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大崎玄蕃と名を変え生き延びた武田勝頼の末裔の咆哮  作者: 吉良山猫
第2章海津城編
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武田徳栄軒信玄

史実で武田晴信はこの年に出家して武田徳栄軒信玄と名乗ります。以後武田晴信の呼称は武田信玄とします。

前年度からの蓄えや勝頼のもたらしたサツマイモの栽培が順調だった為、秋にはサツマイモの収穫が期待できるがこの年は日照り続きで東日本は大規模な飢饉に襲われていた。


勝頼の治める北信濃は治水や溜め池などを整備していたのであまり影響は受けなかったのだが、武田領では南信濃や甲斐は少なからず影響を受けていた。


大規模な飢饉の際は兵糧の確保が厳しいので戦さを控えるか他国を侵略して奪うかどちらかであるが晴信は動かないことを選んだ。


いや動けなかったのである。理由として原美濃守虎胤、室住虎貞、多田安房守と武田信虎時代からの老臣がこぞって急死したからである。


この時代では確かに年齢的に高齢である為、不自然は無いのだが立て続けに続くと流石に晴信も毒殺を疑った。その為、警戒して動けなかったのである。


表面上は今川や北条は同盟国だが晴信は内心では信頼はしていない。越後の上杉政虎は潔白な人物だと聞いているのでそのようなことはしまいと思っている。


最近変わった事と言えば嫡男である義信の家臣に駿河から来た武田信虎の子であり晴信の弟にあたる武田信友が加わったくらいだが、武田義信は父晴信に従順であり父の武田信虎にしても60を超える高齢の為、武田の名を高めようって思っても今更父を追放した晴信に報復しようとは思わないだろうと思っていた。


海津城の勝頼に至っては晴信や義信に遠慮して武田菱を使わないなど徹底しているが逆に疑わしいところもある。透破の報告によれば新たな家臣を積極的に雇ったり、最近では1000もの家臣を雇ったと聞く。麒麟児や信濃の大鷹などと言われておるし、まさかとは思うが勝頼には気をつけないといかんかも知れない。


戦国の世において親子や兄弟の争いは珍しくなかった為、自身のこともあり晴信は疑い深くなっていた。


晴信は甲斐国の情報を勝頼に流すことを禁止し、信濃国においても多少の配置換えを行った。


武田信繁を深志城代に、高坂昌信と名を変えた春日虎綱を小諸城代に、因みに小諸城代の高坂昌信は躑躅ヶ崎館にいることが多いが。そして諏訪高島城は山本勘助に、高遠城は原昌胤に、高遠城にいた秋山虎繁は木曽福島城に、高遠城にいた弟の後の仁科盛信は深志城へと配置換えになった。念の為に信濃に晴信が信頼する重臣を配置して勝頼を監視する為であった。


そして最近の大規模な飢饉や寺社勢力の厄介さを知っている晴信は大きな決断をした。


自らが出家することにより寺社勢力の取り込みと民や部下達の飢饉への不安を和らげる為である。


晴信は甲斐国の長禅寺にて薙髪を行い武田徳栄軒信玄を名乗った。隠居する気はさらさら無いがこれより武田信玄となったのである。

力や才能がある者は権力者にとって妬みや疑いの対象になるのはいつの時代も一緒です。表向きの従順さが人の全てではありません。心地よい言葉やお世辞や従順な態度は権力者を喜ばせますがそれは必ずしも良い結果にはならないのは歴史が証明しています。勝頼は自身の能力をなるべく表に出さないようにしていますが…海津城の発展が疑われる結果となります。

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