1 目覚めると知らぬ森
「ンン…、あぁン?」
眩しさと背中に感じる違和感で俺は目を覚ます。目を開くとそこには茂った木々の隙間から太陽の光が眩しく差し込んでいた。一瞬何が起こったか思考が停止するが、嫌な予感がした俺は急いで身体を起こすと、周りに誰も居ない事に気づいた。
「あれッ、ン?ッ…オイオイッ…マジかよッ?」
俺はこの状況に思わず慌てる。急な事態に思考が纏まらない。
「まさかアイツ等、俺をここに捨てていきやがったのかッ!?」
何故?辛うじて頭に浮かんだ言葉はそれだった。一体何のために?意味が分からない。先ほどまで、そう寝る前までは船に乗っていたはずだ、いや正確には乗せられていたのだが。
徐々に冷静になった俺は先ほどまで寝ていたであろう場所を見つめ少し顔を顰める。そこには草が生い茂っており、石がいくつも散らばっている。恐らくこの石を背に寝ていたのだろう。
「…どこだよ、ここ。たぶん…外国、だよな…。クソッ、なンて場所に捨てて行きやがるッ!」
とその時、頭に閃くものを感じた。
「そ、そうかッ!さては難破しやがったなッ!そうか!ザマァ見やがれッ!ハハハッ!」
そう、船が難破し、乗っていた人間が浜辺に打ち上げられる。まさか自分がそんな目に合うとは夢にも思って無かった。だがこの状況はきっとそうだろう。だが。
「…」
俺はもう一度辺りを見渡す。今度は体をぐるっと360度一周させる。
「…海がねぇな…。どう見ても森じゃねぇか…」
そこに広がっていたのは生い茂る木々、海は海でもまるで樹海のような深い森であった。
「あいつ等、俺をわざわざこんな所に運んでどうするつもりなンだ…?大体どうやってここまで運んで来たんだよ…」
あいつ等…。そう、名前も知らぬ外国の男達。まるで売られるかのようにその男達に引き渡され、抵抗虚しく乱暴に船の中へ押し込められた。手を縄で縛られ体の自由を奪われ、まるで囚われの姫。そのまま数日船に揺られ、つい先ほどまで俺は眠りについていたはず。そして目を覚ましてみれば森の中。…訳が分からない。
「ン?そういえば手の縄がねぇな…。解いたのか?あいつ等。…ンン!?うおッ!裸じゃねぇーか!なンでッ!?」
着ていたはずの服にズボン、それにパンツに靴下、靴…何も無い。こんな格好で地べたに寝せられていたなど許せるものでは無い。慌てて股間を隠すが、周囲に誰も居ない事を思い出し、すぐに隠す事を止めた。空を見上げ呟く。
「どこだよ…ここ…」
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俺の名前は益荒男健、二十五歳。身分を証明するものは何もない。
これは非常にマズイ。ここがどこかは知らねぇが外国だろう。だが俺はパスポートを持っちゃいねぇ。そもそもパスポートを作った記憶もねぇが…。それに免許証もねぇ。日本の免許証は攻守共に最強って聞いた事がある。あれさえ残ってれば…。免許証は財布の中に入ってた。クソッ!
俺が今考えているのはどうやって日本に帰るかだ。とりあえず人に会えれば、そこから警察へ行って、まぁ何だかんだでそのまま日本へ帰るってプランだ。帰った所でどうなんだって話だが…、いっそここで暮らすってのはどうだ?…ダメだ、言葉が壁が…いや、その気になりゃ何とかなるか?
―ガサガサッ
「うおッ!?」
俺は音のした方へ振り向く。視線の先には益荒男と同じ背丈くらいの植物が生い茂っており、その植物が左右に少し揺れているように見える。周りの植物は揺れていない、つまり風ではない。何かいる。
益荒男は動けない。もし猛獣だったら?頭にそんな事が過る。
(ま、まぁどうせ、タヌキか何かだろ)
そして目の前を何かが通り過ぎる。
「…!」
体長30センチメートル程度の小動物だ。素早い動きで益荒男をすり抜けてそのまま走り去っていった。
「ふぅ~ビビったぜぇッ…!脅かしやがっ…」
益荒男の表情が固まる。先ほど小動物が出てきた方角、何か異様な気配を感じる。ゆっくりと顔を動かし生い茂る植物の方へと視線を向けると、そこには黒い大きな豹がいた。
「ッ!」
動けない。脳から逃げろという指令が出ている。益荒男はその指令に従おうと足を動かすがビクともしない。わずか2,3メートル先にいる黒豹が動く。その動きが妙にゆっくりと見え、益荒男はそれを見ながら自分が死ぬであろう事を冷静に悟った。
益荒男はいとも簡単に黒豹に身体を押し倒され、地面に叩きつけられる。黒豹の鋭い爪が自分の体に食い込もうとする様子がはっきりと見えた。不思議と痛みは感じない。それとほぼ同時に黒豹の大きな顎が開かれ、大きな鋭利な牙が益荒男の喉元に突き刺さる。
益荒男は他人事のように感じながらこれまでの人生の走馬灯を見ていた。思えば何も考えず大学へ進学し、自堕落な生活を送っていた。考えが子供のまま身体だけが大人となってしまい、目の前の辛い出来事から目を反らしていた。就活から逃げ、起業という言葉に心を躍らせ、大した下調べもせず勢いだけで始めてしまい借金だけが残った。
黒豹の獰猛な唸る声が耳から、骨から脳へと響き渡る。貪るように自分の肉を喰らっているのだろう。まさか自分がこのような最期を迎える事になるとは。先ほどまで時間がゆっくりと流れているかのように見えた風景も、今は元に戻り何時もの時間の流れになっている。
そこでふと益荒男は気づいた。痛みを感じない。相変わらず黒豹は自分の喉元に喰らいつき顎を動かしている。だがその牙はもしかすると刺さっていないのか。視線を動かすと身体を押さえつけている鋭い爪も肉に食い込んでいるように見えるが、そこから血が一切出ていない事に気づいた。
(どうなってる…?夢か…?)
益荒男は身体に力を入れ、何とか黒豹の拘束を解こうと藻掻く。すると黒豹は驚いたのかさっと後ろへ跳び、距離を取る。益荒男にはその表情がどことなく驚いているようにも見えた。
「どこも怪我してねぇ、全然大丈夫だ。…ッンだよ!脅かせやがって!こいつ見掛け倒しかよ~、こっちは死ンだモンだと思って走馬灯まで見ちまったじゃねぇーか!」
益荒男は自分の首元を手で触りながら血が一滴も出ていない事を確認すると、安堵の表情でそう言った。
黒豹はそんな様子の益荒男を見て、再び跳びかかる事もなくただ唸り声を上げ威嚇している。
「グウゥッ…!」
益荒男はそんな黒豹をジッと見るが、一向に自分に向かってくる様子が無い事に気づき、試しに一歩前へと進み黒豹に近づいてみる。すると黒豹は後退するではないか。
「ハハハッ!おいおい、マジかよッ。もしかして俺にビビってンのかよ!」
つい先ほどまで生きるか死ぬか、いやほぼ死ぬという状況だったにも関わらず、急な状況の展開に益荒男は可笑しくて堪らない。ましてや命を奪おうとしていた目の前の獰猛な黒豹が自分に怖気ついているではないか。段々と興奮してどうしてやろうかとニヤニヤと下卑た笑みを浮かべる。
だがここである事に気づいた。
「…ンン?なンだそれ?」
益荒男は黒豹の額の位置に釘付けになる。そこにはあるはずのない"目"があった。
「…。…えぇ?」
益荒男は低く唸り声を上げ続ける黒豹をよそに頭の中で考える。先ほどまで興奮状態にあった脳が急速に冷めていくのが分かった。
(目…?そんなとこにあったっけ?豹じゃないのか?こいつ。いや、そもそもそんなとこに目がある動物なんていないよな?あれ、どうだっけ?)
その時、黒豹が覚悟を決めたのか、再び益荒男目掛けて跳びかかってくる。益荒男はその様子を見ていたにも関わらず、その動きが速すぎて全く反応が出来なかった。
「ぐっ!コラッ!離せッ!」
黒豹の身体を益荒男は両手で掴み離そうとするが、ビクともしない。だが相変わらず黒豹は益荒男の身体に傷一つ付ける事が出来ずにいる。暫くの間互いに不毛な格闘を続けるが、業を煮やした益荒男が大きな雄叫びを上げる。
「ガアァッッ!!!」
耳元で直にその声を受けた黒豹は身体から跳び上がり、そのまま駆け出してどこかへと消えていく。その後ろ姿を益荒男は黙って見送っていた。
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「腹減ったなぁ…」
突然見知らぬ土地にいた事、猛獣の額に目があった事、気になる事はあったが、まずはこの状況を何とか打開しなければならないと益荒男はこの樹海の道なき道を歩いていた。辺りは少し靄がかかっており、視界はすこぶる悪い。どこを見渡しても大きな樹木が見え、その大木の幹には緑色をした苔が隙間なくむしている。まるで御伽噺の世界に来たかのような景色に溜息を付く。
日が落ち始めたのだろう。葉の隙間から漏れていた光は徐々に減っていき、ただでさえ靄で視界が悪かった景色は何も見えなくなっていく。
「暗くなってきたな…さすがにこのまま進むのはマズいか…?」
益荒男は適当な木の下に腰掛け、呆けた表情で今日自分の身に起こった事を思い出す。自然に考えれば、同じ船にいた者達が自分の身を剥ぎ、ここに連れてきて放置したと考えるのが妥当だろう。だが何のために?襲ってきた豹擬きも何だったのか。もしかすると作り物だった?だがそう考えれば辻褄が合う。あの牙で喉元を喰い付かれても何とも無かったなんて有り得るわけが無い。
"どっきり"という言葉が頭に浮かんだ。
「…そうだッ!どっきりかッ!」
いくらどっきりでもこんな滅茶苦茶な事をやれば問題になりかねない。だから借金で首が回らないような、下手をすれば死ぬしか無いような人間を使って仕掛けてやろうという事じゃないか。
益荒男が船に乗せられた原因は借金と、そして自業自得である。大学卒業後、就職もせずフラフラしていたのだが、心機一転、起業して一国一城の主になったのだ。しかし全く上手くいかず借金だけが残ってしまった。
借金を返すため闇金業者に金を借りたのだが、それが間違いだった。借金が返済出来ず、途方に暮れた益荒男は、あろう事かその闇金業者の事務所に盗みに入り、しかもあっさりとバレてしまった。そして訳も分からず無理やり船に乗せられたのだ。その時はどこか外国に連れていかれ、強制労働でもさせられるのだろうと考えていた。まさかこんな事をするためだとは想像出来るはずがない。
だがそうと分かればこの状況も怖くはなくなってきた。とすればどこかでカメラを回して撮影しているに違いない。
「いや、待てよ…?だとすれば俺はどうしたらイイ?下手にどっきりに気づいたとバレたらどうなる?」
これが無事何事もなく終われば借金が帳消しになるなんて可能性も有り得る。少なくとも報酬が出るのは間違い無い。つまりこのまま気づいていない振りをしてどっきりに掛かったままの体で行動した方が良い。
「良しッ…!いいぜぇ、そうなら見てろ!俺の名演技をよぉ~」
翌朝、益荒男は大木の幹の下で目を覚ます。辺りは靄も晴れており見通しが良い。相変わらずどこを見ても樹木や植物が生い茂っている景色しかない。空を見上げると、木の枝や葉で青い空の大部分は隠れてはいるものの木漏れ日が気持ちよく、清々しい朝である。
「ふぁ~よく寝た…」
益荒男は立ち上がると両手を上げて指を組みストレッチを始める。腰を折って屈伸し、足を延ばして入念に体を整える。最後に股を大きく広げて四股を踏みストレッチを終える。
「よしッ、とりあえず歩くか!」
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「喉が渇いた…、腹も減った…、どうするよ、道間違えたか?もしかして番組が考えてた道を外れたりしてねーだろうな…」
昨日目を覚ましてからもう丸一日が過ぎようとしていた。腹が減るのはまだ我慢が出来る。だが喉の渇きはどうしようも無かった。とにかく何か飲まなければと川を探していた益荒男だったが、まだ見つけることが出来ずにいた。
「あッ…!まさかッ…!?」
突然益荒男が走り出す。生い茂る植物を掻き分け奥に進むと、太陽の光を反射し波打つ景色が見えてくる。
「やったッ!湖か!?水だッ…!」
その勢いのまま水際まで走ると手のひらに水を溜めて一気に口の中へと流し込む。
「ぷはッ!うめぇ!」
湖はそれほど大きくはなく、よくある学校の運動場くらいだろうか。さすがにこのような大自然の樹海の中にある湖なだけあって水はとても澄んでいた。
「ふぅ~。あッ…たらふく飲んじまったけど…腹壊さねぇだろうな…」
腹を摩りながらそう呟く益荒男だったが、もう手遅れだろう。だが幸い周囲は森の中。いくらでも用を足す場所はある。気にするとしたらどこかに潜んでいるだろうカメラの存在か。しかしそもそも裸である。腹を下したところで今更か。むしろ内容的に盛り上がるに違いない。そう益荒男は考え気にするのを止めた。
「…?何かあるな…」
湖の水辺に沿って歩いていると何かに気づく。水辺一面に木の根が張っており、見たところマングローブのようにも見える。だが上を見上げると赤い色をした果実が実っている。
「へぇ、マングローブってこんな実がなるんだな。食えんのかな…、いや食うに決まってるけどな」
幸い木はうねるように伸びており、根の部分を足掛かりに上手く登って行けそうだ。益荒男は器用に登っていくと果実をもぎ取り下まで降りる。果実をかじってみると、程よく柔く、さっぱりと甘い。林檎と桃の中間のような味だと益荒男は感想を持った。一つ食べ終わると再び次の実を採りに木を登る。
木の上で五個目の果実を食べ終えた頃、湖の中で何かが大きく跳ねたのを益荒男は見た。