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悪夢のような結婚を回避する唯一の方法

作者: なか

 

「それでは、失礼いたします」


 そう言うと、花婿側であるギース伯爵家の使用人達が揃って退出していく。

 この部屋に残されたのは、私の他には中年の侍女だけとなった。彼女もギース家の人間で、たしかアンナと名乗っていただろうか。


「イロナ様。式典の準備がございますので、私も退出させていただきます」

「待って!」


 ちょっと、待ってほしい。


 貴族は身支度を自分では行わない。

 それは決して怠慢などではなく、貴族としての優雅さを保つため。そして雇用を維持するために全てを侍女に任せるよう教育を受けてきた。彼女まで退出してしまえば、まもなく始まる結婚式の準備を私一人で行わなくてはならない。


「アンナ。せめて、わたくしの侍女をここに呼んでちょうだい」


 ここはギース家の応接室である。今日この屋敷へ来る際には私の専属侍女を同行させてきた。

 しかし、花婿であるヴィクトル様に呼び出されたと言って退出した彼女が戻ってこない。何かあったのだろうか。


「イロナ様。ご存知なかったのですか?」


 私の願いに冷笑を浮かべたアンナは言葉を続ける。


「イロナ様の侍女は専属を解除されましたよ。貴女のご実家であるアンジュ伯爵家も了承済みのことです。ですから、ここにはもう戻りません」

「そんな......だって、わたくしはまだ......」


 この後の結婚式が終わってしまえば、第二夫人としてギース家に嫁ぐことになっている。

 だからアンジュ家の人間である彼女が私の元を去ることは聞かされていたし、その事に納得もしていた。


 けれど、式典が始まるまでは私はアンジュ家の人間であり、彼女もまだ私の専属のはずである。

 彼女とは幼い頃から苦楽を共にし、家族以上の親しみを抱いていた存在だった。それなのに別れの挨拶すら許してもらえないなんてーー。


「そんな悲しみに暮れなくても大丈夫ですよ。貴女の侍女はバルバラ様がしっかり選んでくださいますから」


 口元を歪めながらアンナは口を開く。


 ーーバルバラ様


 花婿であるヴィクトル様の第一夫人である。

 嫉妬深い彼女は夫に近づく女性全てに対して攻撃的な態度を示していたと聞く。一度も顔を合わせていない私に対しても、随分と敵対心を抱いているそうだ。


 そんな彼女が専属侍女を選ぶと言っている。

 ギース家のお屋敷に私の味方はいるのだろうか。明日からの生活を思い浮かべると自然とため息が零れた。


「ねえ、アンナ。では、入り口に立つわたくしの護衛を呼んでくださいませ」


 不安を悟られないよう表情を引き締めるとアンナに声をかける。

 すると、彼女は不機嫌な表情を隠す様子もなく口を開いた。


「貴女の護衛も先ほど解任されーー」

「式が始まるまではわたくしの護衛です。早く呼んできてください!」


 アンナの言葉を遮るように強い口調で訴える。これだけはどうしても譲れない。


「......はぁ、ヴィクトル様に言いつけますからね」


 そう言い残して彼女は退出していった。

 一人残された私は深く息を吐くと辺りを見渡す。


 この応接室には煌びやかな調度品の数々が飾られている。惜しげも無く宝石や貴金属を使われた品々はギース家の豊かさを象徴しているように感じた。


 鉱山経営を生業とするギース家。

 金属加工の優秀な職人を多く抱えるアンジュ家。


 両家の更なる繁栄のためにも、周囲は関係強化を強く望んでいた。

 そして、この政略結婚である。ヴィクトル様との婚約が決まった時には多くの人が祝福したと聞く。


 逆に言えば、人々が望んでいたものは結婚という既成事実だけだった。花嫁である私の事を望む者は何処にもいない。婚約が決まってから今日までにその事実を嫌というほど実感していた。


 ◇


「イロナ様。お呼びと伺い参上しました」


 戸を二度叩く音が聞こえた後、若い男性が部屋に入ってくる。

 彼は左脇に大きな麻袋のような物を抱えていた。


「マルク。久しぶりね」


 彼にそう声を掛けた。

 黄土色の革鎧に身を包むマルクは笑顔を浮かべながら口を開く。


「ええ、こうしてお話できるのは、婚約がお決まりになった頃以来でしょうか」


 私は彼の言葉に頷いて同意を示す。


 婚約が決まってすぐ、私には監視が付くようになった。傷物になり婚約が破談となってしまう可能性を危惧した父によるものである。そして男性との一切の接触も禁じられることになる。

 ただし、彼だけは護衛職という事もあり傍に置くことを許された。彼と不要な言葉を交わさない事を交換条件として。


「ヴィクトル様はいらっしゃらないのですか?」

「......ええ。今日はまだ......」


 ヴィクトル様はこの屋敷にいるはずだが顔を見せていない。

 それどころか婚約の儀を含め、これまでヴィクトル様に会って言葉を交わした事は一度もなかった。


 婚約期間はお互いの親交を深めるための儀式がいくつか存在しているが、どの儀式も彼に拒否された。政略結婚である以上、彼に愛されるとは思っていなかったし、早々に諦めている。ただ、良好な関係くらいは築きたかった。

 だから、彼に何度か手紙を出したこともあった。返ってくる事のない手紙を待つ日々は虚しさしか生まなかったけれども。


「イロナ様。ヴィクトル様とは上手くやっていけますか?」


 ヴィクトル様は私の姉に対してご執心だったと聞く。

 第一夫人の娘である姉は、第二夫人の娘である私より格上の存在で、女性らしさを感じさせる美貌は男性達の目を惹く。彼はそんな姉との結婚を望んでいたそうだ。


 しかし、姉には複数の婚約の話が舞い込んでいた。そこで父は考える。よりアンジュ家に利益をもたらす為にはどうすれば良いのかと。

 結果として、姉は別の貴族へ嫁ぎ、ヴィクトル様には代替品(わたし)が充てがわれた。


 その事実が彼に失望を与えた事は想像に容易い。貴族としての誇り。男性としての矜持。どちらも傷付けられた彼は代替品(わたし)を憎み嫌っているそうだ。それは自然な事なのかも知れない。


 けれど、私の想いはどうなるのだろうか。私だってこの結婚を望んでいたわけではないのに。


「心配しなくてもわたくしはアンジュ家の女ですもの。上手くやるわ」


 マルクの問いに笑顔を作って答える。

 彼とはこれが最期の別れだ。彼に不安を与えたくはない。


「......そのような表情をされても、安心できないのですが」


 苦笑いを浮かべる彼を真っ直ぐに見つめる。

 思い返すのは彼との温かい記憶ばかりだ。込み上げる感情を言葉に乗せるようにゆっくりと言葉を発した。


「マルク。今日までよく仕えてくれましたね。わたくしが心安らかに過ごせたのは貴方がいたからです」

「私には勿体無いお言葉です」


 五歳年上の彼は初恋の相手であり、今も密かに想い続けている。その気持ちは今日この場所で捨て去らなければならない。

 でも、問題はない筈だ。私の胸には彼との楽しかった思い出がたくさん詰まっている。この記憶さえあれば、明日からの日々を耐え忍んで生きていくことができるだろう。


「貴方と出会ったのはわたくしが十歳の頃だったかしら。もう随分と昔のように感じるわ」

「イロナ様にお仕えしてもう七年ですか。本当にあっという間の一時でした」


 アンジュ家内で立場の弱い私の護衛探しは難航する。娘を政争の手駒としか見ていない父は頼りにならず、第一夫人に頼る事も出来なかったからだ。

 唯一、力になってくれたのは母の実家である祖父だった。彼はあらゆる手を尽くし、マリノブルク辺境伯の騎士を借りてきてくれた。それがマルクとの出会いである。


 当時十五歳だったマルクは、年の割に落ち着いており兄のように私に接してくれた。私も彼のことを慕っていたと記憶している。それが恋心に変わったのはいつからだっただろうか。


「そうね、これから寂しくなるわ。貴方と引き合わせてくれたお祖父様には感謝しなくてはね」

「きっと空の上からイロナ様の幸せを見守ってくださっていると思いますよ」


 実直だった祖父は汚職の嫌疑を掛けられて処罰された。それに伴い母の実家もお取り潰しとなる。アンジュ家の威光により母と私が連座処分されなかったのは、幸運だったのだろうか。それとも不幸だったのだろうか。


 今だから思う。祖父の罪は冤罪であったのだと。

 常に民を思い、貴族の矜持を大事にしていた彼が汚職をするとは思えなかった。政争に巻き込まれたのだと考えている。

 祖父の死後、彼の資産は接収されて父に与えられた。汚職事件捜査の功労者という事が理由らしい。その話を聞いた母が声を押し殺して泣いていた姿をよく覚えている。


 祖父の死は私たちの立場にも暗い影を落とす。

 母の実家という後ろ盾を失った私たちは、アンジュ家内での居場所も徐々に失っていく。父からの扱いは益々酷くなり、私たちは離れの小屋で息を潜めるように暮らしていた。

 そんな生活が良くなかったのだろう。病気を患った母はまもなく息を引き取る。そして私は独りぼっちになった。


「マルク。わたくしからの最期の命令です。どうか幸せになって! わたくしの元を離れても貴方だけはーー」


 私はそこで言葉を切る。必死に探すものの後に続く言葉が見つからない。


 貴方と離れたくない!

 ずっと私の傍に居て欲しい!


 脳裏に浮かぶのは、口にしてはならない言葉ばかりだった。目頭が熱くなるのを懸命に耐える。

 そんな私を見兼ねた様子のマルクは、右手を軽く挙げると人差し指を真っ直ぐ立てる仕草を見せて口を開いた。


「イロナ様。一つ、私と賭けをしませんか?」


 低く優しい彼の声が温かい記憶を呼び覚ます。


 マルクとはよく賭け事をして遊んだ。夕食の献立は何か。明日の天気は何か。賭け事といっても些細なものばかりだった。

 そして私が負けた場合は、必ずお茶菓子を振舞うことにしていた。その後には、ささやかなお茶会が始まるのだ。


 それは永遠に続いて欲しいと願った、柔らかな記憶だった。


「魅力的な提案だけれども、今日はお茶菓子を用意していないわよ?」


 気遣う彼の提案に首を横に振る。

 既に思い出は十分に貰った。これ以上を受け取ってしまえば覚悟が鈍るかも知れない。


「問題ありません。今日は別の物を賭けることにしましょう。こういうのは如何でしょうか?」


 真剣な表情でマルクは言葉を続ける。

 彼の瞳の奥には、決意に似た強い光を見て取れた。


「勝者は敗者に望みを一つ告げるのです」

「望み?」


 望みとはどういうことだろう。彼の言葉を待つ。


「ええ、望みですので、強制ではありません。希望を伝えるだけです」

「それは......意味があるのかしら?」


 強制力のない希望。叶わなくても良い願いを告げろと彼は言う。彼の意図が掴めない。


「私には意味があると思いますよ」

「そもそも、希望というけれど、どの範囲までなら望んでいいのかしら?」

「どんな希望でも構いませんよ。例えば、私が勝ったら貴女とまたお茶をしたい。このような望みでも問題ございません」


 温かい何かがじんわりと心に広がっていく。


 結婚してしまえば未婚のマルクと会う事は出来ない。だから、彼の希望が叶う事はない。

 それでも彼は望んでくれる。私との時間を欲してくれている。それがとても嬉しくて、悲しかった。


「それがマルクの望みなのね?」


 私の問いに、彼は柔らかな笑みを浮かべている。


「イロナ様は何を望まれますか?」

「わたくしはーー」


 この結婚から逃げ出したい。

 逃げるときは貴方と一緒がいい。

 逃げた先で貴方と共にーー。


 私の本当の望みは、願うことすら許されないものばかりだった。


「わたくしの望みもマルクと同じよ。貴方とまたお茶をしたいわ」


 彼の問いに努めて明るい声で答える。

 私も願おう。永遠に叶わない希望を。その望みを胸に秘め、明日を生きよう。きっと私は大丈夫。


「決まりですね。それでは、賭けをしましょうか」

「今日は何のゲームで賭けるの? 最後くらい勝って終わりたいわ」


 おどけた口調で答えながら軽く目尻を拭う。

 今の私はちゃんと笑顔を作れているのだろうか。


「そうですね。では、こうしましょう」


 穏やかな微笑みを保ったまま彼は話しを続ける。


「イロナ様がこの結婚から逃れることは可能か否か。さて、どちらに賭けますか?」


 私たちの周囲の時間が止まったように感じた。

 忘れていた呼吸を取り戻しながら言葉を絞り出す。


「......悪い冗談なら止めてちょうだい。そもそも、賭けとして成立していないわよ!」


 そう。これは賭けとして成り立たっていない。アンジュ家やギース家が素直に私を逃すわけがないのだ。

 そう訴える私の声を聞いても彼の表情は変わらない。


「おや? 私は『可能』に賭けるつもりでしたが、イロナ様も同じということですか?」

「マルク、何を言っているの? 今日は結婚式の当日なのよ。逃げるなんて不可能だわ」


 どうして彼はそんな酷い事を言うのだろう。

 時間をかけてようやく付けた私の決心が揺らいでしまう。お願いだからもうやめて!


「イロナ様こそ何をおっしゃいますか。私は至って真面目です。それより、イロナ様は『否』に賭けるのですね? では、ゲームを始めましょうか」

「無理よ。お願いだから下手に希望を抱かせる真似はやめて!」


 気が付けば叫んでいた。

 脚が微かに震えている。継ぎ接ぎだらけの心の支柱は今にも折れてしまいそうだ。


「本当にそうでしょうか? イロナ様は何が障害だとお考えなのですか?」


 そう言うと彼は一歩距離を縮める。

 口元に笑みを浮かべているものの目は真剣な様子だ。その瞳を覗くが彼の思考は読み取れない。


「まず、この屋敷からどうやって抜け出すつもり? 警備の者が多くいるわよ。抜け出すなんて不可能だわ」


 今日は結婚式があり貴族の参列者も多い。そして貴族たちを守るための警備兵が屋敷中を闊歩している。彼らの目を掻い潜ることなど出来るはずがない。


「では、イロナ様には変装していただきましょう」

「へ?」


 不思議な音を聞く。その音が自分が発した声だと気づくのに少し時間を要した。


「確かに警備は厄介です。しかし、幸いな事に本日は式典があります。ギース家の使用人達が多数出入りしており、警備の者達には顔で区別などできません。使用人の衣装を纏っていれば抜け出せるでしょう」


 使用人に成りすませば抜け出せると彼は言う。人数の多い使用人達を全て把握する事は確かに困難かもしれない。


「ほら、屋敷を抜け出せそうですね。私の勝ちですか?」


 明るい声で話す彼に少しムッとした。課題はまだまだ山積みなのだ。


「いいえ。屋敷から抜け出しても行く先がないわ。それにこの街はギース家の統治する場所よ。呑気に歩いていれば捕まって連れ戻されてしまう」

「なるほど。では、屋敷の入り口に馬車を用意しましょう。この街からも抜け出せそうですね」

「待って! 逃避する先がないのよ。馬車だけ用意しても意味がないわ」


 心強かった祖父を頼る事はできない。彼は天に召されてしまった。

 優しかった母を頼る事はできない。静かに永遠の眠りについているのだから。

 ギース家を頼る事はできない。花嫁の逃亡という醜態は彼らの面子を潰すことになる。

 アンジュ家は言わずもがなだ。初めから期待などしていない。


 籠の中の鳥に逃げ場などない。それが私の答えだ。


 それでも目の前のマルクは明るい表情で言葉を続ける。


「マリノブルク辺境伯の街へ逃げればよいのですよ。彼ならば力になってくれるでしょう。それにあの街には隣国であるヴァール王国との国境門があります。街へ到着したら隣国へ渡る事ができますね」


「そんなことをすれば貴方や辺境伯まで罰を受ける事になってしまう。貴方は辺境伯配下の騎士なのよ? わたくしと貴方が共に居なくなれば、真っ先に疑われるのは貴方だわ。そして、追っ手は辺境伯の手引きを疑うでしょう」


 マルクは私の護衛として一時的に借りているに過ぎない。彼と辺境伯の間には依然として繋がりがあるのだ。辿られて捕まってしまえば何をされるか分からない。

 だからマルクが逃亡劇に加担する状況を作りたくない。それだけは絶対に譲れなかった。


「大丈夫です。繋がりを消してしまえばよいのですから」

「どうやって?」


 私の問いに彼は表情を消す。


「私がヴァール王国の貴族だったらどうでしょう?」


 目を瞬かせながら彼の顔を見つめる。しかし、その表情から真意を読み取る事はできなかった。


「ごめんなさい。まったく意味がわからないわ」


 思わず右手で額を押さえる。

 彼が何を言いたいのか理解できない。その仮定に何の意味があるのだろうか。


「私は他国の貴族なので、当たり前の話ですが辺境伯とは繋がりがありません。彼の配下として登録されている騎士を調べられてもマルクという名は見つからないわけですね。そして、手引きの証拠が無いのだから辺境伯はシラを切るでしょう。私はもちろん、彼が罰せられる事もありませんよ」


 彼は何かを喋っているが一切理解できない。軽い頭痛がした。


「イロナ様の抱える障害は以上でしょうか。それでは、この賭けは私の勝ちのようですね」


 マルクは満足気な表情で頷いている。


 確かに彼の言う事が実現出来れば私の望みも叶うかもしれない。準備の時間が残されていればの話だが。

 まもなく式典が始まる。そろそろ、ギース家の侍女も戻ってくる頃合いだろう。もう時間切れだ。


「ところで、イロナ様にお渡しするものがあります」


 彼はそう言うと、入室した時から左脇に抱えていた麻袋を目の前に差し出した。


「どうぞ、開けてみてください」


 視線を手元に向ける。手に取った感触はとても柔らかく感じた。


「これは......使用人の衣装?」


 中から出てきた物は、ギース家の使用人達が身に纏う衣装だった。どうしてこんなものが。


「ええ。ここへ来る途中に偶然拾ったのですよ。どうやらこの屋敷から抜け出す事は可能なようですね」


 こんな物が偶然に落ちているわけがない。彼は何を企んでいるのだろうか。

 視線を上げて真っ直ぐに彼を見つめる。


「待って! 屋敷から抜け出しただけではーー」


「屋敷の入り口に馬車を止めておりますのでそちらをお使いください。黒い荷台が目印で、中には貴女の侍女が待機しておりますからすぐに分かると思いますよ。これでマリノブルク辺境伯の街を経由してヴァール王国へ向かうことが可能です」


 逃亡劇の準備が整っていると彼は言う。一体、何が起こっているのだろう。


「マルク。貴方は一体......」


「申し遅れました。私の名はマルク・ヴァールと申します。これでも民からは王子と呼ばれております」


 王子?

 彼は自分の事をヴァール王国の王子だと言っているの?


「王子とはいえ、王位継承権で見れば第十七位。恐らく冠を被る事は叶わないでしょう。ですから、イロナ様には今まで通りに接していただきたい」


 先程から頭が働かない。白昼夢でも見ているのだろうか。


「隣国の王子という立場のお方が、何故わたくしの護衛に?」


 身体に僅かな浮遊感を感じる。本当に夢を見ているのかも知れない。

 そういえば彼は隣国の王子様だった。敬う言葉使いに改めるべきだろう。いや、彼は私の護衛でもある。この場合どうするべきだろうか。思考が上手く働かない。


「時間がないので端的にお話しします。私は諜報のためにこの国へ忍び込みました。王を目指すためには手柄が必要だったのです」


 玉座から遠い彼が王を目指すためには、分かりやすい手柄が必要だったと言う。だから、危険を冒して我が国に潜入して国家機密情報を持ち出そうと考えたそうだ。そんな彼はマリノブルク辺境伯に目を付ける。入手した機密情報の横流しを餌に、国政に不満を持つ彼と密約を交わした。


 ちょうどその頃、辺境伯の元に護衛募集の話が舞い込む。護衛対象は有力貴族の一つであるアンジュ伯爵家の令嬢だ。大貴族との繋がりもあり諜報活動するには都合の良い隠れ場所である。そして辺境伯の手引きにより、マルクは私の護衛候補となったそうだ。その後は私の知る通りである。


「貴女は望めば結婚から逃れることができるのです」


 遠のいていた意識を彼の声が呼び覚ます。


 まるで夢の様だ。現実感をまったく感じない。


 彼の言う通りに願ってもよいのだろうか。


 私が思うままに望んでしまってもよいのだろうか。


 諦めようとして、それでも諦めきれなかった希望を。


「さあ、望んでください。そうすれば、私が叶えましょう」


 彼はそう言うとその場で跪き、右手を高く伸ばす。天を向く掌には騎士特有の剣ダコが出来ていた。


「ずっと傍でイロナ様を見ていました。この悪夢のような結婚に対して、貴女はもう十分に苦しみを味わったと思います。一人の女性として貴女には幸せになる権利がある。そう私は考えていますよ」


 目の前に差し出された彼の手をじっと見つめる。


 私が望んでしまったらこの結婚は破談となる。アンジュ家とギース家の関係にもヒビが入るだろう。得られる筈だった利を失うだけではなく、お互いの信頼まで損ねてしまう。両家にとって大きな損害である。


「もしも、わたくしが望まなかったら?」


 私の問いに、彼は少し寂しそうな表情を浮かべる。


「貴女が望まなければ私はこの右手を下ろすだけです。これ以上の余計な真似はしないと誓うでしょう。ですが、貴女には望んで欲しい。貴女の明日のため。そして貴女自身の心を守るために」


 私の明日のために。彼も望んでくれるのならば、私は一歩踏み出したい。

 彼の想いに背を押される様にして、私は目の前の掌に触れた。


 ◇


 マリノブルク辺境伯の街に到着した私たちは安宿に泊まることにした。

 後始末があると言うマルクを置いて、私と侍女は先にこの街へ逃れてきたのだ。彼をここで待つ計画となっている。追っ手の気配を感じることはなく、今のところは安全に過ごせそうに思える。


 私は静かに立ち上がると、宿の窓から外を見渡した。買い物に行くと言って出て行った侍女の小さな後ろ姿が見える。


 この宿に辿り着いてから、もう三日が過ぎている。その間、マルクからの連絡はない。

 彼は無事なのだろうか。無茶な事をしてはいないだろうか。そんな事を考え続けていた。早く彼の顔を見たい。


 不意に背後で小さな物音を聞き、振り返って部屋の扉を見つめる。何者かが近づいてくる雰囲気を感じた。

 しばらく待つと、戸を二回優しく叩く音が聞こえた。


「イロナ様、只今戻りました。お元気そうでなによりです」


 扉を開けた先にはマルクが立っていた。笑顔の下には疲れを見て取れる。


「マルク......」


 話したい事はたくさんあった。彼に伝えたいと思っている事もある。彼に再会したら喋る言葉は用意していた筈だった。

 けれど、無事な彼の顔を見たら言葉は泡となって消え去ってしまった。胸がいっぱいで上手く喋れない。


 結局、無言のまま彼を部屋に招き入れる。


「ギース家の屋敷は大変な混乱ぶりでしたよ。特にヴィクトル様の狼狽える姿は見ていて滑稽でしたね」


 部屋に入り落ち着いたマルクは、上機嫌な様子で逃亡劇の顛末を聞かせてくれた。

 花嫁の居ない式典は両家の罵り合いにまで発展したそうだ。逃げた花嫁の責を問うギース家。逃した責を追求するアンジュ家。平行線の対立は両家の将来に深刻な暗い影を落とす事だろう。


 また、予期せぬ時のために、両家の弱みをマリノブルク辺境伯に渡したそうだ。自衛手段を想定していたマルクの意図とは裏腹に、辺境伯は積極的な追撃を企んでいると言う。辺境伯自身も彼らに何か思うことがあるらしい。貴族社会の怖さに私は苦笑いを浮かべながら彼の話を聞いていた。


 彼の話が一息つくと私は将来の話を切り出した。


「マルクはこれからどうするの?」

「私はヴァール王国に戻ります。この状況でこの国に留まることはできませんし、父上にも報告しなければならないことがありますので」


 マルクはこの国の人間ではない。事が終われば隣国へ帰ってしまう。それは理解していたことだ。

 彼のお陰で望まない結婚を回避する事が出来た。灰色の明日を怯えずに済むようになった。既に十分過ぎる物を彼から貰っている。これ以上を望んではいけない。


「イロナ様はどうなさるおつもりですか?」

「特にアテはないわ。でも心配しないで! なんとか生きていくわ」


 彼の問いに努めて明るく答えた。

 マルクとはここでお別れすることになる。これでいいんだ。そう思わなきゃダメなんだから。


「ところで、イロナ様。私は賭けに勝ったわけですが、望みをまだ告げておりません」

「そんなことないわ。マルクはあの時言っていたはずよ、お茶をしたいって!」


 確かに彼はギース家の屋敷で望みを喋ったはずである。ちゃんと記憶しているので間違いはない。


「いいえ、告げておりませんよ。よく思い出してください」


 低い彼の声に導かれるまま、三日前の記憶を呼び覚ます。


 私は希望について尋ねたはずだ。その問いに彼はこう答えている。


『どんな希望でも構いませんよ。例えば、私が勝ったら貴女とまたお茶をしたい。このような望みでも問題ございません』


 彼の返答は、自身の望みなのか例え話なのか曖昧だった。

 だから、私は念押しの確認をしたはずだ。


『それがマルクの望みなのね?』


 そして、私の問いに彼は答え......ていない?

 マルクは笑みを浮かべるだけで言葉は発していない。あれ、彼は望みを喋っていない?


「そんな!?」

「思い出していただけましたか? 私は貴女の問いに答えていませんよ?」


 揶揄いを含みながらマルクは楽しそうに話す。

 こういうのを屁理屈と言うのではないだろうか。


「それはそうだけれども。でも後出しなんてズルいわ!」

「約束は約束ですよ」


 上機嫌な様子の彼を見つめる。

 私は過分な程の利を得ている。とても釣り合うだけの対価を持ち合わせていない。そんな私に彼の望みを叶える事は出来るのだろうか。


「マルクは何を望むの?」

「私の望みは一つだけです」


 そう返答したマルクはその場で跪き、右手を高く伸ばす。目の前の彼の姿に既視感を覚えた。


「イロナ様。私と結婚してほしい。共にヴァール王国へ渡り、共に暮らして欲しい。それが私の望みです」


 自分の耳を疑った。聞き間違いではないだろうか。

 それは、私が今まさに諦めようとしている、私の望みだ。


「マルクは王子なのよ? そしてわたくしはアンジュ家という肩書きを失った女。貴方には相応しくない」


 貴方はヴァール王国の将来を背負う王子様の一人。私とは釣り合うわけがない。


「知り合いの貴族に養子を探している公爵がいます。貴女が望んでくれたなら、公爵家の娘としてヴァール王国の貴族社会に戻ることができるでしょう」


 貴方に驚かされるのはこれで何度目だろうか。

 私が望む事を、私の想像しない方法で貴方は叶えようとしてくれる。


「そして私は国に戻ったら王位継承権を返上するつもりです。玉座への興味を失いましたので。代わりに自由を手に入れます」


 そう答えたマルクは表情を引き締めると言葉を続ける。見上げる彼の瞳はとても澄んでいて綺麗だった。


「王になれない王子と過去に傷を持つ公爵令嬢。私たちには多くの苦難が待っているはずです。それでも二人で力を合わせれば、どんな困難も乗り越えて生きていける。そう私は信じています」


 私も信じている。

 貴方と一緒なら如何なる困難も耐えられると思う。その先の幸せな日々をきっと見つけることが出来るはず。


 だから、ずっと貴方の隣に居たい。


「苦難にも負けない芯の強さを美しいと感じていました。清らかな貴女の心に惹かれています。いつまでも貴女のことを隣で見ていたい。私の望みを叶えてもらえないでしょうか?」


 貴方が言葉を重ねる度、胸の奥が幸せな気持ちで満たされていく。


 初めから叶うはずがないと思っていた。


 早く諦めなければいけない。そうしなければ辛いだけだと考えていた。


 それでも捨て去る事が出来なかった望みにもうすぐ手が届く。


「もちろんこれは強制力のない望みです。貴女には申し出を断る権利があります。ですが、もしも許されるのなら、私のこの手を取ってほしい」


 答えは既に決まっている。迷いはもう消えた。けれどーー。

 私は彼に驚かされてばかりだ。なんだか納得がいかない。彼に一矢報いたっていいはずだ!


「一つだけ、条件を付けても良いかしら?」

「条件? 私に出来る範囲であれば何なりと」


 そう答えるマルクの表情には僅かな陰りが見て取れる。

 不安にさせてしまっただろうか。少し意地悪な行為だっただろうか。でも、安心して欲しい。今の私たちには難しくないことなのだから。


「ヴァール王国へ渡ったら、わたくしとお茶をしてください。貴方とたくさんお話ししたいことがあるのです」


 私は両手で包み込む様にマルクの手を取った。


 これはもう一つの私の望み。きっとマルクも望んでくれるはず。

 二人でたくさんお話ししたい。嬉しかった事、悲しかった事。貴方に聞いて欲しい事が一杯あるのだから。


「はい、喜んで」


 そんな私の反応を見てマルクは嬉しそうに笑う。

 大好きな人の、一番大好きな表情だった。


最後までお付き合いありがとうございました。

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