第四章
キースとガイルの前にますます熊に近くなったクーイットが座っていた。
「これを届けて欲しい」
ミルーナはクーイットにカップを差し出し、テーブルから離れていく。
クーイットはカップを口にし、安堵の息を吐く。
キースとガイルはテーブルの上に置かれた荘厳な小剣をただただ見つめていた。煌びやかだけでなく、子供の二人にさえ分るほど、格が高い。
柄は金銀で紋様が施され、柄頭には白金の龍爪が球体の紫色の珠を掴んでいる。飾り鍔は剣身へと少し反り、五本の金銀縄で編まれ、先に向かって細くなり、先端はクルッと丸くなって柄元に反っていた。五本の金銀縄には細かい紋様が刻まれている。
キースとガイルは生唾を飲み込んだ。
キースは柄と鍔の紋様があの柄身に刻まれていた文字と同じ事に気が付いた。
「あの…… ヴァコバさんがこれを刻んだのですか?」
クーイットはキースに片眉を上げた。
「違う。この小剣は打ち直しに出された物だ。俺は解体し、刀身はお前の親父さんミゼルナさんに依頼された。俺は磨き直しただけだ」
「依頼主はお父さんを指定してきたんですか?」
クーイットはキースの言葉に頷いた。
「そうだ。たまにこういう小剣の依頼が舞い込んでくるから面白い。まあ、そう頻繁にあっても困るんだがな」
キースは胸に両手を重ねた。赤と青が大きく跳ね上がっている。それに釣られ胸が激しくドキドキしていた。
「どうした、キース」
ガイルが心配そうにキースを見た。
キースは首を振り、クーイットを見る。
「大丈夫だよ、ガイル。ヴァコバさん、この小剣はどこのどなたに届ければいいんですか?」
「届け先は帝王領直轄区四ツ橋三本木のパルマイル旅宿の五〇一号室。アバン・ヘルム」
キースとガイルは黙って生唾を飲み込んだ。
クーイットは小剣を丁寧に高そうな布で二重に包んだ。
「ミルーナ」
ミルーナは小振りの頭陀袋を二つ、テーブルの上に用意した。
「当座の旅費と駄賃。あと、旅に必要な物を入れてある。確認しろ」
二人は頭陀袋を開け、中身を取り出していく。旅費と駄賃が入った巾着に、小刀に大中小のカップが三つ、フォークにスプーン、動物の革で出来た水筒、替えの服が二枚、予備のサンダルが一足。
ガイルはもう一つ巾着を覗き込み、顔をしかめた。
「うえ。これなんか臭い」
「鎮痛薬、解熱薬、下痢止め、消毒液、傷薬、冷湿布に温湿布、当布に包帯だ」
キースはクーイットの言葉通りにテーブルに並べる。袋の中に一つ残った木の筒があった。
「ヴァコバさん、これは?」
クーイットはキースの掌を見て、頭を掻いた。
「ああ、それは痒み止め」
キースは頷き、巾着に常備薬をしまっていく。
「本当に行かなきゃダメなんですよね」
「ここまできて、まだそんな事言うのかよ」
ガイルはキースを呆れたように見つめた。
クーイットとミルーナは黙ってキースを見つめる。
キースは三つのカップを手に持ち、それをしばらく見つめていた。
「――行かなきゃいけないのも、ここで嫌だって言えないのも、分かってるよ。意気地無しなんだと思う、弱虫なんだと思う。でも…… 赤と青が怖いの。すごい怖いんだよ」
ガイルは泣きそうなキースを見た。
「なんで?」
キースは真剣な眼差しでクーイットを見た。
「ヴァコバさん。小剣が完成したのは、今日の午前中ですよね」
クーイットは口元にカップを止め、キースを黙って見つめ返した。
「坊や、午前中って言ったら、あたしらは朝飯食べた後、水路公園に行ってたじゃない」
キースはミルーナの言葉に頷き、クーイットを再び見つめた。
「午前中ですよね?」
「なぜ分る」
キースは目の前にある包みに視線を落とした。
「僕の中に赤と青がいるんです。赤と青が僕の中に現れたのは、剣身を見た瞬間でした。で、今日の午前中、赤と青がいきなり炎のようになったんです。一瞬でしたが、ボワッて燃え上がるようになったんです」
ミルーナは首を捻った。
「なに、その赤と青って?」
キースはミルーナに苦笑いを浮かべた。
「僕にも分かりません」
「なるほどな」
クーイットが頷いた。
三人はクーイットを驚いたように見た。
「ヴァコバさんは分かるのか?」
「分るとか分からないとかの問題じゃない。キースの中にその赤と青とやらがいて、そいつらが小剣の完成を感じとった。ただ、それが理解出来ただけだ。赤と青を他人が知ろうとしたって、分かりゃしない。キースの中だからな」
ガイルはクーイットの言葉に首を捻った。
「ヴァコバさんの言葉、難しいよ」
「えーっと、坊やが完全に理解出来たとしても、坊やと同じようには、あたしらは理解出来ないって事かしら」
「そうだ。理解出来ないが、居ると認めてやる事は出来る」
キースはクーイットを見つめた。
「居る……」
「そうだ、キース。お前の中に赤と青が居る。だから、小剣の完成時期も分かった。ただ、それだけだ。赤と青を否定するな」
キースは両手を胸に重ねた。キースの中で赤と青がまた炎のようになる。ただ、それは嬉しそうに舞うような感じに思えた。
「僕の中に赤と青が居る」
キースがそう呟くと、赤と青が嬉しそうにクルクルと回る感じがした。
「ヴァコバさん、ありがとう。少し赤と青が怖くなくなった。赤と青はなんだか分からないけど、僕の一部なんですよね」
クーイットは苦笑いを浮かべた。
「多分な。だがな、キース。その赤と青の話は簡単にベラベラと他の奴にするな。要らぬ中傷を受けるぞ」
キースはクーイットの言葉に真剣に頷いた。
「分りました」
クーイットはキースに頷き返し、立ち上がった。
「小剣の準備をした後、出かけてくる。ミルーナ、明日の朝に出発してくれ。頼んだぞ」
ミルーナはクーイットを黙って見つめた。
クーイットはミルーナから視線を外し、足早に部屋を出て行った。
キースは首を傾げ、ガイルを見ると、ガイルはミルーナを見つめている。ガイルの眉間には少し皺が寄っていた。キースはますます首を捻った。
「ミルーナさん。ヴァコバさんはどこに行ったの?」
ミルーナは慌てたようにキースとガイルを見て、微笑んだ。
「ん? 歓楽街よ。坊やにはまだまだ用がないところ。さあ、今、お風呂沸かして上げるからね」
ミルーナはもう一度微笑み、部屋を出て行った。
お風呂上がりのキース達が借りている部屋に入ると、それぞれのベッドの脇に木箱が二つ用意されていた。
「木箱が二つ?」
二人は顔を見合わせ、それぞれの木箱を開けてみた。中には光沢のある紫色の布で包まれた物があった。御丁寧にしっかり帯封印がされてあり、二人は再び顔を見合わせた。
「同じ物?」
ガイルは木箱を閉じ、交互に重さを比べてみた。
「お前の箱の方が少し軽い。ってことは、分担して運べって事かな。俺が三竿、お前が二竿」
キースも持ち比べ、確かにキースのベッド側に置いてあった木箱の方が軽かった。
「多分。ところでなんであの時、ミルーナさん睨んでたの?」
キースは頭を拭きながらガイルを見た。
ガイルは服を脱ぎながら、首を捻った。
「は? 誰がいつあの人を睨んだよ」
「ヴァコバさんが部屋を出た時、ガイル、ミルーナさんを睨んでたよ」
ガイルはキースを見て肩を竦ませ、ベッドに潜り込んだ。
「ランプの灯が眩しかっただけだ」
「そうなんだ。でもさ、ミルーナさん、なんで、あの時寂しそうな笑顔だったんだろう」
キースはベッドサイドにランプを持ってきて、服を脱ぎ、ベッドに潜り込んだ。
「んなの、あの人じゃないから分かんねえよ」
「そうだけどさ」
キースはそう言いながら、本を開いた。
ガイルは起き上がり、キースの手元を覗き込む。
「随分読んだな」
「うん。すっごい面白い。今使用されている術は、七系統に分ける事が出来るんだって」
「七系統?」
「うん。僕らが住んでいるプロトメイト・リヴ自体には、独自の術系統がないんだって。で、ギャラル・リヴ、ザーリング・リヴ、レグラスマッド・リヴ、グランフィル・リヴ、神界、神世界、魔界の七系統が大元で、プロトで使われているのは、ギャラル・リヴとレグラスマッド・リヴの二系統が合わさった術種がほとんどなんだって」
「えーっと、ダークとマコウの合わせ術って事か」
キースは首を捻った。
「ダーク? マコウ?」
「お前知らないの? ダークはギャラル・リヴ、マコウはレグラスマッド・リヴの事だよ。ちなみにザーリング・リヴはヤミ、グランフィル・リヴはアンメイって呼ぶんだよ。今時、他の国を正式名称で呼ばねぇって」
キースは本に描いてあるプロトメイト・リヴ周辺地図を見た。
「そうなんだ。ギャラル・リヴがダーク、レグラスマッド・リヴがマコウ、ザーリング・リヴがヤミ、グランフィル・リヴがアンメイ」
キースが略式名称を口にする度に、赤と青がグルグルと回り始める。
キースの眉間に皺が寄った。
「ガイル、なんか意味があるみたい」
「は? 意味って、なんの意味?」
「そのダークとかマコウとかって、意味があるみたい。ダークとかマコウって口にすると、赤と青がグルグル回ってる」
ガイルはキースを見た。
「どんな意味があるんだ?」
「分かんない。でもなんかあるんだよ、赤と青が反応するから」
ガイルはキースの横顔を見た。赤と青がキースの中に現れてから、少しづつ、キースに違和感を覚え始めていた。違和感がなんなのか分からない。少しづつキースが自分が良く知っているキースじゃなくなっていく。そんなモヤモヤが胸の奥にあった。
「キース。明日からいっぱい歩くんだから、早く寝ろよ」
ガイルはそう言ってベッドに潜り込んだ。だが、キースからの返事はなかった。
ガイルはランプが造り出す自分の影をしばらく見つめていた。明日から帝王領直轄区に向けての旅が始まる緊張感と興奮、キースに対するモヤモヤで、自分も寝付けずにいた。
本の捲る音がする。
ランプの炎がチリチリと燃える音と、ページを捲る音だけが、部屋を支配していた。
戸の開く音がする。
「寝なさい」
ガイルは戸を見ると、ミルーナが戸から顔を覗かせていた。ガイルは起き上がり、ミルーナに口の端を下げる。
「寝れない」
ミルーナはガイルとキースを見て、肩を竦ませる。
「気が逸って寝れないのね。ガイルもまだまだお子ちゃまなわけだ」
「元服してないしな」
ガイルは悔しそうに唇を噛み締めた。
ミルーナはガイルの頭を撫で、本に夢中のキースを見た。
「あたしに気が付かないのね」
「本を真剣に読み出すと、いつもああ」
「そうなんだ。いま、ヤクの乳温めてあげる。それ飲んで寝ちゃいなさい」
ミルーナはガイルの頭をもう一度撫で、戸に消えていった。
ガイルは撫でられた箇所に手を置いて、口の端を思いっきり下げた。
ミルーナがヤクの乳を持ってくると、二人はすでに寝息を立てていた。
ミルーナは小さなテーブルにカップを置き、ガイルの掛布を直し、キースの掛布も直し、ランプを手にとった。
キースの手元にある開きぱなしの本に栞を挟み、ミルーナは表紙を見る。
ミルーナはキースを悲しげに見つめた。
「坊やも興味があるんだ」
ミルーナはキースの髪を撫で、ランプとカップを手に、戸を閉める。
「寝たか」
ミルーナは髭のないクーイットを見上げ、視線を外した。
「ヤクの乳を温めてる最中に寝たみたいよ。じゃあ、あたしは帰るから。明日の朝、迎えに来る」
クーイットはミルーナの背中を見つめた。
「似てるな」
ミルーナは立ち止まる。
クーイットは軽く首を振った。
「あれはお前のせいじゃない。誰のせいでもない。あれは事故だ」
「クーイット、知ってた? 坊や『術 ―系統と種類 理論と実践―』を今読んでるのよ。いやでも思い出すよ。あの子に上げたのはあたしだもん。じゃあ、明日迎えにくる」
クーイットは階段を下りて行くミルーナの姿を黙って悲しげに見送った。