良いケツしてやがる(剥けない)
北道女子養成学校の敷地内にある岸壁には、艇庫というものがある。ここにはカッターやヨット、ボートなどが収められている。
勿論、これらは『美雪丸』のように授業や訓練で使用されるのだが、それ以外にも放課後などに艇庫から搬出される事もある。
その名の通り、海校は海の学校。すなわち、部活動も当然、海の学校特有のものがある。
ヨット部、カッター部がそれだ。
実はこれらの部活にも全国大会というものがある。地方の大会で勝ち進んで全国大会に進むという目標を、これらの部活も普通に抱いている。
授業で漕げるカッターと違い、ヨットは部活動でしか乗れないので、見慣れない部活動の中ではヨット部が興味を持たれる意味で上位に人気だったりする。
放課後になると、たまにヨットが風に乗って海上を滑る姿が見られるが、今の時期は慣れない新入生がヨットと共に転覆して海に落ちる光景も通例行事として見られる。
そしてその近くで、同じく新入生を乗せたカッター部の艇が浮いていた。
「授業の前に体験しようという君達の熱意、私はしかと受け止めたぞ! という事で、これより君達にカッターの楽しみを教えてやる! 心して聞くように!」
艇尾に立って、生徒たちに暑苦しい声を上げているのは艇指揮の弓削という名の三年生だ。彼女はカッター部の部長である。そしてその傍で舵を握っているのが大島艇長である。
「まず君達の目の前にあるのがカイというオールだ。これで漕ぐ。私の号令に従って、カイを用意するように」
生徒たちは少々緊張気味に艇の上に座り、舷側に生えるように備えられたカイ(オール)を見下ろしている。
その中で、真帆はワクワクしながらカイを手に取っていた。
「両舷、カイ用意!」
カイを固定している櫂座栓を抜き、一、二番は艇の中央に置かれているカイを持ち上げ、かい座にカイをはめる。三から後ろの番全員はブレードを緑板に持ち上げ、一本ずつ艇尾の方にずらし、艇尾から順に各自のローロックにカイをはめた。
「カイは重いぞ。しかも木製だから、漕ぎ始めると水を吸って更に重くなり、初心者には結構な重労働になる。気をつけろよ」
「う~、只でさえ重いのにまた重くなるの~?」
「しっかりしろ、朱璃。これしきで根を上げたら先が思いやられるぞ」
真帆の後ろには両舷に朱璃と海友が並んで座っていた。カイを手にしていた朱璃が早くも根を上げ始めていた。
「両舷、カイ備え」
カイの被巻をローロックの位置まで送り出し、ガンネルと同じ高さに保ちながら水平にする。
「両舷、前用意」
手に取ったカイを前に押し出すように、しかし背中を曲げず、カイの先を艇首に向ける。
「肘は十分に伸ばし、両足はストレッチャー(足掛け)に置く。ブレード(先端の平たい部分)はほとんど水面に接触しそうな位置にしておく。ブレードと水面との角度に気をつけ、目はブレードを見るんだ」
そして次の「前へ」という号令で、カイの先端が初めて水に着く。
「一、二、そーれ!」
前の「用意」の姿勢からグリップを少し上げ、先端の4分の3を水中に入れ、両肘を出来るだけ曲げずに水を直角に掻くように後方へ引く。一、二という号令に合わせるようにこの動作を繰り返し、前へ前へと漕ぎだすのだ。
「よーし。両舷、カイ上げ」
暫く漕いでいると、弓削が号令をかけた。これは漕ぐ動作を中止させる号令であり、艇員たちは「カイ備え」の姿勢に移る。
「カイ停め」
ブレードを水に浸ける。水中に対し直角につけるように沈ませ、艇の行き脚を停める。
「わ、わわっ」
朱璃が危うくカイごと体を海に持ってかれそうになる。あまりカイを水中に沈ませ過ぎると、先端が水中に引っ張られてしまい、カイが自分の方へと巻き込むように持ち上がってしまう。
「おい、大丈夫か朱璃」
「ひ~。落とすかと思った~」
何とか艇が停まってくれたおかげで、朱璃は体勢を戻す事が叶った。下手をすればそのままカイを海に持ってかれてしまう事もあるので注意が必要だった。
「これでもう帰るのかな……。良かった~」
「よーし、もうちょっと向こうに行ってみようか。両舷、カイ用意!」
この号令を聞いた瞬間、朱璃の顔は真っ青になった。
カッター部の体験入部から帰って来た三人は、寮へと戻る帰路についていた。
「う~。お尻が痛いよ~」
「情けないな。そんな事では授業が始まった時に大変だぞ」
「楽しかったねぇ~」
スカートを抑えながらフラフラと歩く朱璃。カッターに乗った初心者が必ず通るのが、お尻の皮が剥ける事。これがまた痛いのである。
しかしそんな朱璃とは裏腹に、言い出しっぺの真帆は実に晴れやかな表情をしていた。しかし一緒にいる海友もまんざらでもないような顔をしていた。
「……うん、あれは私もイイなと思った」
「え~。口之津、カッター部入るの~?」
「さぁな。だが、悪くはないな」
「え~~」
唇を尖らせる朱璃。その瞳には何故か不満げな色が含まれている。
「私はヤダな~」
「私がどこの部活に入ろうが、私の勝手だろう……」
「ヤダったら、ヤダな~」
「変に我儘な奴だな……」
朱璃の駄々っぷりに、海友は呆れるしかない。
「清水さんはどうするんだ?」
「私? う~ん、考えてみようかなぁと思ってる」
「でも、楽しかったんでしょ~?」
「うん。楽しかったよ。でも、他の部活も楽しそうだなって」
生徒の人数が全体的に少ないので、それに比例して部活も普通の学校と比べると少ない。しかも文系より運動系の方が多いのだから、そこはやはり船乗りの学校であった。女子校とは言え、船員を育成するのが目的という点が多分に影響しているのだろう。
「そう言えば、波方さんはどうしたんだ?」
いつも一緒にいるのに、今回だけは汐里の姿がなかった。海友の問いかけに、真帆が答える。
「汐ちゃんは別の部活の見学に行ってるよ。ヨット部に入りたいんだって」
「波方さんはヨット部か。何だか、意外だ……」
「でもヨットも楽しそうだよね」
「え~。そうかな~」
「……朱璃は真っ先にひっくり返りそうだな」
「失礼だけどごもっとも~」
三人の仲が良い笑い声が、夕焼けの道に溶け込んでいた。
帰寮後、後から部屋に帰ってきた汐里が髪を濡らしていた事に、真帆たちが気付いたのはまた別の話である。