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大崎玄蕃と名を変え生き延びた武田勝頼の末裔の咆哮  作者: 吉良山猫
第4章小田原城編
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越後の歓喜

いつも誤字脱字ありがとうございます。

上杉輝虎が第一子の虎千代を出産したのは8月20日だった。


その一ヶ月前から大量の祝いの品と共に駆けつけていた、武田勝頼のお供は、風魔葵、山県昌景、上泉信綱、雑賀孫市、島津家久と、赤備え騎馬隊5百、雑賀孫市率いる鉄砲隊五百の千の兵であった。


実父である武田信玄が初孫の顔がどうしても見たいと意地でも来そうな雰囲気であったが、今川家のことが心配の為丁寧にお断りした。


それにより、武田信玄は今川義元への憎しみを更に強め怒り心頭であったとか…


嫡男の誕生した上杉家の家中や民の喜びは尋常ではなく、歓喜の声が天を貫く程であった。


史実で、戦国最強と言われた上杉謙信の唯一の弱点が跡継ぎがいなかったこと…その為彼女の死後、御館の乱が起こり上杉家の力が半減したことなどを考えればこの尋常ではない喜び方も納得がいく。


祝日と言う概念がないこの戦国時代において越後では8月20日が祝日になったくらいだ。


これに対し、各方面からの祝いの挨拶や祝いの品は恐ろしいことになっている。


上杉輝虎が家臣団を集め虎千代を披露した際には歓喜と共にすすり泣く越後重臣達の姿に勝頼は驚愕した。


彼らの上杉輝虎への忠義や尊敬、畏怖はそれほど大きなものなのである。


史実で上杉輝虎に実子がいて、武田勝頼が正当に家督を継いで同盟し、抗えば織田信長といえど滅ぼすことは難しかっただろう。


上杉家は武田家と史実でライバルだっただけあって家臣団は本当に強いのだ。


武田勝頼は祝いの席を通して彼らと仲を深めたのは言うまでもない。


勝頼は自身も彼らに報いる為に料理の腕を振るった。


鯛のアクアパッッア、鯛の塩釜焼き、帆立のバター焼き、肉じゃが、エビフライのタルタルソース添え、カキフライのタルタルソース添え、椎茸の茶碗蒸し、サツマイモのポテトサラダ、コーンポタージュスープなどである。


まか不思議な料理であったが、上杉家の家中の者達はあまりの美味しさに生きてこれたことに感謝した。


そんな中で思いがけない一報が入ってきた。


蘆名盛氏が、越後の新発田城を目掛けて攻めてきたのである。


その数、1万2千にも及ぶ大軍であった。


諸兄氏方の謀叛がありそれを鎮圧したとは聞いていたが、まさか越後に攻めてくるとは思いもよらない。


蘆名盛氏は上杉輝虎の妊娠を知っており、輝虎がいなければ越後軍は猪武者の烏合の衆であり、輝虎が動けなければ連携した反撃ができないと判断したようだ。


しかし、それはさとうきびより甘すぎる。


上杉は史実と違い、武田家や関東での戦いをほとんど行っていない。


今川家から勝頼を救う時ぐらいである。


つまりは、余力があると言うことだ。


この目出度き祝いの時に水を差された越後衆達の怒りの恐ろしさは勝頼でさえ相手にしたくない程だ。



上杉輝虎が出陣しようとするが、勝頼がそれを止めた。


指揮は任せろ、そして輝虎にはその身を大切にして欲しいと。


勝頼もまた怒っていた…「許さんぞ…この目出度き時に」と。


武田勝頼は、蘆名家撃退の同行者をつのったが、全員が希望した為、その中から連れて行く者を選ぶことにしたのであった…

虎の尾を踏んだら…

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