NYARLATHOTEP#9
全てが暴かれるその時、この事件も終わりを迎えるだろう。決着へ向けて謎が収拾され、悲劇は正義の心へと火を付けた。
『名状しがたい』注意報――この話は冒頭から文体がけばけばしく、改行が極端に少ない。
登場人物
―ナイアーラトテップ…美しい三本足の神。
―ライアン・ウォーカー/ヴォーヴァドス…神として帰還した守護神。
―ダーク・スター…復讐を生き甲斐にする青年。
―ガス状の悍ましい実体…モンタナの地に封印されていた慄然たる邪悪。
―ガス状の悔悟する実体…上記実体の同族。
―とある悪魔…名状しがたい上位の悪魔。
【名状しがたいゾーン】
到着から数時間後:モンタナ州某所、山中
風は恐怖に嘶き、卑屈な隷属の契約を結んだ莫大な量の物質が一斉に震え始めた――それらはこの星を守護していたものが帰還したため、それに対する背信行為故に己らの愚行を後悔し始めた。そして最後まで守護神らへの忠義を尽くした黒々とした木々は、誇り高く銀色の実体を出迎えたのだ。
「貴様は全てを隷属させたと考えている。森羅万象をな。だがどうだ? 従えているつもりの物質が今も言う事を聞いてくれるのか?」
全身から銀色の靄を放出し、ライアンの貌は絵の具が滲むようにぼんやりとし始め、仔細な部分が人ならざるものへと変化した。変貌した貌に地球人類らしき部分が皆無であるにも関わらず、見るだけで心安らぐその奇妙な貌は、ある種の窮極的な美を備えて不快なガス塊の怪物を睨め付けていた。
「全くだ。貴様は所詮外様の存在、この星を自由に扱うなどできぬ。そうした思い上がりこそが貴様を愚かたらしめる要因であろうよ。さて、若造の下郎よ。貴様は状況がわからぬようであるから私が教えてやろう。かつて我々は太古の戦争における敵同士であり、壮絶な闘争の果てに友となった。我が名はナイアーラトテップ。そして我が友の名は」
かの神はそこで、隣に立つ地球の守護神の方を眺めた。かつて偉大なるドラゴンのクトゥルーらと共に、故郷を喪なったヤクトスの民を侵略戦争へと駆り立てた彼らの万神殿最後の生き残りにして、紛れも無き〈混沌の帝〉の一柱たる邪神を迎え撃ったその神こそは…。
「忌むべき我が名を受け入れてくれた同志達に感謝し、今一度名乗ろうではないか。ヴォーヴァドスは貴様という邪悪を打ち砕くため、守護神の座へと舞い戻ったのだ。覚悟するがいい!」
この宇宙の最も悍ましい部分を凝縮したかのような模様を刻一刻と変化させて蠢く巨大なガスは、己を若造呼ばわりし、己の知らぬ太古の歴史を知る目の前の〈神〉と名乗った実体達に初めて恐れを抱いたが、しかしその図太さ故に素早く立ち戻ったのである。
「貴様らがどのような連中かなど知った事か。喰らい尽くしてやろう」
骨から肉の一欠片さえ残すまいと遅い掛かる砂嵐のごとき暴風が吹き荒れ、四方八方から水と灰と木々の破片とが襲い掛かった。それらは常に進化しているらしく、技は常に新たな変化を見せて予測を困難にしていた。背中合わせに戦う二神は飛来する隷属した物質を全て迎撃し、拳と拳で打ち合わせるがごとき攻防が繰り広げられた。互いが互いの裏を掻き、数千数万手先を読み合いながら、秒速にしておよそ数万マイルに及ぶ速度を物理法則の改竄で成し遂げているらしかった。ガスの明るい紫色をした輝きは狂わんばかりに煌めき、曇天の下で冒瀆的な色を発しながら『でゅわんでゅわん』という名状しがたい異音を発していた。しかしその音が一般的な生物に与える深刻な精神汚染はこれら神々には通じず、二神は機械のように黙々と攻防を続けた。拳や戦鎚、黒いブラストが乱舞し、攻防で歪んだ空間が慄然たる悲鳴を上げていた。
ガス状の実体は水蒸気へと変化させた水の温度を上げ下げして気圧に干渉し、異界の物理法則を介入させて切れ味の鋭い風を作り上げ、その顎は唸り声と共に襲い掛かった。ヴォーヴァドスは抹消を宿したその拳で風を殴って防ぎ、能力を制限されたナイアーラトテップも結晶じみた〈輝かしき捻じれ多面体〉でそれらを防いだ。
「よかろう…ならばこれは防げるか?」
常にその技を練る異界のガスは、掌握しているじっとりと湿った厭しい廃屋の破片の何割かを二神の周囲に配置して包囲し、二神は直径二〇フィート周囲の地面に突き刺さったそれらを注意深く観察した。暫し戦闘は中断され、ある種の様式美がごときゆったりとした緊張感のある時間が流れた。神に復帰したばかりのライアンは、己の臓腑が妙な違和感を主張している事を感じながら、その嫌な予感の正体を今か今かと待ち構えた。ガスはそうした様子を観察し、げらげらと空間を震わせて笑った。
「吾輩からの贈り物だ。捌いて見せよ」
その一声が命令となり、植え付けられた破片からあのガスと同じ異界的な色合いで明滅するグロテスクな植物が急速に育ち、その技の危険性を悟った二神が足掻こうとする前に効力が発生した。グロテスクな色をした花弁が花開き、そこから発せられる尋常ならざる金属じみた匂いと花粉とが強力な呪いを発し、この閉ざされた地の全域では時間も空間も物質も法則も、何もかもがあべこべに動き、その埒外にいる事で何とかそれら異常事象には巻き込まれずに済んだ二神さえも、その真の危険性――植物に囲まれた範囲中で巻き起こされる圧倒的な暴力による面制圧的破壊――からは逃れられず、しかし行き場もないため吹き飛ばされる事もできぬまま、その場でのた打ち続ける他無かった。悍ましい開花は彼らを苦しめ続け、反撃さえできぬ有り様であった。己らを取り囲んで未知なる暴力が振りかざされているため、二神は強力な能力も使う事ができず、虐待のように一方的な嬲りが繰り返されていた。
「貴様らなど所詮その程度よ。傲りを胸に死ね」
「それはどうかな?」
「何?」
再び誰かが乱入した。今度の乱入者は黒い巨神であり、ナイアーラトテップはこの場にそれが存在している事に驚愕し、ヴォーヴァドスはその声に驚愕した。ガス状の実体もまた、状況を読むため攻撃を中断した。グロテスクな植物は霧のように消え去った。
「君の同族を伴って来てみたが、随分酷い有り様だね」
その隣にはあの紫色のガスと同じ姿の実体が浮かんでおり、『どんどん』という音を発していた。
「ダーク・スター、君か?」とかの神は呟くように言った。
「また会ったね。では事の真相を、彼に暴いてもらおう」
するとグロテスクな輝きのガスは同族を罵倒し、空間が震えてその悪意を伝播させた。
「貴様、使命を投げ出して何をしておった? 我々には他の生命体を探すという使命があったであろうが」
「もうやめてくれ!」
「何?」
「僕はあの時気が付いた…今までただの物質だと思っていたものが僕達とは全く異質の生命体だったって事に。だから怖くなって故郷に帰った!」
三本足の神はPDFファイルや日記の暗澹たる内容を思い出した。飛び去った光、そして『でゅわんでゅわん』『どんどん』という別々の異音。なるほど、すなわち二〇年代のあの事件で、ガス状の実体はもう一体存在していたのだ。
「貴様まで珪素だの炭素だの下らぬ戯れ言を抜かす気か? 馬鹿馬鹿しい、邪魔をするならば纏めて殺すぞ」
「君は暴走している! もうこんな事はやめてくれ!」
ダーク・スターはやれやれと疲れた調子で頭を振り、モニター越しにその身内同士の諍いを眺めていた。するとヴォーヴァドスはそんな彼におずおずと話し掛けた。
「君は…もしやあの時の…」
銀色の実体に関してはナイアーラトテップの仲間であるとしか考えていなかったものだから、その聞き覚えのある声は全くの不意打ちであった。何せ『あの時』とは姿が違うから、同一人物だとは初見ではわからなかったのだ。
「この声…僕を永劫に渡って縛り続ける暗い運命の始まりにおいて、耳にした事がある」
そして改めてモニター越しに銀色の実体を観察してみた。あの尋常ならざる穢れた狂戦士の面影は見えず、むしろとても申し訳なくしていたため、状況がわからず言葉が詰まった。
「やはり君なのか? 私は君の母上を苦しめて殺した! ああ、やはり君なのか、どうやって償えばいいか!?」
償うだと? ふざけた事を抜かすな。
「〈闇の貫通者〉」
淡々と唱えられたその秘術は実を結び、黒い疾風となって駆けた漆黒の光明神がナイアーラトテップの隣にいたヴォーヴァドスを石ころのように軽々と吹き飛ばした。
「ダーク・スター、やめろ! 彼も犠牲者なのだ!」
美しい三本足のナイアーラトテップは慌てて制止しようとしたが、ライアン、かつてのヴォーヴァドスの確固たる声がそれを制した。
「いいんだ、俺はこの青年にとても酷い事をした。だから何をされても文句は言えないよ…」
「聞き分けがいいね。〈闇の執行者、手を貸してくれ」
青年は冷え冷えとした声でへどろ色をした有機的な聖剣を虚空から取り出し、彼の駆る漆黒の光明神は聖剣を構え、罰を受け入れる覚悟を決めてぼうっと立っている銀色の守護神目掛けて突進させた。それを面白そうに眺める異界のガスが何かをした瞬間、ナイアーラトテップは影さえ残さず高速で動いた。
がんという大きな音が鳴り響き、青年は己の聖剣の切っ先が、ヴォーヴァドスを庇ったナイアーラトテップの甲冑に開いた穴へとちょうど激突し、彼に深刻なダメージを与えている事に気が付いた。そしてはっとして背後をモニターで確認すると、一網打尽を狙って繰り出された水の蛞蝓達が唸り声をあげて迫るも、投げ込まれた結晶じみた戦鎚に止められているのが見えた。
「すまない、こんなつもりじゃ…」と青年は謝罪した。
「構わぬ。それよりも、何故偶然にも我々が集ったのか、その意味や価値を考えてくれ…ここでは多くの命が奪われたがため」
そう言い終えるとかの神はどさりと倒れ、青年はヴォーヴァドスを見下ろしたまま、彼と暫し視線をモニター越しに交わした。青年は三本足の神の言葉により、何故己の元へとあの恐怖の叫びが届いたのか何となくわかった気がした。一方でヴォーヴァドスはこの巨神の無機質な顔と見つめ合い、窺い知る事もできぬ深い深淵を覗いたような気がした。
「今は仕方無いね。また後にしよう」
「ありがとう」
それだけではあったが、協力し合う事は可能そうであった。啀み合う者同士の団結には誰かの犠牲が必要な時もある。それを知っていた三本足の神は苦しそうに起き上がり、再び開いた傷口からどくどくと血を流しつつも、片膝を立ててしゃがんだまま彼らの共闘を祈っていた。そしてやっとの事でよろよろと戦鎚を引き寄せ、柄を伸ばして杖のようにそれへと縋った。冒瀆的なガスは己の望み通りに事が運ばなかったために不満そうな蠢き方をして、数千マイル先の何も知らない人々の心に言いようのない不快感を与えた。
「では行こうか。君の名は?」と青年は冷静さを保とうとした。声は彼にしては珍しく不自然な『作った』感じがしていたが、それを気にする者はここにいなかった。
「今の名はライアン・ウォーカー、そしてかつての名はヴォーヴァドス。それ以前の前世でのもう一つの名は忘れたが、もうどうでもいい」
かつての守護神は相手の顔色を伺うような声色で、台詞のぶっきらぼうさとのギャップが疲れ切った笑みの青年を苦笑させた。
「そうか。僕はダーク・スター。君と僕の因縁はひとまず脇に置こう、今それどころじゃないからね。さて、テレパシー能力は使えるかな」
「ある程度は。そちらで話そうか」
そこで彼らの会話が断たれ、漆黒の光明神と地球の守護神はすうっとその姿を消した――あまりの神速故に目視不能であったが、しかしそれさえガス状の実体にははっきりとその動きが把握できていた。『どんどん』と音を立てる同族のガスは、血を流す三本足の神の傍らに浮かび、その傷を治そうとしている風にも見えた。
「小賢しいな。聞かれぬよう別のコミュニケーション手段へと切り替えおったな。恐らくテレパシーのような」
外延機関の周りを飛び回って攻撃してくる彼らの会話を盗み聞きしようと、思考の波を手繰り寄せようとしたが、しかし思考の波そのものの『輪郭』がぼやけて見えるのみで、何を話し合っているのかは杳として知れず、ガス状の実体は苛立たし気に唸るのみであった。
「どうしたんだい?」
青年はそうした敵対者の苛立ちを見るや、それを面白がってからかった。
「貴様か」
ガス状の実体は黒い巨大な物体に乗り込んでいる青年が何らかの妨害をしている事を悟り、更に苛立たしく思った。そのためあの湿った気持ちの悪い木片を今度は直径五百フィートの広範囲へ植え付け、尋常ならざる異界的な開花を実行し、理不尽極まる単純な暴力による抹殺を図った。
「またあれが来るぞ!」
「ああ、わかった!」
ヴォーヴァドスの警告は青年にもその意図が伝わった――テレパシーでそれらの事についても既に話し合ったのであろう。だからどうなるものでもなさそうだが。
「消え失せろ」
空間が震えてあの星間ガスじみた紫色の実体はぞっとするような声で呟き、その命令通り吐き気を催す開花が行なわれた。それによってグロテスクな花弁から吐き気を催す花粉が撒き散らされ、不快な金属じみた匂いが充満し、物理法則が捻じ曲げられた。するうち範囲内で万物があべこべに働くようになり、本命たる単純な力による破壊が起こされた。全ての方向というよりも、その場全体に充満する単純な破壊力によってどこかへと吹き飛んで力を逃がす事も叶わず、彼らは轟音鳴り響く蹂躙の檻の中で一方的に嬲られた。
「ナイアーラトテップよ、そこで見ておるがよい。貴様が最期に見る光景を目に焼き付けろ」
蚊帳の外でしゃがんでいる三本足の神の眼前で、古の政争を思わす公開処刑が実施され、かの神は彼らが耐えられるよう願う他無かった。とりわけかの神の現実を再定義するかつての力が喪失されている以上は、ある意味で己の領地に座する悪魔達よりも貧弱であった――するとそこで、かの神はふと脳裡に思い当たるものがあり、その咄嗟に思い付いた計画が実行可能かどうかを考えた。
「どうした? この生物とも物質ともつかぬ闖入者どもも大して役には立たんな。思えば貴様が一番楽しませてくれたものよ、傲慢な三本足の阿呆め」
凛然とした銀色のヴォーヴァドスはその銀の靄さえも萎びたように弱り、着ていた防寒着はあちこちが破れていた。漆黒のダーク・スターもまた、機体の各所に重度の損傷が発生して装甲が剥がれたり欠落したりしており、自己修復も遅々として進まぬらしかった。あのガスの技には明らかに犠牲者の治癒や修復を妨げる効能があろう。飛ぼうとしたところで頭上から灰がどさりと降り掛かり、本来ならば埃程度の質量しか持たぬそれらのずっしりとした打撃が漆黒の光明神を泥濘に叩き落とし、落下の衝撃が大地を震撼させて稜線の彼方にまでその振動が伝わった。
「終わりだな。貴様も、その役立たずの同士どもも」
その言葉と共に先程別の技を使うために消していた植物を出現させようと、再びあの開花のための木片の植え付けが行なわれた――勝利を確信していたそれが、思わぬ方向へと傾いたのはその時であった。
「貴様ら、図りおったか!」
圧倒していたはずの己の優位が失われ、あのガスじみた尤禍の怪物は悔しそうに声を荒らげ、空間がその厭わしさ故に身を捩って悲鳴をあげた。あの技を発動した瞬間、ぼろぼろになって死にかけていたはずの地球の守護神はいつの間にか開花の範囲外へと離脱しており、気が付けばガス本体目掛けて躍りかかっていた。その振り下ろされる両手にこもったあの不可解な抹消能力の威力が今までとは比較にならぬものであると知り、その結果どうなるかがわかっていながらも水と灰とを割り込ませ、相殺のための最大の一撃を放たざるを得なかった。そして当然の結果として、今までは両立できぬために制限していた開花中における他の技の使用が祟り、最大の一撃を放って抹消の力と拮抗させていたそれら水と灰とは慄然たる爆発音と共に全て爆ぜ、ぱらぱらと力無く泥濘の上に落ちた。その副次効果であの忌々しいヴォーヴァドスとやらも陸地があった辺りまで吹き飛んだが、その間にあのダーク・スターとやらがあの暴力の嵐の中で機体を東屋のように軋ませながらも詠唱していた。
――用途、逆境に置かれた己の定めを変えるため。偉大なるヘリックス最後の使い手からの命令。
――單に勝利のみを要求。漆黒の翼が降臨、敵はその威容にただ嘶くのみ。己に下る神罰に恐れ慄く哀れなる獲物を、我らの祖へと捧げる事に同意。
――唱え終わるその時、敵対者を終了させる技としてこれを定義。ヘリックスとイーサー、二つの異なる力の混合によってこれを実行。
「名も知らぬ異界の悪鬼よ、君も僕の抱える闇を見てみるかい? 〈闇の襲来〉!」
その瞬間空間が歪み未知の萎縮現象が発生して、全く言い表しようのない名状しがたい視覚効果が発生した――黒々とした魔法陣がガスの後方斜め上から黒いエネルギーブラストを激流のごとく放ち、ガスの正面からは虚空より生え出ずる緑色のイーサーで構成された触腕が活きのよい大蚯蚓のごとくぐねぐねと脈動しながら伸ばされた。そしてそれら両者はガス状の実体の眼前で尋常ならざる音を立てながら衝突し、それが齎した異常現象は巍々たる様子でかのガスを滅殺せしめんとして襲い掛かった。冒瀆的な模様で蠢くガス状の実体は己の本体が引き摺られるように萎縮してゆく感覚に驚愕し、それを防ぐためにはじっとりと湿った悍ましい木片を犠牲にする技を使う他無かった。開花に使用していなかった木片を全て使用した最大の一撃を放って先程同様に相殺し、それらもまた先程同様に爆ぜて砕け散った――開花の技と相殺技が同じ種類の湿った木片を使用した技であったため、それらは地獄めいた太鼓のような轟音と共に異界的な連鎖反応を起こして消え失せた。
今やこのグロテスクな星間ガスじみた冒瀆的な実体を守護する物質は存在せず、それら盾にして矛たる外延器官を喪なった事で明らかな動揺を見せていた。
「かくなる上はそこの腰抜けを取り込んで貴様らを!」
半狂乱の有り様で耳を切り落としたくなるような空間の震えが響き渡った。かのガスの最後の足掻きは同族を喰らって自己を強化するものであるらしかった。だがぞっとする程に深い深海のごとき色合いをした甲冑で身を包む美しい三本足の神が、ギリシャ彫刻のような荘厳さをもってして立ち上がり、かの神は死刑宣告のような調子で言い放った。
「下郎よ、貴様は終わりなのだ。貴様とて、何と言ったか…ああそうか、『生物と物質の中間』という意味合いの言葉を発したな。それこそが、貴様が本当はそれらが生物であると認めている事の左証ではないか。このヴォーヴァドスは現在のところ私のような原形質ではなく、貴様の基準で生物と呼べる要素は無いのだぞ。しかし貴様は半ば生物であるかのように認識しておったな。まあ所詮貴様のつまらぬ心は己の罪を認めたくないが故に、なべては生物に非ず、単なる物質だと開き直ったのであろう。無論貴様に悔悟など無かろうがな。単純に己が間違っておった事を認めたくない、ただそれだけの事なれば。それ故貴様には、かような厳罰が下るのだぞ。では滅殺するよりも貴様に見合った刑を科そう」
ガスへと向けられた赤黒い結晶じみた戦鎚が燐光のようにぼんやりと輝き、それに呼応して地球の守護神と漆黒の光明神からも莫大なエネルギーの流れが戦鎚へと集まり、惑星規模の封鎖を無視する事ができた。そして三途の川のごとくどんよりとしたそれらエネルギーが流れ込んだ先では、荒れ狂うオホーツク海のように凄まじい波の音を立て始め、何やら尋常ならざる気配が立ち込めた。冷風は元より、空を厭わしく覆う曇天さえもぶるぶると恐れ慄き始め、地球という惑星そのものも忌むべき何者かを忌避し始めた。地獄めいた沸騰した水が虚空から零れ始め、ガス状の実体が浮かぶ真下に広がる池跡の、糜爛したかのごとき泥濘の上へとぼたぼと落ちるや、その上でごぼごぼと煮え立った。するうちそのグロテスクな音色を背景に、ガス状の実体の眼前に毒々しい色合いの慄然たる触腕がずるりと伸びた。それは木の幹のように太く粗雑で、それでいて軟体動物のような柔軟さを備えたそれは偉大なるドラゴンのクトゥルーの触腕を悍ましく戯画化させたものであり、それと同時に息が止まる程の美しさを兼ね備えていた。あのアドゥムブラリよりも遥かに強壮な精神を持つこのガス状の実体でさえも、その恐ろしさと美しさの調和された同居には耐えられず、立ち竦んでいる隙にその触腕はガスの本体へと巻き付いた――およそ一般的な手段ではこちらから触る事さえ叶わぬそのガスはいとも簡単に捕えられ、新たな触腕群と共にぬうっとその一部が這い出た飢えに支配される実体は、悪魔的な信じがたい程の声で洋々と喋った。その巨人じみた悪魔の貌は新鮮な獲物を前にして歓喜の表情を見せ、地獄門のごとく開かれた口からは捕食者じみた歯がびっしりと並び、その黒々とした口腔内はいずことも知れぬ黯黒の領域へと繋がっているのではないかとさえ思えた。
〘儂を呼び出したのはお前達か?〙
「いかにもその通りだ、数多の時代を閲してなお呪われるべき者よ」
三本足の神は堂々と答えた。
〘三本足の神、地球の守護神、そして漆黒の光明神か。お前達の望みを言え〙
「今君にくれてやったその邪悪な輝きをむしゃぶり尽くしてくれ、とかそんなところだね」
漆黒の光明神は淡々と答え、触腕の中でガス状の実体は宛も無く藻掻いていたが、その触腕から逃れる事は終ぞ叶わぬらしかった。
〘対価として何を儂に寄越す?〙
「そいつ自身が対価だろうさ」
銀の靄が消え、人の姿へと戻った地球の守護神はあちこち破れた服を気にするでもなく答えた。
〘ふん、まあよい。その契約を履行する〙と悪魔的な声が響き、先程ガスの声を聞いて己の感覚器官を潰していた近くの森の蟇の狂乱した心を癒やした。
「やめろ、このような定めなど認められぬぞ!」
喚き散らすグロテスクなガスは様々な手立てを用いて藻掻いたが、今や既に悪魔の領地に半分以上引き寄せられており、この状態では例えあの開花でさえも通用するとは言いがたかった。
〘お前は我が贄となるのだ。魂の髄までむしゃぶり尽くしてやるわ。善の魂が炎獄のごとき辛味だとすれば、お前が持つような悪の魂は午睡のごとき至高の甘味。なんとも美味そうだなぁ〙
悪魔の声は獲物を前にした歓喜を帯び、まるで狩人が自然の恵みを天に感謝するがごとき有り様であった。
「やめろ! 虫けらどもが! 貴様らのごとき下郎がぁ!」
全ては霧のごとく消え去り、残された静寂と共に掻き消えゆく雲から零れたオレンジの夕日が燦然と輝き、冷風もぱたりと止んでいた。
「ありゃ一体何だったんだ?」
ライアンは先程場の勢いで有耶無耶にしていた疑問を口にした。護法善神のごとくこの邪悪に満ちた地を閉ざしてきた黒い樺の木々が白くなり始めており、その健全なる木の香りが穏やかな風に吹かれてやって来た。彼は肋骨が何本か折れている気がしていたが、神の身故にそれも放っておけば治るであろう。止血し終えたナイアーラトテップが疑問に答えた。
「あれこそは慄然たる悪魔種族リヴァイアサンの最も知られる個体の一つ、〈萎れた水平線〉なり」
「リヴァイアサン? 聖書に出てくる奴か?」
「聖書のリヴァイアサンは恐らくはもっと別の実体を指しておろう。元々種族の名は持たなかったらしいが、奴らは古代の地球の魔道士達が使用した『リヴァイアサン』という呼称を気に入ったらしく、以来あれら悪魔はそれを自称している」
「しかし何にせよ、君がまさか悪魔を呼び出すとは…」
するとナイアーラトテップは悔しそうに歯噛みした。
「今ではああした邪悪な実体、悪魔や邪神の類もある種の自然の秩序として存在しており、それ故弱り切った私の力では均衡を崩さぬままそれら実体を討ち滅ぼす真似はできぬのだ。それがどれ程までに悔しいかは置いておくとして、それら邪悪にも使い道はあり、私はそれを実践したまでの事」
ふむ、とライアンは考え込んでいたが、やがて己が非道を働いた相手がこの場にいた事を思い出し、ばつの悪そう表情で口を噤んだ。見れば彼らの傍らへとあの漆黒の光明神がすうっと羽毛のような軽やかさで舞い降り、その荘厳さは死の天使のようでさえあった。着地すると胴体部が音を立てて開き、そこから黒衣を纏った、ライアンにとって見覚えのあるあの青年が舞い降りた。彼は共闘して以降は出会った当初の激烈な怒りを見せてはおらず、随分切り替えが早い人物である事がわかった。
「久しぶり、と言っておこうか」
疲れ切った笑みを浮かべ、青年は二神の元へゆっくりと歩み寄ると、四ヤードの距離を空けて止まった。暖かい風が慄然たる灰や木片を洗い流しており、星そのものが備えた自浄作用が漸く働いたように見えた。ライアンは己の罪を思い出して何も言えずに立ち止まった。シャーとこの件を話し合った時は、もしもあの時の青年と再会したら謝りたいと言ったものだが、彼女の与える安らかな生を堪能した今となっては、それを手放す事を恐れていた。あるいはみっともなく命乞いでもすれば、その哀れさを鼻で笑って許してくれるのか。今こうして己の愚行の被害者と改めて対面すると、先程の共闘時には考えぬようにしていた罪状の数々が蘇り、腕を振り下ろして青年の母を殺害したあの時の記憶がまざまざと思い出された。肉を切り裂いて突き刺さる己の右手と、その下で新鮮な野菜のようにぐっしゃりと潰れた中身と飛び散る鮮血とをシャワーのように浴び、それらを甘美なものとして堪能していた時の記憶。それは洗脳による教化とは言え、紛れも無き己の罪であり、他の惑星でも同じ事をした記憶が墓場より這い出た死者の軍団のごとく次々と戻って来た。
赤い蛞蝓じみた種族の寺院を焼き払い、そこで修行していた子供達を頭からばりばりと喰らった記憶。深海魚のごとき異形の水棲種族が住む大洋を己らの穢れ――あろう事か洗脳されていた己を含む愚図な〈旧神〉はそれを聖なる力だと勘違いしていた――で濁して窒息させ、息も絶え絶えに海面まで登ってきた者達を次々に射貫いて殺した記憶。数え切れぬ程の美しい〈人間〉達を殺し、それこそが正義だと思い込まされていたあの悍ましい教化の記憶は、彼を内側から焼き尽くさんばかりの勢いで燃え盛り、ゆっくりと後退りながら声ならぬ声を上げた。
「そうか。君も苦しんだんだね」
だが青年はそれを見て哀れに思い、何故三本足の神が彼もまた犠牲者であると言ったのかが曖昧模糊ながらもわかり始めた。
「彼は後悔しているみたいだね」
ナイアーラトテップは穏やかに答えた。
「彼は奴らの穢れた手で操られていた。私は彼を呪縛より解き放つも、消えぬ罪の記憶は彼を永きに渡って苦しめ続けたのだ。償いとして彼はこの星の守護神達に加わった事もあった――しかしその後、大陸が大洋へと沈んで古代の壮麗なる文明が滅び、彼もまた暗い窖の中で何十億年もの間苦しみ続けたものだから、それら永劫から見た場合のほんのつい最近になって私は身勝手な哀れみから彼を何も知らぬ人間として生まれ変わらせた。しかしそれも、やはり騙しておくのはよくないという、始まりと同じ私の身勝手さによりて終わりを告げたのだ」
美しい三本足の神はライアンの抱える罪を青年に告白したが、その内容にはかの神自身の罪の告白も混ざっているように思えた。
「そう、か。自分の意思に反して犯した大罪を、彼は逃げる事無しに悔いているんだね。それなら僕はこれ以上彼を責めるつもりなんてないよ。さっき彼が罪を思い出して蒼白になっていた時の様子を見ているとすっかり溜飲が下がってしまってね」
悲し気なその笑みは珍しく、少しだけ嬉しそうに見えた。
「ま、待ってくれ! 俺は、俺は君の母上を!」
ライアンははっとして大きな声を出した。
「いいのさ。君もまた、永劫なる苦しみの牢獄に囚われていたんだ。もう充分な罰を受けたと思うよ」
青年はライアンの元へとゆっくりと歩み寄り、そして血の付いた彼の肩へと右手を置いた。青年から漂う春の夕べのごとき馨しい香りが、ライアンの心をじんわりと打った。
「君への復讐は、これで終わったんだ。ありがとう、僕の母さんの死を覚えていてくれて。ありがとう、加担させられた全ての殺戮を、逃げられない己の罪だと認識し続けてくれて。君は億千の懲役を過ごし、悠久の眠れぬ夜を過ごしてきたんだね」
耐え切れなくなったライアンの涙混じりの怒号が天を突き、青年と三本足の神は彼がそれらを全て吐き出すまで待ってやった。
膝を衝いて泣き腫らしていたライアンが落ち着いてきた頃合いを見計らって、青年は彼に手を差し伸べた。ライアンはそれをぼんやりと見つめ、やがてその手を取って立ち上がった。青年の硬い手の感触は冷たい印象を受けたが、その奥にはまだ温かいものが残っていた。
「さっきはいきなり殴ってしまってすまなかったね」
青年は疲れた笑みを浮かべたが、ライアンが何の事かと思い始めたので、青年はわかり易いように補足した。「さっき君が償うと言った時に、つい頭に血が上ってしまってね。何を白々しい事をと思ってしまったみたいだ」
「いや、俺は君を非難できる立場じゃない」
「そう頑なにならないでくれよ。君さえよければ、僕は君の友人になりたいとさえ思っているよ」
ライアンはぎょっとして、その表情を見たダーク・スターは苦笑した。
「そうそう、僕が今どういう事をしているのかがまだ紹介できていなかったね。時間もあるしゆっくりと説明してあげられる――というより、僕は自分の抱えてきた闇を誰かに聞いて欲しいのかも知れないね」
「よければ聞かせてくれないか?」
「ああよかった、星界の審判官のような荘厳さで『そのような血に塗れたグロテスクな逸話など聞きたくない!』とでも断られたらどうしようかと思っていたから」
暫く傍観していたナイアーラトテップはふっと笑い、ライアンもそれにつられて青年のユーモアをくすっと笑ったが、慌てて口を覆って謝った。
「いいんだ。君に肩の力を抜いて欲しかったから言ったのさ。さて、それじゃ話そうか。母さんの最期を見届けた後、僕は吐瀉物と砂埃に塗れ、誰かの血で服を汚したまま矢のように走り始めた。うら若き年頃の乙女達のような恥じらいはその時の僕には皆目存在しなくて、悔しさと保身とによる板挟みに必死で耐えながら、僕の愛する揺り籠が完全に廃墟と化すまでに、もうそれ程時間が残されていない事を悟ったんだ――君達のコミュケーション手段を観察していたからある程度会話の内容も理解できた。僕は自分自身を叱責しながら、これから自分がどうするべきかを残された僅かな時間で熟考し続けた。その間にもあの一なる群体が僕を追い詰め、包囲網が形成されつつあった。永遠の拷問へと続く地獄の袋小路へと追い詰められた僕は、君達に反撃することさえできない自分の力不足を呪ったよ。だけどどうしようもなくなって、僕は逃げる事を選んだ。それは君も知っているね。だが僕があの時何をしたのかは知らなかっただろう? それをこれから話そう。
「僕は平和活用されていたヘリックスと呼ばれる魔術の使い手だったんだ。今となっては流派最後の一人さ。僕はあの時ヘリックスの秘儀を用いて、惑星全土で狩り尽くされている同胞達を触媒に選んだ。わかるかい? つまり僕は惑星全土を贄としたんだ。その結果得られるのは、高度な不死性、そして僕が逃げるために使うエネルギー源さ。僕は誓ったんだ。今は恥も外聞もなく、醜く逃げてやろう。そして永き時の流れの果てに、君達と再び相見えたその時、星のように重いこの呪縛を幾星霜の積み重ねと共に返してあげよう。僕は復讐それのみを目的とする抹殺者として生きていく事を決意したのさ。僕の歩む道はそうやって形作られ、今こうしてここにいる。復讐を成し遂げるには、永遠の命が必要だったのさ。例え、それが〈人間〉には耐えられない苦痛に満ちた牢獄だとしても。
「あの最後の瞬間、僕は母さんの変わり果てた亡骸を取り戻す事ができた。それだけがあの時の壊れかけた心への唯一の慰めで、僕は火葬した時の灰を集め、あの悲劇を忘れないために記念品を作った。そう、それがこの荒い作りの腕輪さ。これに母さんの灰を混ぜてあるんだ。そして僕はあの時生まれて初めて生まれた宇宙の外へと飛び出し、以降は二度と帰らなかった。以来この宇宙を拠点に復讐のための計画を立てていたんだ。この機械の相棒、僕の翅ダーク・スターは神に等しい強大な力を得るために生み出した。魔法と科学の両方でその血肉を作り上げ、僕の計画を少しでも遂行し易くしようと試みた。まあ、概ね今まではよく働いてくれたさ。ところで、ちょうど君達が戦っていた頃には用事があってこの宇宙にいなくてね。だから君が悍ましい同胞達に教化されていたなんて、知る由もなかったんだが、それでも悪い事をしたね。僕は永い月日が過ぎる中で名を捨て、忘れ、人々は僕の翅をダーク・スターと呼ぶようになった。僕も自分自身をダーク・スターだと思い込み始めて、やがてそれが自分の中で新しい名として定着した」
ライアンは黙ってそれを聞いていたが、己の罪に関わる箇所では苦しそうに顔を顰めていた。ナイアーラトテップは一箇所抜けているとして、その点を指摘した。
「それだけではあるまい。君は復讐に囚われた風ではあったが、見知らぬ誰かが傷付けられるところを見過ごしてはおけなかったではないか」
ライアンはそれに驚いた。
「じゃあこの前君達が遭遇した時以外も、既に何度も人助けを?」
「いかにも。彼は心優しいが故に、己の本懐のみを優先する冷たさに徹する事ができぬのだ」
その件をあえてライアンに隠していたダーク・スターは微かに恥ずかしそうに笑った。
「よして欲しいな。僕はたまたま通り掛かったから手を貸していただけだよ。自分の復讐にそれが役立つかどうかの損得勘定に身を置いていただけさ」
「この星も、俺が暫く見ない間に色々変わっちまった。だがかつて俺達がそうしたように、悪と戦う者達は今もいる。それを思うと今でも胸が熱くなる」
彼らは雑談に花を咲かせていた。蚊帳の外にいる『まともな方の』ガスは、彼らの会話をじっと聞いていた。
「決して清浄とは言えぬこの星だが、私は子らを信じたい。その甲斐あってか」三本足の神はまだ言っていなかった事を口にした。「この星で〈救世主〉が覚醒した。まだ孵化したばかりの雛鳥なれど、彼はやがて大業を成すであろう。やはり我が子らは美しい」
するとそれを耳にした黒衣の青年は、我が耳を疑っているかのように驚き、三本足の神もそれにつられて驚いた。
「どうした?」
「〈救世主〉…本当にこの星にいるのかい?」
「間違いなく。すでに確認してある」
〈救世主〉…〈旧神〉への復讐計画を練っていた過程で、ちょうどあの太古の大戦が起きていた頃に訪れていた異次元で、現地の人々からその伝承について聞かされた事があった。強大な力を持ち、善き心を持つ者。その伝承に関する証拠も多く見せられたため半分以上信じてはいたが、しかしいつその実体が現れるのかはわからぬらしく、その件はもう百億年近く忘れ掛けていた。それが今となって現実味を帯び、何を意味するのかを吟味した。もしかすれば、復讐に役立つかも知れなかった。ライアンは青年が急に纏った仄暗い雰囲気にぞっとした。冷たい笑いは悪辣なるブレイドマンのごとき残酷さを帯びていた。悍ましさを醸してにやりと笑うダーク・スターの表情は妖艶なる白蛆の魔王ルリム・シャイコースのそれと見分けがつかぬ程の邪悪性を見せており、この青年が本質的には復讐の虜囚である事を物語っていた。
「用事を思い出した、そろそろ失礼するよ」
三本足の神はただならぬものを感じて引き留めようとしたが、ふわりと浮き上がった青年を漆黒の光明神ががしりと掴み、そのまま機体ごと黒い魔法陣の中へと消えた。二神は嫌な予感がしてならなかった。
その後善性を持っている方の『どんどん』音のガスは償いとして己の命を代償に今までそうと知らず奪ってきた無数の犠牲者達を蘇らせたいと申し出た。どうやら己の次元に帰ってからはその研究を続けていたらしかった。だが三本足の神はそれよりも今までの失敗――己らと同様かある程度理解できる形態の生命体でしか生命体であると認識できなかった視野の狭さ――を教訓にして欲しいと答えた。今こうして生きているのだから、できればその恵みを享受してもらいたかった。生きたくてもそれ以上は生きられなかったため、己らの命を捧げてきたリーヴァーの一件の人々のような悲劇はもう沢山であった。ガス状の実体の帰還を見送り、二神もまたそれぞれの家路についた。ライアンはぼろぼろになったウィンドブレーカーとフライトパンツを改めて見渡して苦笑した。それから己が被害者の一人に許された事を思い出して、胸がじんわりと熱くなるのを感じた。そうやって星空の下で車を運転していると、何故だか愛する人々がとても愛しく思えて、路肩に車を止めて暫く泣いた。〈救世主〉の話を聞いた時のダーク・スターはとても恐ろしく見えたものの、しかし彼のお陰でこれから帰って己にとっての可愛い女神と抱擁を交わせるであろう事が、とてもありがたく思えて仕方なかったのかも知れない。
一方で三本足の神は、今回またしても己の化身を他から切り離されてしまった事を重く受け止めていた。思えばあのアドゥムブラリの〈領地〉でも同様の危機に陥ってしまった。もしかすれば、今なお己の知らぬところで己の一部が隔離されている可能性もある。害が無ければ構わないが、そのせいで巨悪を討ち損じるのは御免被るというものであるからだ。
しかし青年は、知らぬ間に何か重大な事を忘れており、それは多元宇宙中に己の側面を派遣している三本足の神の総体も同様であった。
時間と空間を隔てた向こう:異宇宙、アメリカ某所
ジャマイカ人を思わせる神父が一人、寂れた教会で座席に座っていた。窓から差し込む日差しを眺め、彼は己が討たねばならぬ巨悪にいかにして太刀打ちすべきかを決めかねていたのである。彼は明らかに『何か』から孤立しているらしかった、まるで別の宇宙の別の側面がその宇宙の地球に存在する異宇宙にて隔離された事件の際のごとく。
ロールタイプのタブレットを膝の上に広げ、形状固定ボタンを押してから画面を点け、インターネットで最近のニュースを集めた。最近は明らかに同一の黒幕が背後にいると思わしきテロ事件が他の雑多なテロ事件に混ざり始め、ヴェイグランツを名乗り火星に降り立った大柄なレプティリアン種の異星人難民への、莫迦がやらかすよくあるヘイト活動にも幾つか怪しい団体が混ざっている事に気が付いた。もうそろそろ、黒幕は動き始めるであろう――敵は地球人とヴェイグランツの和平交渉決裂に失敗したと思われ、そろそろ業を煮やして何かをしそうであった。ヴァルキリーズ、蒼い夕陽の女貴族達とも呼ばれるあの種族とて、悍ましい真の黒幕ではない。その背後にいる者を誅せぬ限り、この宇宙が患う疾患の根本的な解決にはならぬのだ。かつてこの星にケイレン帝国の当時のオーバーロードが置いて行った遺産は概ね彼の意図通りに使われているが、果たして今後本当に勝利できるのかどうかはわからぬものであった。
神父はタブレットの下半分にキーボードを出して検索し、先日の金沢で起きたテロ事件のニュースを閲覧した。事件を収拾させたのは恐らく例の存在しない事になっている部隊であろう――彼が独自に調査した限りでは、他にも中国某所の一件や東南アジアの各世界都市での一件、そしてナイロビの一件などにも介入していたと推測されているが、詳細はほとんどわからなかった。そして先日のインチョンの事件においても。
「あるいは彼らこそが、希望なのやも知れぬ」
別のニュースではアメリカ軍所属のM1A5戦車が数両とR−14A2戦両機数機が写真に写っており、画像に付与されているARキャプションタグを、安物のAR機能付きサングラスを掛けて覗くと、それら戦車と戦両機はレール砲に換装しているという説明文が立体表示された――戦車用のレール砲という事から推測するに、恐らくその重量に耐えられるインフラの行き届いた強固な地盤の土地に配備されるようだが、正直言ってそれさえも秒読みのアメリカ本土決戦へのカウントダウンではないかとさえ思えてならなかった。もちろんアメリカだけでなく、他の主要国も攻撃を受けるであろうが。
いよいよ全てを決する苛烈な決戦の、前哨戦が始まろうとしていた。そしてそれに勝てなければ、人類の歴史は次に進む事なくそこで終わりを迎えるだろう――そしてこの閉鎖された宇宙の全知的生命体の歴史もまた、同様となろう。