5 スラムとの出会い
益荒男は歩きながら先ほどの事を思い返す。決して問題になるような事はしていないはずだと一人頷く。
「くっそぉ~マフィアか?マフィアだよな?やっぱし…。何なンだよ、サリエリ一家って?如何にもな名前しやがってよぉ~ッ!大体、俺は何もしてねぇーンだからな」
そう、ただ殴られただけである。どう考えてもこちらが被害者だ。だがあの男の捨て台詞を聞く限り、信じ難い事にまるでこちらが加害者かの言いっぷりであった。
まだ日は明るいが、こんな状況では散策どころでは無い。また何時あの男の仲間がやって来るか分かったものではない。一旦戻ろうと手に入れたばかりの自分の部屋へ向かう。
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あの老人が益荒男へ手配してくれた部屋は、二階建ての長屋のように横に長い集合住宅のような建物で、その二階にある一室であった。当然のように外観も内装もぼろぼろで少なくとも暫くは住人が居なかったのだろう、室内は埃が積もり、蜘蛛の巣が至る所に張ってあった。幸いにして、すでに蜘蛛すらこの住居を見限っていたのか、蜘蛛の巣の掃除にはそれほど手間は掛からなさそうだ。だがまだ室内に積もった埃を取り除くにはそれなりの労力が必要だろう。
階段を登って部屋に向かおうとすると、自分の部屋の前に、見知らぬ女が立っていた。扉に鍵は掛かっていないはずだが、入る様子が無いところを見ると盗人の類では無さそうだと益荒男は訝しげにその女を見た。
(誰だ…?)
すると足音で誰かが来たのが分かったのだろう。女は益荒男を見ると、なぜか笑顔で話しかけてきた。
「あ!良かった、戻ってきた!」
そう言うと小さく手を振り、益荒男が部屋の前に辿り着くのを待っている。
明るい茶色の髪色に腰まで伸びる長い髪。髪の一部を後ろで縛りポニーテールのようにしている。肌は白く美人と言っていいだろう。だが恰好だけはみすぼらしい。年のころ二十歳くらいだろうか。
当然見覚えなどは無い。だがこの女の反応でピンと来るものがあった。
なぜ女は目の前の部屋の住人が自分だと分かったのか。それはつまり益荒男の顔を知っているという事に他ならない。知り合いはあの老人以外に居ないにも関わらずだ。であれば考えられる事は一つだ。
「あ~、もしかして、俺を助けてくれた人か?」
頬を搔きながらそう言うと、女は少し驚いた表情で答えた。
「えっ、凄い!良く分かったね!そうそう私がアナタを助けたんだよ!アナタを寝せてた部屋にいったら誰もいなくて。それで聞いてたらもう目が覚めて違う部屋に行ったって聞いたから様子を見に来たの!」
もう大丈夫なの?と聞いてくる女に、あぁ平気だと簡単に答える。
「ふ~ん…、あ、そうだっ、私、マルティーナ!皆からはマリーって呼ばれてる。アナタは?」
「益荒男健だ」
互いに自己紹介をする。この世界に来てから初めてのやり取りだ。
「マスラオ、タケル…へ~珍しい名前だね。…そっか、あの辺りだとそんな感じなんだ…」
名前を復唱するマリー。その後に何やらぼそっと言っていたが声が小さく聞き取ることが出来なかった。
「うん、アナタの事はじーさまに聞いてるから!私も協力するから何でも聞いて?きっと大変だろーけど、大丈夫!慣れればどうって事ないし!」
じーさまと言うのはあの親切な老人の事だろう。そういえばあの老人に名前を伝えていなかった事を思い出した。だがまぁいいだろうと頭の片隅に追いやった。
しかし思わぬ言葉に益荒男は唸る。
是非とも協力して欲しい。お願いしたい事は山ほどある。
まだこの世界の事を全く知らず、一般的な常識から周辺の情報まで、色々と聞きたい事があった。
だが、と部屋の方を見る。
…まずは部屋の掃除が先決だ。
箒すら無く掃除をしようにもどうしようかと困っていたのだ。とりあえず寝床は確保しなければ何も始まらない。
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マリーはすぐにどこからか箒を持ってくると、なんとこちらから手伝いを頼む前に部屋の掃除を始めてしまったではないか。箒を二本持って来た時点でもしやと思ったが、何も言わずに掃除を始めるとはこの女、相当に性格の良い娘のようだ。それを横目に益荒男も負けじと掃除を始める。手伝って貰っておいて自分だけが手を抜くなど情けない真似は出来ない。
掃除をしながらこの街について話してみる。
この街は何というのか。どういう場所なのか。なぜこのように廃墟のような状態なのか。
するとマリーは快く益荒男の質問に答えてくれる。
どうやらこの街は"オミハ"と呼ばれる大層大きな都市らしい。この周辺地域ではこのオミハの事を都と呼ぶらしく、人や物が集まる大都市なのだとまるで自分の事のように自慢げに話してくれる。
街のすぐ横には"スン湖"という大きな湖があるようで、それがまた美しいらしい。人によっては水の都などと呼ぶ人間もいるのだとまたしても自慢げだ。
だがそんな説明を受けて少し怪訝な表情をしていた事に気づいたらしい。少し言い難そうに話を続ける。なんでもこの場所はその"オミハ"の"旧区画"に当たる場所らしく、今の話は"新区画"の事だと言う。しかしそれを聞いて合点がいった。どう考えても先ほどの話とこの廃墟のような街は一致しない。つまりはここ"旧区画"は捨てられた街だと言う事だろう。行政の手が入っていないのではという感想は正しかったのだ。
「だからね、私達のいるこの街に名前なんて無いの。一応"旧区画"っていう呼び名みたいなものはあるんだけど、誰もそうは呼ばない。みんなこう呼んでるの…」
――廃墟の街って。
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少し悲しそうな表情のマリーを横目に益荒男はその言葉になるほどと思う。
――廃墟の街。
確かにその通りだ。先ほど見てきた風景はまさにその言葉がしっくりと来る。建物は今にも崩れそうなほど老朽化しており、路上にはゴミが散乱しており、そしてそこに住む人々は貧しく裕福さとは無縁の存在に見えた。
ついでに先ほどのサリエリ一家についても聞いてみる。
するとそれを聞いたマリーは予想外だったようで驚きの声を上げた。
「えっ!?…どうして知ってるの?マスラオ、アナタここに来たばっかりなんだよね…。まかさあっちでも活動してるの?…えぇーっと、ね。サリエリ一家は、この辺を縄張りにしてるマフィアなんだけど、すごく危険な連中って噂で、ぜ~ったい!関わっちゃダメだよっ!」
「…あぁ、うん。そうか…、覚えとくぜ」
何でもサリエリ一家は数年前に別地方から進出してきたマフィアらしく、ここ最近勢力を拡大しているようだ。薬物から殺人に人身売買、事件の裏にはこのサリエリ一家が絡んでいるともっぱらの噂らしく、この頃から行方不明者が多くなったと言われており、さらに殺人は目に見えて増えたと話す。それまでは治安が悪いなりに秩序が保たれていたと言うが、徐々にそれが崩れてきており、住民達は不安に駆られる毎日だと言う。
「うん…。でも、ここで暮らすならマフィアとは切っても切れない関係だから…。どうしてもどこかで関わりが出ちゃうかも。仕事とか大体マフィアが絡むし…。それでも絶対っサリエリ一家はダメだよっ!」
念押しをされた。よほど危ない連中のようだ。
「分かったって…」
そう言って頬を搔いていると、マリーが顔を真正面へ近づけて疑惑に満ちた顔で覗き込んできた。身長差のせいもあってその豊満な胸元が露になる。目を逸らしながらもしっかりとその谷間を目に焼き付ける。
「なんか怪しい…なんで目を逸らすの?」
「えッ!…いや~何つーか、別に何もねーとは思うンだけどよぉ…俺は被害者なンだよ…」
そう言うと益荒男は先ほどあった出来事の事情を話す。
「ふ~ん…絡まれて殴られっちゃったんだ…可哀そう~!けどそれでそんな事言われるなんて変だね~。さすがに気にしなくても大丈夫だと思うけどなぁ。あっ!けど仕返しに殴り返さなくて偉いよ!ここで生きるコツは"長いものに巻かれろ"だよっ」
そうしている内に室内の清掃が終わり、最低限であるが住める状態になってきた。蜘蛛の巣は無くなり、埃もそれなりに無くなった。後は窓のすきま風が酷い事が気になるが、窓ガラスが九割無事なだけマシだろう。
そういえばベッドがあるものの布団が無い。
どうにかしなければと思いながら喉が渇いたため水道の水を飲む。そう言えば掃除をしている時にも驚いたが水道が通っている。設備は元々あった昔のものだろうが、水が出るのはどういうわけか。行政に見捨てられている割にはインフラが今も整備されている事に驚く。
とその時、マリーの叫び声が室内に轟く。
「ぎゃあっーーー!何やってんのぉ!?」
その声に口に含んでいた水を吹き出す。
「ぶほぉッ!な、なンだぁ!?どうしたッ!?」
一体何があったのか、まさかあのマフィアの襲撃が?まさかとは思ってはいたが本当に来るとは。それにしても早すぎだ。想定外過ぎて自分の甘さに舌打ちを打つ。ここは日本じゃない、平和ボケしている場合では無かった。
「何飲んでんのよっ!信じらんないっ!病気になるよっ!?」
ほら吐いて!吐いて!とマリーが頭を掴み出す。
「ちょ、ちょっと待てッ!何なンだよ!飲んでもイイじゃねぇーか!」
どうやら襲撃では無かったようだ。だがそう言って、言った後に思い至った。外国では水の硬度が何とかで水道の水を飲むと腹を壊すと聞いた事がある。相変わらず考えが足らない事に内心舌打ちを打つ。だがそんな事は関係無いとばかりにマリーは必至な表情で説明する。
「飲んで良いわけないでしょ!?すごく汚いんだよ!いくら湖の水がキレイって言っても人が飲める程キレイなわけじゃないからねっ!?」
何やら思っていた事とは違う説明だ。ちょっと思い違いをしているようだと考えを改める。真面目に聞いておかないと同じ事がまた起こりそうである。
「…どういう事だよ?湖って…湖から水を引いてるって事か?…ッまさか、…そのままでかッ!?」
「そりゃそーだよ…、湖から引いてる事は知らなくて当然だけど…普通そのまま飲まないって分かるでしょ…。普通に水道の蛇口使ってたから説明なんていらないと思った私がバカだったよ…」
なるほど、おおよそ理解した。つまり浄水をしていないという事だろう。確かにその点には思い当って然るべきだった。こんな廃墟の街でそれを期待するのは間違いだ。今日何度目か分からないが心の中で舌打ちをする。だがまずはマリーの評価が下がる前に何か機転の利いた言い訳をしなければならない。
「いや…ッ、そう、違うンだよッ!てっきり地下水を汲み上げてると思ってよぉ!それなら飲めるだろ!?」
地下水なら飲めるのかは知らないが湖の水よりは絶対マシだろう。そう咄嗟に言い訳を口にしてみたがマリーの反応はどうか。
「地下水…?井戸って事?あ~そっか~、そういう可能性もあるんだね~!あれ?マスラオってもしかして頭良い?私井戸水なんて考えた事も無かったよ」
素晴らしい采配である。
評価を下げるどころかまさか上げるとは。今日あったミスは全て帳消しだ。
「でもここトイレ無いし、私知らないからね」
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部屋も住める状態になったという事でマリーは帰っていった。
しっかりと礼は言ったがこの埋め合わせはしなくちゃなと頭にメモを書き残す。だがまずは先立つものが無ければどうしようもねぇ。布団も無いが今はまだ我慢だ。
外を見るとまだ明るい。夜はまだ長いどころか始まってもいねぇ。何かやりたい所だが、やることが無さ過ぎて暇を持て余す。そういや晩飯がねぇぞ、どうする。まったく、せっかく部屋を手に入れてこれからって時に何をすりゃ良いか、全然分かんねぇ。
そういや大学入学前に一人暮らしを始めた初日もこンな感じだったっけな…。何年前だ?懐かしいな。
そういやここ暫くゆっくりと休む事も出来なかった。久しぶりにゆっくり休もう。
それに一体俺の身に何が起こったのか、これからどうなっちまうのか、考える事が多すぎる。
――なぜ突然森にいたのか。
――なぜ裸だったのか。
――あの怪物達は何なのか。
――自分の身体はどうなってしまったのか。
まぁ裸だったのは別に良い。いや良くはねぇが、今は気にしなくてもイイだろう。なら森で目覚めたのは?…分かンねぇな。実は船が沈没して溺死してこの世界に転生したとか?いや死んでねぇからワープか?
そういや昔どこぞの飛行機が突然行方不明になって数十年後に白骨遺体を乗せて戻って来たなんて聞いた事があったなぁ。まさかそれと同じ事が起こったって?とすればそのうち日本に戻れンのか?だが戻ってどうする。借金は時効か?なら戻ってもイイな。
この世界にやってきた理由を考えてもしょーがねぇ。これからの事を考えねぇと。
あの怪物はやっぱり良くあるモンスターって奴か?ハッ…まるでゲームの世界だな。いやまさかマジでゲームの世界か?あの怪物を倒すと経験値が貰えてレベルアップすンのか?金も落とすってんならモンスターハンターで食っていくってのも面白そーだ、ハハッそう思うと笑えてくるぜ。
まぁこれは深く考える必要もねぇだろう。誰かに聞きゃイイんだ。この世界にありふれたモンだってンならあの怪物達の存在ってのは当然この世界の常識だろう。
にしても、俺の身体…どうしちまったンだろうな…。
あのチンピラ野郎に殴られても全然痛くなかった。それにあンだけ森の中を裸同然で歩き回ったってのにかすり傷すら付いてねぇ。散々転けたし草ン中入ったりしたのにだ。そういや腹も壊してねーな、色々ヤバそうなモン食ったけどなぁ…。さっきの水道水ももしかしたら平気かもな…。今ンとこ全然何ともねぇし。
だが、まぁ…。
この身体があれば、何とかなンだろッ!