3 樹海の行楽
樹海を樹海たらしめるのは数多くの樹木の集合体であったが、その中にひと際大きく天にまで届くかのような立派な大木があった。その幹の太さは200メートルはあり、高さは300メートルは下らないだろう。大木の中心から周囲に広がる数えきれない枝は、それぞれが通常の木の幹と思う程太く、その枝は遥か先まで伸びている。離れた位置から見ればその形状がまるで茸のように半球型の傘に見える事だろう。
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「…なンだよ、あの木…!信じらんねぇー…!デカ過ぎだろうッ」
益荒男は目の前、いや視線の遥か先に見える巨大な樹木を見て感嘆の声を上げる。その巨大な樹木までは随分と距離があるように見えるが、そのあまりの大きさに目の前にあるようにすら見えてしまう。
「やッべぇ…脳が追いつかねぇ…めちゃくちゃ違和感があンな、アレ…」
数時間前まで当ても無くこの樹海を彷徨っていたが、偶然見つけた小高い山を登って、今はその山頂に居た。高い場所からこの樹海の全貌を掴もうという狙いだ。そして真っ先に見えたのが、この途方もない大きさの樹木であった。視線を少し左に向けると、これまた立派な山が見え、山の中腹辺りから上は雪に覆われ白く輝いていた。
この樹木を見る事が出来たのは大きな意味があった。恐らくこの景色は誰が見ても感動を覚えるだろうが、益荒男にとってはここが"見知らぬ世界"だという信じがたい証拠になるという意味があった。未だここが外国の何処かだという考えが捨て切れずにいたが、これを見てそんな考えは完全に吹き飛んだ。
この景色の反対方向に視線を移すと、先ほどまで益荒男が歩いてきた方角になるのだが、その遥か先に樹海の切れ目が見えた。日差しが眩しく、太陽の位置からすると、おおよそ南の方角だろう。距離は30キロメートルはあるだろうか。何も無い平原であれば一日あれば十分辿り着けそうだが、この樹海の中では果たして何日必要になるか見当が付かない。
「…まぁ行くしかねぇよな…。三日?四日くらい掛かるか?いや五日くらい掛かるかな…?」
益荒男の頭にこの樹海を抜けた先に何も無かった場合、どうするのかという一抹の不安があったが、とやかく言っても始まらない。とりあえず行ってから考える。それしか無かった。
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歩き始めてもう六時間は経っただろうか。すでに日は落ちかけており、徐々に暗がりが広がろうかというその時、ようやくあの湖が見えてきた。先ほどの山頂からも湖が見えており、方角もおおよそ一致していた事から一先ずの目標として歩き続けていた。
「やっと着いた…良かった…、無事着けて…。水飲みてぇ…」
ここまでの道中、食べれそうな実を付けた植物は見つけたが、どれもまともに食べれるようなモノではなく、水分補給としても無いよりはマシという程度であった。やはり水そのものに勝るものは無いと益荒男は水辺に駆け寄り水を口にする。マングローブのような木の果実もまだまだ数多くあり、その実をいくつか採取するとそれを齧り腹を満たした。
やはり疲れたのだろう、満腹になった事もあってか益荒男は眠気に襲われ、近くの木の根元に座りすぐに寝息を立て始めた。辺りからは湖の波の音以外にも、虫の声や鳥の鳴き声など多少五月蠅くはあるものの、その深い眠りを妨げる程のものでは無かった。
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一体どれくらい経っただろうか、相変わらず寝息を立て寝ていたが、そこに近寄る影があった。すでに周囲は暗く、月明り程度の光源しか無いためその姿ははっきりとは分からない。その影が益荒男の左腕を取ると、そのまま引き摺るように湖の方へと移動する。しかしそのような状態ではさすがに益荒男も異変を感じ取ったのだろう、すぐに目を覚ますと自分の腕を何者かに掴まれている事に気づいた。
「ッ!?オイッ!何だぁ!?ちょッ、離しやがれッッ!!」
その腕を掴んでいる存在もその声で益荒男が起きた事に気づいたようだが、それを気にするでもなく、変わらず湖に向かい歩き続けている。寝ていた際に寄り添っていた木も湖からさほど離れていない距離だったため、目と鼻の先が湖の水辺だった。
「ぐぅッ…!クソッ!なんて力だよッ、オイコラッ!何なンだオマエぇ!」
必死に抵抗するも、そのまま湖の中へと引き摺り込まれる。
「ぐぼぉ…ごぼッ…!」
水の中で必死に藻掻く。
(ヤバいッ!死ぬッ…!誰か…ッ)
無我夢中で何者かの身体に必死に爪を立てるが腕を掴む力は弱まらない。すでにいくらかの空気が藻掻く度に口から漏れていっており、徐々に苦しさを増していく。後一分も持たないだろう。だがその時、藻掻き続ける右手の人差し指と中指が何かに引っ掛かった。
そこで初めて腕を掴み湖へ引き摺り込んでいる存在に反応があった。水の中のためはっきりとは聞こえないが悲鳴のような声が水の振動として益荒男の耳の鼓膜へと届いてきた。それを聞くと指に力を入れなりふり構わず指の先を引っ掻き回す。
すると今度は大きな悲鳴と共に腕を掴む力が弱まり、ついに解放された益荒男は急いで水面に浮上しようと必死に足と手をばたつかせる。一瞬何かが足に触れた感触があったものの、足をばたつかせていたためか何事も無く水面に顔を出す事が出来た。
「ぷはァッ!!!ハァッ!ハァッ!」
だがゆっくりしている暇は無い。呼吸を整える暇なく、急いで水辺から駆け上がり木の裏に隠れる。
「ハァッ…!ハァッ…!ハァッ…!」
木から顔を出し湖のほうを観察すると、何者かがゆっくりと水を掻き分け這い出てくる所であった。暗がりで良く見えないが、手で顔の辺りを抑えているようにも見える。
「ゲギャッ…!グゥ…ゲギャキャ…!!」
その影はほとんど人間と同じように見えたが、口から漏れ出る声はとても人間のものとは思えない不気味なものだった。背の高さは150センチメートル程度か、それほど高くは無い。益荒男を探そうとしているのか辺りを見回すような素振りをしており、その際に身体を横にした事でその影の輪郭が月明りに照らされた。
背中には頭から尻の辺りまで、まるで尾びれのような物があり、腕には鱗のようなものが、月明りに照らされ光沢を放っていた。また手には指と指の間に水掻きのようなものがある。そして、顔は明らかに人間ではなく怪物と形容する他無い。
益荒男はこの怪物が過ぎ去るまで、呼吸を出来る限り小さくし、気配を消す事しか出来なかった。
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一体何分経っただろうか、ようやく益荒男を探す事を諦めたのか、怪物は湖へと戻っていった。
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樹海は一見すると平坦な台地の上にあるように見えるが、人間の大きさからするとその内部はとても平坦で済まされるようなものではなく、とても行楽が出来るような場所では無かった。ましてや何の準備も道具も無く、一介の現代文明の利器に飼い慣らされた者が裸で歩を進めるのは自殺行為以外の何ものでもなかった。
視線の先にある進めど進めど変わる様子が無い景色に、果たして自分の進む道が正しい方向へ向かっているのか不安が込み上げてくる。
もう何度目かも覚えていないが、このまま真っ直ぐ進めば、視界に映る大きな倒木に突き当たってしまうため、迂回する必要があるだろう。この樹海の木はどれも幹は太く、背丈は高く、倒木に出くわそうものなら、その先の視界が遮られる程であった。
いい加減、足も棒になり筋肉痛の一つや二つは起こっても不思議では無いのだが、まだその気配を感じる事は無く、幸いにしてまだこの無謀な行楽を続ける事が出来そうである。
「お…?また見た事ねぇ植物があンな…、この実、食えンのかな…?」
目の前にはまるで原始の時代にあったようなシダ植物が生い茂り、所々に橙色の小さな実を実らせていた。すでに益荒男の喉の渇きは限界に近付いており、この実を口に運ばないという選択肢は無かった。
「どれどれ…。…ッン!おっ、これは食えそう…?…!?」
実をもぎ取り手に取ると、躊躇なくそのまま口に放り込み咀嚼する。だが始めはほのかな酸味と甘みが口の中に広がったものの、遅れて強烈な苦みがやってくる。慌てて口に残る実の欠片を吐き出すが、一部はすでに胃の中に納まっていた。
「ぺッぺッ!うげぇ~ッ苦ぁ…ッ!ちょっと食っちまったが…まぁいいか…」
苦味は毒味。本能的に人は苦みを毒と認識すると言うが、果たしてそれはこの世界でも同様か。だが毒も少量であれば薬にもなると聞く。飲み込んだのは僅かな量だ。この短期間の間にもはや多少の事では動じる事がない精神力を手にしつつあった。
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大木を避け岩を避け、あるいはよじ登り、この過酷な環境下の大自然の中をひたすらに南を目指して進むが、一体どれだけの距離を進んだのかさっぱり見当がつかない。
分かるのは木漏れ日によりもたらされる幻想的な風景が消えゆく事で時間の経過を嫌でも理解出来てしまう事くらいか。
すでにこの無茶な行軍を開始し四日が経っていた。
途中、只でさえこの深い森の中からの視認が難しい太陽の位置の変化から、予定とは違う方角へ進んでしまった事もあり、思った程先へ進んでいないようだった。
それでもすでに行程の半分は過ぎているはずである。
もしかするとこの樹海の終わりは目と鼻の先の可能性もある。
今はただ無心で先を進むだけだと益荒男は歩を進める。
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さらに進むとまるで雨上がりの後に出来るような小さな水の流れを発見した。
その流れの元を辿っていくと、どうやら発生源は湧き水だったようで、そこに直接口を近づけ、まるで動物のように水分補給をする。
久しぶりの綺麗な水の旨さに思わず声を上げる。
「うッめぇー!」
まだ早いが今日はこの場所で一夜を過ごす事にしよう。そう考えた益荒男は辺りに怪物が居ないかを確認するため、ツルを使い背負っていた棍棒を手に持ち、周囲を見回りに行く。
「…。…いるな」
木の陰から僅かに顔を覗かせ怪物を見る。怪物は何をするでもなく、その場に座り、休んでいるのか身動きを取らずジッとしていた。
少し距離があるため身体の大きさが今一つ明瞭ではない。
大人と同じくらいの体長だろうか。
ただし尻辺りから伸びる尻尾を入れると、その倍くらいの長さになるだろう。尻尾はまるで意思を持っているかのように、怪物とは正反対にゆらゆらと揺れていた。
一匹しか居ないように見えるが、見た目は毛の長い猿のようなあるいはオランウータンにも似ている。毛は灰色で、やはり額には"目"があった。
ここまでの道中、額に"目"が無い動物も何匹か見ている。つまり全ての生物にあの"目"があるわけでは無いようだった。視ただけではその違いが何であるかは分かりようも無いが、少なくとも視線の先にいる"目"を持った猿は益荒男には普通の動物にしか見えなかった。
だが本能が危険信号を発している。
はたして文明社会というぬるま湯に浸かっていた人類が持つ本能がどこまでの性能を有しているかは疑わしかったが、かと言ってこの危険信号を無視出来るほど強靭な意思を持っている訳では無かった。
こちらに気づく様子は無い。
やり過ごせるのならそれに越した事はない。
そう思い、踵を返し元の場所へと戻る。
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日が落ちたのだろう、辺りは暗くなっており、僅かに零れる月明りだけが周囲の景色を照らしていた。眠ろうかと目を瞑り寝息を立て始める。
―鳥肌が立ち、全身から汗が吹き出した。
慌てて目を開き、横に置いてあった棍棒を手にしようとした瞬間、身体が固まった。目線の先、数十メートルに何かが居た。
暗くて良く見えない。見えないが何か赤く光るものが見えた。心臓の音がやけに煩い。辺りは驚く程静寂で、植物の葉の揺れる音も聞こえない。まるで自分の身体に流れる血の音まで聞こえそうな程だった。
赤い何かは動かない。
だが恐らく生き物であろうという確信に近いものが益荒男にはあった。
そしてついにその赤い何かが動いた。
パキッと枝が割れる音がし、土を踏む音が聞こえる。地面は枯れ葉で覆われており、それを踏む音だろう。ザッザッと音が森の中に響く。
月の光に照らされ、その姿が露になる。
それは先ほど見掛けた猿だった。その姿は何も変わらず長い灰色の毛に覆われている。だが、額にある"目"だけが僅かに違った。赤くぼんやりと光っており、目の錯覚ではなく確かに光っていた。
瞬間、その姿が消える。だがそれとほぼ同時に直ぐ真横から気配を感じた。益荒男は視線だけをゆっくりと右に移すと、そこに消えた猿が屈んだ状態で座っており、こちらをジッと見つめていた。
「…■□、…□■□…」
猿は何語とも区別出来ない、人には発せないような言葉で何かを喋った。猿が喋った事による驚きは全く無かった。得たいの知れない恐怖のあまり何も考える事が出来なかったためだ。
「…ッ!?」
猿の手が伸び益荒男の頭を掴んだ。そのまま持ち上げられ身体が宙を浮いた状態となる。その時初めて気が付いたが、猿は屈んだ状態でも益荒男を持ち上げることが出来るほど大きかった。
「■?□□□■■□…?」
何を言っているのか分からない。何かを聞いているのか。だが友好的な態度には見えない。声を出そうとするが、恐怖に声が震え、まともに口から発する事が難しい。それでも何とか声を絞り出す。
「なン、だ…?」
「…」
頭を掴む力が強まるのを感じた。だが、それでも痛みを感じる事は無い。
するとその様子に驚いたのか猿の目が僅かに大きく開いた。両の目とは違いビー玉のように丸い額の"目"が一瞬だけ強く光り、益荒男はその眩しさから少しだけ目を細くし顔を顰めた。
「…、…□?■■■□□■□…ッ」
猿が何か強く声を発している。
先ほどまで硬直したように動かなかった身体が途端に動き出し、静寂だった世界に音が戻った。頭を掴む力は依然変わらず、むしろ強まってさえいる。まだ恐怖は変わらず残っているが、それを抑え、浮いている足に力を入れ、思い切り上へと蹴り上げる。
「ッ!?」
猿の口から声が小さく漏れ出る。蹴り上げた足が猿の顎に当たりその頭だけを後ろへ仰け反らせる。頭を掴んだ手が離れ、ようやく益荒男は猿の怪物から解放されると、すぐに距離を取り身構える。
「…ッ!どこ、行ったッ…!?」
だが振り向くと、猿の怪物の姿は掻き消えどこにも居なくなっていた。