畿内の現状
いつも誤字脱字ありがとうございます。
西国では史実より早く歴史が展開していた。
千宗易の暗躍により成った毛利家と大友家の同盟は、九州に置いては、大友家が島津家と龍造寺家以外の大名を全て滅ぼし、毛利家は四国において西園寺家と一条家を滅ぼしており、毛利元就はその知謀と謀略により姫路城まで兵を勧めていた。
千宗易と毛利元就は天下人三好長慶を、将軍足利義輝が命令して行ったように見せかけて暗殺した。
怒った松永久秀と三好三人衆が室町御所を攻めて将軍を暗殺したかのようにみえたが、影武者であった。
武田勝頼によって、将軍の警護を命じられていた飛び加藤が事前に足利将軍家の宝物と義輝の宝剣と共に海路で越後まで逃し上杉輝虎の元に匿ったのだ。
しかし、まるで仕組まれたかのように、織田信長の元に、行方不明になっていた足利義昭が現れて、既に伊勢、南近江も織田領になっていた為、4万の軍勢で上洛を果たし、松永久秀は信長に降伏、三好三人衆は全員討ち死に、三好勢は壊滅し畿内からその勢力は一掃された。
畿内は本願寺を中心とした寺社勢力、堺、紀州以外は全て織田信長の勢力下になったのである。
比叡山延暦寺は、羽柴秀吉の手により焼き討ちにされ三日三晩燃え続けたと言う。
羽柴秀吉は、ただ寺院を焼き払うだけでは無く、直接逃げる女子や僧侶を捕らえて蓑を着せて油をかけ燃やして喜んだと言う。
「まるで蓑虫のようだな。愉快、愉快と」
晩年の残酷な豊臣秀吉の片鱗を初めて見せた時であった。
この功により、近江坂本に領地を貰い坂本城を築城する事により、北近江は羽柴秀吉のものとなった。
畿内をほぼ手中に収めた織田信長は南近江に安土城の築城を開始する。
背後を一番危険な人物である男に任せてしまうと言う失態を犯して…
三好家は勝頼によりすぐさま、三好義興と三好実休を阿波へ戻して貰った為、四国内の勢力だけは維持することができていた。
毛利家、大友家に圧迫された長宗我部家が苦肉の策で三好家に同盟を申し込んできたのも大きい。
織田信長と足利義昭の誤算は、将軍足利義輝が存命の為に将軍になる事が出来なかったことである。
そして、この足利義昭がかなり曲者で信長の足を引っ張る事になる事を今はまだ知らない。
そして、堺においても信長は失態を犯してしまう。
大量の矢銭の提出を求めたのだが、抵抗され私兵で町に立て篭もられた事に腹を立てて総攻めを命じたのだが、堺の街には千宗易と一部の商人、私兵しかおらず、大商人や鉄砲鍛冶は皆、助五郎の手引きにより江戸城下へ脱出してしまっていたのである。
その為、南蛮船や中国船などの貿易船は堺から姿を消し、江戸、小田原に集まるようになってしまったのである。
これは日の本の商いの中心が堺から江戸に代わった瞬間であった。
畿内での商い、貿易の中心が無くなった事により、堺の旨みが無くなり、畿内の商人や大名、公家だけではなく博多の商人にまで被害が出るようになってしまった。
仕方のないことだろう、南蛮人やその他の海外の者達、そう、彼らは整備された日の本一の大都市江戸と小田原を知ってしまったのだから。
貿易に陰りを見せた九州や畿内では宣教師によるキリスト教の布教が盛んになった。
九州や畿内ではそれを受け入れるしかなかったのだ…勝頼はプロテスタントは受け入れるが、カトリックの侵略は知っている為、布教は禁止した。
このように西国が大きな変化を迎える中で現代にいたるのである。
勝頼は次の行動を起こす前に、今出来る切り札を切ってから行動に移すことになる。
勝頼は西を睨み不敵な笑みを浮かべるのであった。
数年で西国の情勢が大きく変化しています。