第六章
キースは眠い目を擦り、三人の顔色を伺いながら、歩いていた。ガイルは朝から不機嫌そのもので、ミルーナとエルファンドは険しい顔のまま、互いに口を聞かない。そして、赤と青が今までにない動きをしている。水面の表面を風が撫でるように、少し波立っている。
キースはガイルの腕をつついた。
「ねえ。なんかあったの?」
「何もねえよ」
「でも、ガイルもミルーナさんもアルスルーン様も怒ってるみたいだし。赤と青が朝から変だし」
ガイルはキースを睨んだ。
「うっせえな。お前は赤と青でも信じてりゃいいだろ! 赤と青、赤と青って、うるさいんだよ!」
ミルーナとエルファンドは驚いて、ガイルとキースを見た。
キースはガイルをしばらく見つめ、口をヘの字に曲げた。
「なんだよ、ガイル。なんで僕に当たるのさ。赤も青も悪い事してないじゃないか」
「だから、うるせえって言ってるだろ! 赤とか青とか訳が分かんねえよ! そんなの俺にはないからな! お前見てんとイライラすんだよ! 話しかけてくんな!」
キースは目を見開いてガイルを見つめた。
「なんでだよ! 僕は、僕は……」
キースの目に涙が溜まっていく。
「そんなのほっときなさい」
ミルーナがキースの手を引いた。キースは驚き慌ててミルーナの手を振り払った。
ミルーナはキースに首を傾げる。
「どうしたの? また、はぐれる気なのかしら?」
キースはミルーナに握られた手首を押さえ、首を振った。
エルファンドはキースに首を傾げる。
「どうした、キース」
キースは慌ててエルファンドの腕に掴まり、ミルーナを見た。その瞳に不安の影がある。
「今日は…… 今日はミルーナさんと歩かない」
「嫌われたな、ミルーナ」
ミルーナはキースをしばらく見つめ、肩を竦ませた。
「何か知らないけどそうみたいね。じゃあ、ガイル、一緒に歩きましょ」
ガイルは口の端を下げたまま、ミルーナの隣りを歩き出した。ミルーナはガイルに微笑み、何か話しかけている。
エルファンドは腕に必死に掴まるキースの頭を見下ろした。
「どうしたんだ?」
キースはエルファンドを見上げ、首を振る。
「なんでもないです。それより、なんで、みんな怒ってるんですか? 僕、悪い事したんですか?」
エルファンドはキースの頭を撫でた。
「なるほど。なあに、お前さんが起きる前にちょっと一悶着あったんだよ。気にする事じゃない」
「本当に気にしなくていいんですか?」
エルファンドはキースに頷いた。
「気にするな。私が機嫌悪そうに見えたのはずっと考えを巡らせていたからだよ。ミルーナは、昨晩お前達の事頼んだのに夜中出掛けて、私に怒られ、ふて腐れているだけだ。ガイルは…… 多分、私に焼きもちを焼いているのかな」
エルファンドはガイルの横顔を見つめ、苦笑いを浮かべた。
「焼きもち?」
不思議そうな表現のキースにエルファンドは耳打ちをした。
キースは驚いたようにガイルとミルーナを見て、エルファンドを見上げた。
「ガイルが?」
「そう。十中八九そうだろうね。私はその辺も含めて先輩かな」
キースはますます目を見開いた。
「え!」
エルファンドはキースに片目を瞑る。
「あれでなかなか魅かれるものがある」
キースはガイルと話しているミルーナを見た。ガイルの顔に笑顔が戻っている。
「僕も、ミルーナさん、好きです。でも、多分、ガイルとは違う好きなんだと思います。お姉さんみたいに好きなんだと思います。でも……」
エルファンドはキースの眉間を見つめ、首を傾げた。珍しくキースの眉間に皺がよっている。
「でも、どうした」
「でも…… 今日のミルーナさんは嫌いです」
「なんでだ? 怒っているからか?」
キースはエルファンドを見上げ、首を振った。
エルファンドは顎を一撫でし、キースを改めて見た。
「赤と青ってなんだ?」
キースは驚いたようにエルファンドを見上げた。
「ガイルもキースも口にしてたしな。キースの飼い猫か?」
キースはエルファンドの言葉に口を歪めた。赤と青も笑うように動いている。キースはエルファンドの瞳を見て、あえて『飼い猫』と表現したのが分かった。だが、エルファンドに話していいものなのか、ガイルに否定されたキースは迷っていた。
エルファンドはキースの頭を撫でる。
「実は昨日、お前が熟睡している時、ミルーナが教えてくれた」
キースは一気に涙が溢れてくる。
「僕だって分からないのに…… ヴァコバさんは赤と青を否定するなって言ってたけど、ガイルに嫌われちゃうなら赤と青なんていらない」
エルファンドは顔に腕を擦り付けるキースを見つめ、内心溜め息を吐いた。歳より幼いキース。身体より精神がゆっくり成長していく特性なのかもしれない。エルファンドは、そういった特性を持つ人間を少なからず知っていた。
「ふむ。赤と青がお前の未来を握っているとしても、いらないか?」
「僕の未来?」
「そうだ。キースは帝国術士になって、ゆくゆくは護衛騎士団になりたいんだろ?」
キースは大きく頷いた。
「なりたい。なって、クラーク・マックスウェル様に会ってみたい」
エルファンドはキースの頭を撫でた。
「これは聞いた話だから、なんともいえないんだが、高位術士の中に、お前みたいに何かを内に飼っている人がいるって、聞いた事があるよ」
キースはエルファンドを見つめていた。
「え」
「だから、お前の未来を握っているんじゃないかな、赤と青は」
エルファンドの言葉をキースはしばらく考えてみたが、答が出るわけじゃなかった。
「分かりません……」
「それでいいと思うよ。ただ、ガイルや私にはその赤と青とか、内に飼う何かを持っていないから、理解出来るわけじゃない。と、いう事は、端から見たら飼っているかなんて分からない」
キースはエルファンドの言葉を咀嚼し、頷いた。
「そうですね。見ただけじゃ分からないですね」
「そうだろ。だったら、一々赤と青がって言わなくてもいい。赤と青が何を言おうが騒ごうが、お前の言葉として、他の人間に伝えればいい」
キースはエルファンドを驚いたように見上げた。
「僕の言葉?」
「そうだ。キースの言葉だ。一々他人の前で区別するから、キースと赤と青が離れてしまう。そして、飼っていない私達には理解を越えてしまうんだ。そうやって区別をすればするほど、否定しやすくなる。だったら、否定しにくくすればいい。赤と青の事はキースだけが知っていればいい。他人にわざわざ教える必要はない。分かったか?」
キースはエルファンドの言葉を、朧気ながら理解出来た気がした。
「なんとなく……」
「で。それを踏まえて聞くが、ミルーナがどうしたんだ?」
キースは驚いたようにエルファンドを見上げた。エルファンドは黙って口の端を上げる。
キースはしばらく考え、エルファンドを見上げた。
「昨日のミルーナさんと今日のミルーナが違うように感じるんです。今日のミルーナさん、別の人みたいです」
エルファンドは頷き、キースの頭を撫でた。
「よく出来ました。私の直感は外れなかったようだな」
キースはエルファンドを見上げた。
「え」
エルファンドの眉間に皺がよっていた。
「キース、いいか。尻尾を出すまで騙された振りをしてるんだ」
キースはエルファンドの小声に唾を飲み、頷いた。
「で。赤と青にしか、お前にしか出来ない事がある」
「ぼっ、僕にしか出来ない事?」
エルファンドは頷いた。
「あのミルーナと手を繋いで、どう違うか探ってこい」
キースは唾を飲み込んだ。
「ぼ、僕が?」
「そうだ。私はお前を信じている。赤と青は、お前しかない力だ。キースが赤と青を信じなくてどうする。赤と青は昨日の私と今日の私が、同じだって分かっているんだろ?」
キースは自分の掌を見つめた。エルファンドもガイルも同じだった。ミルーナだけが違っていた。一瞬だけしか触れられていないのに、違うのがはっきり分かった。
キースはエルファンドに頷いた。
「やってみます。で、どうしたらいいんですか?」
「声掛けるまで、手を繋いでいるんだ」
キースは頷いて、ミルーナに走りよった。
「ミルーナさんっ!」
ミルーナとガイルは振り返り、キースを見た。
「なんだよ、エルファンドさんと一緒にいろよ」
ガイルは明らかに不服そうな顔をした。
キースは首をわざと捻り、ミルーナの手を握る。
「なんで? 僕はずーっとミルーナさんと手を繋いで歩いてきたんだよ」
ガイルはキースから顔を逸らした。だが、ミルーナの隣りから離れようとはしなかった。
ミルーナはキースに微笑む。
「男のあいつよりあたしの方がいいのね。キースもなんだかんだ言って男の子ね」
キースはミルーナを見つめ、微笑み返した。
「うん、僕は男だよ。ミルーナさん、昨日の話の続きして」
ミルーナはキースを見つめ、首を捻る。
「昨日の話の続き?」
「ああ。帝王領直轄区の感謝祭の話か」
ガイルは両手を頭後ろに組ながら、周りを見渡していた。
キースはミルーナを見つめている。ミルーナはキースに微笑み返した。
「ああ、感謝祭ね。どこまで話たっけ、キースは覚えてる?」
「リンジェの舞いの話まで」
ミルーナはしばらくキースの瞳を見つめていたが、帝王領直轄区で春秋に行われる感謝祭の話し出した。
時折、ミルーナはキースとガイルを見つめ、微笑む。
ガイルは楽しそうに笑い返すが、キースはミルーナをただ見つめ返すだけだった。キースはこのミルーナの話がつまらない。昨日のミルーナの話とどこか噛み合わない。昨日のミルーナの話は、キースもワクワクしながら聞いていた。本当に面白かった。
「ガイル。ミルーナさんの話、面白い?」
「は? 面白いだろ? 何言ってんだ、キース」
ガイルは首を傾げている。ミルーナはキースを見つめた。キースはミルーナを見て、苦笑いを返した。
「ごめんなさい、ミルーナさん。昨日の話の方が面白かったから」
ミルーナはキースに軽く首を振り微笑んだ。
「いいのよ、気にしてないわ」
キースの背筋がゾワッと粟立った。赤と青が激しい蠢いている。時に大波のような姿にもなる。ミルーナがキースの瞳を見て、微笑む度にキースの背中が粟立つのだ。
ミルーナの眉間に一瞬、皺がよった。
キースは慌ててミルーナに微笑み返す。
「ミルーナさんは‥えーっと、何が好きですか?」
ミルーナはキースを見て、微笑んだ。
「何って?」
「えーっと、好きな動物はなんですか?」
ミルーナは森に目を向けた。
「好きな動物ねえ」
「俺は獅子が好きだな」
ガイルはミルーナに微笑んだ。
「獅子ねえ。キースは何が好きなの?」
キースはミルーナを見つめた。ミルーナは首を傾げる。
「どうしたの?」
キースは首を振り、ミルーナに微笑んだ。
「――僕は、豹が好きです」
「豹か……」
ミルーナは再び森を見渡した。
キースは心臓がドキドキし過ぎて、おかしくなりそうだった。やっぱりこの人はミルーナさんじゃない。キースは改めて確信した。
「ところでキース。あいつと何、コソコソ話してたの?」
「え? えーっと、なんでみんなが怒っていたのか、訳を聞いてました」
ミルーナはキースを見た。
「あいつ、あんまり信用しない方がいいよ」
ミルーナの言葉にガイルも頷いている。
キースは口をヘの字に曲げた。
「なんでですか」
「昨日といい、一昨日といい、夜中にコソコソ出かけてたのよ。怪しいと思わない?」
キースはミルーナを睨み返した。
「ミルーナさんだって、昨日、夜中に出かけて、アルスルーン様に怒られたんじゃないんですか?」
ガイルはキースを睨んだ。
「ミルーナはこの先に野盗が出るって情報を掴んで、俺達の為にいろいろ聞きに回ったんだぞ」
「アルスルーン様だって、同じはずだよ」
ミルーナは二人に苦笑いを浮かべた。
「まあまあ、言い合いしないの。とにかく…… 待って、キース、アルスルーンって言ったわよね」
ミルーナは慌てたようにキースを見た。
キースはミルーナに頷く。
「ミルーナさんは幼馴染みだから、知ってるでしょ?」
キースは言葉を選びながら、ミルーナを見つめた。
ミルーナの眉間に皺が寄る。
「キース! ちょっとこいっ!」
エルファンドの声が後ろから飛んできた。
キースはミルーナの手を離そうとしたが、ミルーナの手に力が入る。
「行っちゃダメ」
「なんで?」
「だから、あいつは怪しいって言ってるでしょ? あたしの言う事が聞けないの?」
「ミルーナさん。ミルーナさんの幼馴染みは一人じゃないんですよ」
ミルーナの手の力が一瞬弛んだ。キースはその隙に手を振り払い、エルファンドの元に走った。
急いで戻るあまり、キースの足がもつれ小石に蹴躓いた。その腕をエルファンドが掴む。
「大丈夫か」
キースはエルファンドの腕に掴まった瞬間、体が震え出した。
「キース」
キースの額から油汗が吹き出す。エルファンドは驚いたようにキースの額に手を宛てた。
「ね、熱はないです。すごく怖かった」
「良く頑張った」
エルファンドはキースを抱き上げ、背中に回した。
「エルファンドさん、キースどうしたの!」
ガイルが慌てたように走ってきた。
「軽い捻挫だ」
ガイルはエルファンドの横から顔を覗かせるキースに苦笑いを浮かべた。
「ドジ」
「歩き疲れてちょっとコケただけだよ!」
エルファンドはガイルを見て、眉間に皺を寄せた。
「ガイルは術、得意じゃなかったな」
ガイルはエルファンドを見上げ、頷いた。
「得意じゃないよ。でも、エルファンドさんに言われる事じゃない」
「そうか」
エルファンドはガイルの口調の中に、自分に対する敵対心を見付けた。好敵手に対する気持ちとは明らかに違う。
ガイルはキースを見上げた。
「ミルーナが言った事忘れるなよ」
ガイルは踵を返して、ミルーナの元に走っていく。
エルファンドは小声でキースに話しかけた。
「なんて言われた?」
「アルスルーン様は怪しいって…… アルスルーン様。あの人、絶対にミルーナさんじゃない」
「そうだな。で。どう違っていた?」
キースは考えを感じた事を、赤と青の動きを頭の中で整理した。
「――あの人が僕に笑うと背中がゾワッとするんです。昨日の話の続きを聞いても全然面白くなかった。話が合わないんです。昨日、感謝祭の話をしてくれたんですが、あの人は感謝祭を見た事ない感じでした。僕の好きな動物も知らない。本当のミルーナさんは僕が豹が好きなのを知ってます。あと、僕を坊やって呼ばない。アルスルーン様の名前も知らない」
エルファンドはキースの能力に口笛を鳴らしそうになった。キースは探るだけではなく自らミルーナに鎌掛けをした。鎌掛けは成代りに対する常套手段だ。あのミルーナは子供を舐めてかかっている証拠だ。本物のミルーナは茶化したりはするが、舐めたりはしない。
「上出来だ、キース」
キースは嬉しそうに微笑んだ。
エルファンドはミルーナと話すガイルを見つめた。
「まずはガイルを助けなきゃな」
キースはミルーナと話すガイルを見た。
「助ける?」
「そうだ。ガイルは魅了術に掛かってる。元々惚れてたから、さらに掛かりやすかったんだろう。キースのゾワッという感覚は、それに抵抗した証だ」
キースはガイルを見つめた。
「ガイル…… ミルーナさんは? 本物のミルーナさんは?」
エルファンドは眉間に皺を寄せた。頭に最悪な予想が立つ。最悪、ミルーナはもうこの世に存在していないかもしれない。だが、もし、自分が小剣を狙う人間だったら、人質として生かしておくだろう。それにあの手の成代りは本物が生きていないと成代れない術だ。化けの皮が剥れるまでは生かしておくだろう。
キースは黙ったままのエルファンドの横顔を見つめた。
「アルスルーン様…… ミルーナさんは……」
「確証はないが、たぶん大丈夫だ。あいつらに掴まってる。こんな手の込んだ事をしてくるって事は、お前達が背負う小剣目的で間違いないだろう。キース、小剣を見てどう思った。小剣を思い浮かべてどう思う?」
キースは目を閉じ、小剣を思い浮かべてみる。赤と青が動き出した。
「すごくキラキラして豪華でした…… お父さんもヴァコバさんも儀式用って言ったけど…… 違う。僕はあの小剣は術用‥高位術用の小剣だと思います。あれがないと、きっと出来ない術があるんだと思います」
エルファンドは背中のキースに頷いた。
「それだったらあの帯封印が納得出来る。キース、分かってきたじゃないか」
キースは嬉しそうにエルファンドの横顔を見た。
「はい。もう赤と青は怖くないです」
「さて。どうガイルを引き剥がすかだな」
突然、ミルーナがガイルの手を引いて走り出した。
ガイルはキースを心配げに振り返り、それでもミルーナと一緒に走り出す。
「ガイル! キース、しっかり掴まってろ!」
エルファンドは舌打ちをし、ミルーナの後を追い掛けた。