第一章
子供達が足を小川につけ、足元を逃げ惑う魚を歓声を上げて追い掛けている。
「ほら、アチャル、逃がすなよ!」
その中の年長と思われる健康的に日焼けした少年が、歓声を上げ、小川に手を突っ込む小さな女の子に微笑んだ。
その少女は両手にしっかりと魚を掴み、得意げに彼に笑い掛ける。
「とれたぁ!」
「えらい、えらい、アチャル。逃げられないうちに魚籠に入れとけ」
彼は小川に浸っている魚籠を指差し、アチャルに微笑んだ。アチャルは魚籠に魚を入れ、他の子達と共に、また、魚を追い始めた。
彼は子供達に笑みを浮かべ小川を上がり、木陰にいる同い年くらいの少年を見た。
木陰の少年は手元の古ぼけた冊子を、真剣に読んでいる。彼は肩を竦ませた。
「キース、またイルルじいさんから本借りたのか?」
木陰の少年、キース・ミゼルナがその声で顔を上げ、小川から上がってきた浅葱色の残バラ頭を後ろ手に結った少年に微笑んだ。
「ガイル、これはイルルさんから借りた本じゃないよ。ウチの物置にあったんだ」
小川の少年、ガイル・ゼベッツはその本を覗き込み、肩を竦ませた。
「――何が面白いんだ?」
キースは色白の頬を薄桃色に染めて、ガイルを見上げる。
「この本はね、鍛冶の神話が書いてあるんだ。いろんな話が載っててすごい面白いんだよ。今読んでた神話はね――」
キースは本をめくりながら、興奮気味に内容をガイルに話し出した。
ガイルはキースの横に寝そべり、適当に相槌を打つ。本の話になると、キースの口は止まらない。ガイルはいつも話半分に聞いていた。
ガイルにとって本の中の話よりも、キースの兄達が里帰りをしてきた時に話す、帝王宮殿城下の話やそこにいる戦士達の話の方が数倍面白い。そして、いつか自分も、と、夢を膨らませる方が楽しかった。
「ガイル、また、上の空だ」
ガイルはキースの膨れっ面に肩を竦ませた。
「だってよ。そんな本の話よりバース兄貴達の話の方が楽しいし。寺子屋で字なんか習うより道場で剣習う方が楽しい」
キースは苦笑いを浮かべた。
「バース兄さんが言ってたよ。帝国戦士になりたかったら、読み書きも出来なきゃダメなんだって」
ガイルは口を尖らせた。
「うんなの、分かってるよ。だから、イヤだけど寺子屋通ってるじゃないか」
キースは閉じた本に視線を落とし、寂しげに微笑んだ。
「いいよな、ガイルは」
「何が」
「ちゃんとやりたい事があってさ。僕達、数えで後三年したら元服でしょ。僕にはやりたい事がまだ分からない…… 鍛冶屋の仕事はハース兄さんが継ぐんだろうし、バース兄さん達みたいに、剣が巧い訳でもないし……」
ガイルは腕を組んだ。
「うーん…… キースは本が好きなんだろ? 寺子屋とかで教えたりすればいいんじゃね?」
「たしかに本は好きだけど……」
キースは本の表紙を見つめた。
「読むのが好きなだけだし…… 寺子屋の先生はまた違うと思うんだよね」
「ふうん。良く分かんねえや。でもよ、チャキ先生が言ってただろ、キースはちゃんとしたところで勉強した方がいいって。それじゃあ、ダメなのか?」
キースはガイルの疑問をしばらく考え、首を振った。
「分からない。ちゃんとしたところって帝王宮殿城下とかの事なのかな。兄さん達に聞いたら、大笑いされたんだ」
「大笑い?」
「うん。お前を帝王宮殿城下で勉強させられる金は、ウチをひっくり返したってない。それに金と時間の無駄だって」
キースは小川を見た。
「僕だって帝王宮殿城下に行ってみたいよ。兄さん達の話を聞いててワクワクするし、ドキドキする。でもガイルや兄さん達みたいに剣は全然巧くならないし……」
ガイルは目を少し見開いて、キースを見つめた。
「お前もドキドキすんだ」
「そりゃするよ。なんだっけ、ほら、武道会だっけ? あれの話とか聞くとワクワクする。でも、その後、すぐつまんなくなるけど」
「なんでだ?」
キースは口を尖らせた。
「だって兄さん達は、戦士ばっかりの話しかしないから。術士の話を僕は聞きたいのに」
「へえ。キースは術士なんかに興味あるんだ。じゃあ、術習えばいいんじゃね?」
ガイルの当然のような言葉に、キースは驚いた。
「は? ガイル、術ってね、剣術なんかよりさらに才能と素質がなきゃダメなんだよ。僕ん家は鍛冶屋だよ。兄さん達を見れば分かるでしょ?」
ガイルはバース達、キースの兄達を思い浮かべた。ハースを抜かしたキースの兄達は皆戦士になっている。
「たしかにキースん家は術っていうより剣だよな。でもお前、寺子屋で習う術は簡単に覚えちゃったじゃないか」
「寺子屋で習う術は生活術の応用だよ。帝国術士はもっとすごい術を使うんだよ」
「すごい術?」
キースは大きく頷いた。
「そう。見た事ないけどさ。帝国術士の中でもすごい人だと、術陣を書かなくても炎や風なんかを操って敵を倒しちゃう人もいるんだって」
ガイルは肩を竦ませた。
「武道会じゃ術士って良くて三回戦までだろ。ウソくせえ」
キースは口を尖らせた。
「ウソじゃないよ。バース兄さんが言ってたんだから。武道会に出る術士は帝国術士じゃないんだって。帝国術士は武道会に出るのを禁じられてるんだって」
「なんでだ?」
「そんなの僕だって知らないよ。だから、いつも途中からつまんなくなるの」
キースは小川の子供達を見た。
「――才能と素質があるんだったら、僕だって術士になりたいよ。でも、ウチの家系からしたら、まず、無理だろうし」
ガイルはキースの横顔を黙って見つめた。
キースの紫苑色の瞳が、白藍色の空を見つめている。
キースはよく女の子に間違えられる。色白の肌に琥珀色の直毛を肩で切り揃えている所為かもしれない。体の造りもガイルに比べるとかなり華奢だった。
性格もガイルとは全く正反対で、戦士ごっこや木登り、度胸試しなど、ガイルや近所の男の子がやるような遊びは、ほとんどしない。ガイルはどちらかといえば、率先して遊びも悪戯もやるタイプだ。こうやってガイルが妹や弟達の面倒を見ている時も、その輪に交ざる事はまれだった。
だが、なぜかガイルとは馬が合うようで、ガイルがキースの家やいつもいる場所に顔を出し誘えば大抵は断らない。ガイルにはそこが不思議でたまらなかった。
「――なあ、キース。俺と遊んでて楽しいのか?」
キースは驚いたようにガイルを見た。
「え? 楽しいよ。あ、ガイルは僕といるの楽しくないんだね」
「んなこと、言ってないだろ。つまんないなら誘っても悪いかなと思っただけだ」
キースはガイルに笑い掛けた。
「用事がある時とか、僕はちゃんと断ってるでしょ。ガイルといるとね、いろいろ楽しいよ」
ガイルは鼻頭を掻いた。
「そう? 俺も楽しいかな。キースは俺の知らない事、知ってたりするし」
「僕だって同じだよ。お互い様ってやつだね」
「キース! どこに居んのっ!」
キースとガイルはその声に振り返り、土手を歩いてくる女性に微笑んだ。
「ウーイ姉さんだ」
ガイルの妹弟達はすでに小川から上がり、土手を子犬のように駆け上がっていた。
「ウーイ姉々っ! 見て見てお魚いっぱいとれたの!」
アチャルはウーイの手を引き、小川のほとりまで連れていく。
「ほら、お魚いっぱいっ!」
ウーイは魚籠を覗き込み、アチャルの頭を撫でた。
「本当だ、いっぱい捕れたね。ところでキース知らない?」
「ウーイ姉さん」
ガイルとキースがウーイに近付いていく。
「ああ良かった、見付かって。キース。父さんと母さんが呼んでるわ。ガイルも一緒に行って」
キースとガイルは顔を見合わせた。
「お前、なんか怒られるような事したのか?」
「してないよ。姉さん、お父さんもお母さんも怒ってるの?」
ウーイは首を傾げた。
「怒ってはなかったなあ。どちらかと言ったら、真剣な顔だったわよ。ほら、早く行って。アチャル達は私が連れて帰るから」
ウーイの言葉に弾かれるように、キースとガイルは走り出した。
ウーイはキースの背中を見て、アチャル達に微笑んだ。
「さあ、お魚捕りはお終い。次は、お家に帰ってお魚干そう!」
アチャル達の元気がいい声が霞んだ春の空元に響いた。
キースが家に着くと、居間のテーブルに父親、ダンが座っていた。
「お父さん、話って?」
「取りあえず、座れ。ガイルもだ」
ガイルは自分を指差した。
「俺も?」
台所からキースの母親、ロッシーが手を拭きながら現れる。
「そうよ。お前さんにも話があるの」
キースとガイルは再び顔を見合わせ、少し体を堅くしながら、椅子に腰を下ろした。
キースはダンを恐る恐る上目遣いで見た。
「お父さん、話ってなに?」
ダンはテーブルの上に布に包まれた四十センチくらい長さのある包みを置き、キースとガイルを見つめる。
「お前に頼みがある。これをウナルバ郷クィナ庄のヴァコバ装飾鍛冶に届けて欲しい」
ダンはそう言って布を開いた。中には小剣の剣身が五身あった。
キースはその剣身を見て、首を傾げた。
「お父さんが新しく造ったの?」
「いや。打ち直しをしただけだが、かなり時間をくった」
キースは小剣をしばらく見つめ、ダンに顔を上げた。
「お父さん、これ、普通の小剣じゃないよね」
ダンは少し目を見開いて、キースを見つめた。
「ほう。お前でも分かるのか。これは儀式用の剣身だ。儀式用の剣身はなかなか厄介だからな」
ガイルはその剣身を食い入るように見つめ違いを探したが、よく分からなかった。
「俺には普通の小剣に見えるんだけど」
「僕もよく分からないんだけど、柄に入る所にね、なんか変な文字が刻まれてるから。普通の小剣じゃないなって思ったの」
ガイルは柄の芯を見て、ますます首を傾げた。
「なんだ? 全然読めねえ。なんの文字だ?」
「分かんないよ。でも、お父さん、ウナルバ郷は遠いよ」
ダンは布で剣身を包み直した。
「遠いと言っても隣りの郷だ。本来なら俺が行くべきところなんだが、依頼が立て込んでてな。行ける人間はお前しかいない。だが、お前一人じゃ心許無いから、ガイルも一緒に行って欲しいんだ」
ガイルは再び自分を指差した。
「俺も?」
ロッシーが頷いた。
「そうよ。ニルハとショナには言ってあるから。今から発てば、夕方には向こうに着くはずだから、さっさと支度しておいで」
ガイルは椅子から転げ落ちるように、キースの家を飛び出した。
キースはダンとロッシーを見て、不安げに目尻を下げる。
「お父さん、お母さん、どうしても僕が行かなきゃダメなの?」
ロッシーは両手を腰に当て、顔を突き出した。
「父さんの話、聞いてなかったのかい? いいかい、キース。父さんとハースは仕事が立て込んでて、手が全く離せないんだよ。バース達は帝王宮殿城下だし、残る男はお前しかいないんだよ」
キースは首を竦ませた。
「そうだけど……」
「クーイットには俺から手紙を書くし、クーイットの所に今晩は泊めてもらえばいい。頼んだぞ」
ダンはそう言って立ち上がり、家を出て行った。
キースはテーブルの上にある布で巻いてある五身の剣身を見つめた。
キースが支度を終えると、ガイルが楽しげにキースがいる部屋に入ってきた。
「キース、支度終わったか!」
「今、終わったところ……」
キースはガイルの顔を見て、口を尖らせた。
「ガイルは楽しそうだね」
「おうよ! 郷から出るなんて初めてだからな! ウナルバ郷ってどんなところなのかなあ。ウナルバ郷を越えたら帝王領だろ? ここより絶対に都会だぜ。なんてたってりここの領主の城下庄だしな」
「僕は行きたくない」
ガイルはキースのむくれ顔を見た。
「なんで?」
「だって、ガイルと一緒とはいえ、大人が誰も付いてこないんだよ。なんかあったらどうすんだよ」
ガイルは肩を竦ませた。
「何があるんだよ。父さんに聞いたら、ウナルバ郷まで全然危なくないって言ってたし、この辺とあんま変わんないって言ってたよ。何がそんなに心配なんだ?」
キースはますます口を尖らせた。
「全く知らない所に行くのって怖いじゃないか」
ガイルは笑い出した。
「キースは意気地なしだなあ。大丈夫だって。なんかあったら、逃げりゃいいだろ。それに俺らみたいなガキを襲う馬鹿はいないって」
「でも、もし、お届け物を取られちゃったりしたら……」
ガイルはキースの背中を叩き、部屋を出た。
「取られたりしないって。ほれ、行くぞ」
キースは溜め息と共に部屋を出た。
玄関先には、ガイルの両親とキースの家族が立って待っていた。
ガイルの父親、ショナがガイルに剣帯と剣を差し出した。
「用心に越したことはない。腰に佩しておけ」
ガイルは嬉しそうに剣帯を受取り、腰に巻き付けた。そして、剣帯の金具を鞘元の金具に繋ぐ。
「こうして見るとガイルもいっちょ前に見えるな」
キースの一番上の兄、ハースがガイルに微笑んだ。
「なんだよ、ハース兄貴。俺らの中じゃ一番俺が腕いいんだぜ」
ガイルは口を尖らせた。
「お前らの中で一番腕が立つんだろうが、ヤバいと思ったら即座にキースを連れて逃げるんだぞ」
ショナがガイルの頭を撫でる。
「分かってるよ」
「キース」
ダンが剣を背負わせる。
「この剣は俺が七才の時に親父からもらった剣だ。華奢なお前には丁度いいだろ。柄を握ってみろ」
キースは腕を上げ柄を握ってみる。ダンは肩掛剣帯を調節した。
「こんなもんか。ガイルもキースもよく聞け。お前達が持ったのは丸剣じゃなくキチンと刃の付いた真剣だ。剣に頼るな。剣を抜くのは最後の最後だ。いいな」
ガイルとキースは頷いた。
ロッシーが二人に腰に巻けるような包みと腰袋を渡した。
「お昼とおやつと、お小遣いだよ。明日の食費も入ってるから、考えて使うんだよ」
ガイルとキースは腰袋を覗き込み、小遣いの多さに嬉しそうに頷いた。
「うん」
「キースの包みには、ヴァコバさんへの手紙も入ってるからね。ヴァコバさんとこに着いたら、それを渡すんだよ」
キースは包みを触り、頷いた。
「うん、分かった」
ダンがキースに木筒を差し出した。
「木筒を前にして、斜めに掛けろ」
キースは木筒を持ち、ダンを見た。
「お父さん…… このお届け物、狙われたりしないの?」
「それはないな。第一、剣身だけじゃ、なんの役にもたたん。それに治安悪い場所に行くわけじゃない。安心しろ」
キースは少しホッとしたように、首と肩に紐を通した。
「じゃあ、頼んだぞ」
ダンの言葉に二人は頷き、家族達を見た。
「行ってきます」
「道草なんてしないようにね」
ガイルの母親、ニルハはガイルに微笑んだ。
「分かってるよ。じゃあ、行ってきます! キース行くぞっ!」
ガイルは手を振り、キースの軽く叩き走り出した。
キースは慌ててガイルの後を追い、家族達に手を振った。
「行ってきます!」
家族達は二人に手を振り返し、二人の背中が消えるまで見送った。