ出すことを繰り返していた。
誰にだって、いろいろある。
“すっぽん”なんかよりもつらい思いをしてきたのかもしれない。
小学校の先生だって言っていた。
だから、めざめくらいの年頃の女の子が死に掛けているのを見るのは、りんごよりも余計につらいだろう。
目の前で奥さんを失ったというのだから、独りで目覚めたりんごよりも不幸かもしれない。
だから、何?
それ、今、言うこと?
りんごは自分の中でふつふつと怒りが煮えたぎっていくのが分かった。
わたしに言って、どうするの?
慰めればいいの? 奥さんの代わりにでもなればいいの?
「わたし、めざめちゃんのことが心配なんですけど」
態度で示した。
大きな拒絶。伝われ。
「彼女に関しては、体力次第というところだと思う」
専門家でも無いくせに。それから「こんな話をして、ごめん」。
ごめんって何? さっき言ってた組織とやらが、めざめちゃんを助けてくれるって話じゃないの?
今度はりんごがハカセを押しのけるようにして立ち上がり、部屋を出る。
彼は追いかけてくる様子はない。
その代わり、「ぼくのことはみんなに黙ってて欲しい。ぼくも、きみのことは黙っておくから」と言った。
「わたしの私物、勝手に見たんですか」
また、「ごめん」。
りんごは、返事がわりに壁を平手で叩いた。
ばーんと音が廊下に響き、手のひらがじんじんと熱くなる。
ハカセが絶望してようと、役立たずだろうと、関係無い。
医者がいなくても、薬が無くても、神様がいなくても、関係無い。
諦めてやるもんか。めざめちゃんはきっと助かる。元気になる。
両親を失おうとも、灰が降ろうとも、りんごは祈ることだけはやめてやるもんかと心に決める。
有り余って溢れたエネルギーを足音に変えて部屋をあとにすると、かぐやと鉢合わせた。
「えへへ……」
笑い声を立てるも彼女は困り顔だった。聞かれたんだ。
けれど、彼女はにっこり。
「あのね、そんなりんごちゃんにひとつ、いい話。さっき、めざめちゃんが起きてお水を飲みました」
一気に緊張がほぐれ、目の奥が熱くなって鼻の奥がつんとする。
けれど、絶対に泣くもんかと息を止めて抵抗した。
ハカセの近くで泣いたら、負けたような気がするから。
「今はまた眠ってる。熱も少し下がったみたい。だから、りんごちゃんもそろそろ、自分のことを気づかったほうが、いいかも?」
かぐやはりんごのまだ熱い手を取って胸元まで持ち上げた。
りんごの手には黒く乾いた血がこびりついていて、制服の袖の白線には茶色い染みがついていた。
「顔も汚れちゃってるよ。“泡の谷”に行ってお風呂に入ろう?」
友達の誘いに乗り、静かの丘をあとにする。
静かの丘なんていうけど、また、あのフライパンの音ががんがんとうるさく響くはずだ。
振り返ると、緑色の粒子を孕んだ風が強く吹いて、廃病院を一瞬だけ隠した。
大丈夫。
絶対に、大丈夫だから。
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