NYARLATHOTEP#7
池から這い出た悍しいガス状の実体こそが、この地で起きた災いの元凶だった。そしてそれは、己の行為が生物を殺めたとは認識しておらず…。
『名状しがたい』注意報――この話は冒頭から文体がけばけばしく、改行が極端に少ない。
登場人物
―ナイアーラトテップ…美しい三本足の神。
―ガス状の実体…自覚無き殺戮者。
【名状しがたいゾーン】
午後一時三二分:モンタナ州、某所山中
通常ならばスペクトルの関係で慈悲深くも覆い隠された、その悍ましい尤禍の怪物の容姿における最も恐るべき部分に、無自覚の悪意が渦巻いているのが見えると、ジャマイカ人じみた姿で荘厳に顕現するナイアーラトテップは苛烈な怒りに満ちた眼光を投げ掛けた。しかしその抜き身の刃のごとき冷え冷えとしている眼光さえも、このガス状の実体にとってはどうでもよい事象でしかない。
「実は吾輩も前々から貴様のような、原形質の生命が存在しておるのではないかと予測していたのだ。その結果、ちょうど貴様が現れた。この不毛なる惑星にも生命が存在しておったという事実は、まさに奇跡と呼べるものではないか」
ジャマイカ風な黒人は耳を疑った。やはりこの実体と己との間には、明らかな認識の誤差が生じている。それこそまさに、この実体の外見と同じであろう――地球人とナイアーラトテップがこの実体の姿を視認した場合、言うまでもなくその見え方はそれぞれ全く異なるのである。
「何を言っておる?」かの神の声は獄炎色を帯びた業火そのものであった。「貴様はこれまで多くの生命を喰らっておろう。そもそも、この惑星に来た時も、貴様は珪素種の血肉を貪っていたはず」
「珪素種? 珪素の生物という意味か?」
「いかにもその通りよ。貴様が憑依しておったあの隕石がそうであろうが」
「はっ、戯れ言を抜かすでないわ。そのような生命形態が実在するはずがなかろうに」
その受け答えは予想されていた最悪の部類で、無自覚な悪意の裏付けでもあった。すなわち二〇年代の事件でこの地に降って来た隕石型の知的生命体を拷問のように苦しませた事に関して、この実体は全く自覚していないのだ。ならばこれまで犠牲になった地球人達やその他の生物も、恐らく同様であろう。
「では貴様がこの池の底、水没した井戸の中で封じられていた期間に『喰らっていたもの』は何だ?」
しかし鮮やかでグロテスクな紫色の光を放つガスはまたもや、質問の意図が全くわからぬというような蠢き方をした。辺境の星雲を構成するガスを狂った感性で戯画化したがごとき様相で、その濃淡や模様を変え続けているそれを見ると、やはりナイアーラトテップの心は怒号を上げたくて仕方無くなった。戦鎚を握り締め、表情を歪ませ、そのような状態で爆発寸前の怒りを抑えるのは並大抵の事ではない。だがそれらはどうやら、この奇怪極まる実体を更に不思議がらせるのみであるらしかった。
「何と問われても困るところであるが、他の物体同様、ただの元素の集合体であろうが」
「貴様…」
「まさかあれらも生物だと抜かす気か? 吾輩をからかうのもその辺りにしておけ」
「貴様は犠牲者の声を聞いていたはずだ」
「あの奇怪な音声か? あのようなもので知的生命体の証拠たり得ると、本当に思うか? 原形質の生命とは随分莫迦な考えを持つらしい。貴様にわかり易く説明してやろう、例えば吾輩が以前訪れた反物質の次元における応用四次元学では、初歩的な実験として氷に特定の音声を照射させ、結果その結晶は音声に応じて様々な形状に変化する。しかしそれは別に知性を持つ生物ではなかろうに。同様に吾輩が消費した物質も生物とは言えぬ。〈深淵〉における二次元的な異常事象の方がまだ生物と呼べるものよ」
二次元的な異常現象――あの禿頭の合衆国エージェントを悩ませる、根本的な原因たる実体どもの事であろう。それらと激闘を繰り広げた時の事はかの神の主観ではまだ記憶に新しい。
「その物質でしかないものに、テレパシーを使っておったはずだが?」
「ああ、あれはたまたまテレパシーが面白い化学反応を起こして美味い物質を引き寄せたから、たまにその味を堪能したくなった時に使用していただけの事」
冒瀆的な輝きのガスは、己の行為が知的生命体を害したとは全く思っていないと言うよりも、むしろ相手が生物であったと認識さえしていないようだ。空間を震わせて響く地獄の太鼓めいたその声は、無自覚の悪意を纏って周囲の空間を仄暗い雰囲気で包んでいた。今や池はこの実体の自覚無き悪意を反映したかのように、厭わしい漣を立てて異界じみた様相を作り上げていた。そして空はまるで皆既日蝕のごとき不気味な暗さに包まれ、ある意味では――少なくとも地球人類にとっては――この世の終わりかも知れなかった。
「もうよい」ナイアーラトテップの冷え切った声が響いた。「貴様のごとき虫けらは、私の宇宙に必要ない。よって滅殺してやろう」
だが星界の大法廷にも匹敵する権威ある死刑宣告を受けてもなお、ガス状の邪悪は全く意に介した風もなかった。
「もう少し貴様を観察しようと思ったが、惜しいものよな」
しかしその尋常ならざる声には全く惜しみの色がなかった。そして無自覚故に、己の行為に何ら疑問を挟まぬのだ。
ジャマイカ人の戦鎚が煌めくと、彼の姿は一瞬で七フィートの直立する三本足の人型へと変化し、その美は厳然たる処罰者としての矜持を備えていた。ぞっとする程深い深海じみた深緑の甲冑と星空を映す黯黒のマントこそはかの神を象徴するものであった――その上部が触腕のごとく上向けて伸びる美しい頭部にはしかし、激烈な怒りの形相が張り付いている。死に瀕した畸形の下草がかの神の周囲ではためき、黯黒のマントは怒りの風を受けてゆらゆらと静かに、かつ苛烈に揺れていた。
「ふん、ナイアーラトテップだと? どこの傲った阿呆か知らぬが掛かって来るがよい」
それを聞いて、美しい三本足の神は冷ややかな笑みを浮かべた。
「私を知らぬとは、お目出度い奴よ」
「その余裕、果たしていつまで続きおる?」
池の水面から四フィート上で蠢く実体が一際明るい紫の妖光を放つと、突如慄然たる轟音がかの神の背後で鳴り響いた――咄嗟に振り向くと湿気ったぼろぼろの廃屋はばらばらに引き裂かれ、まるでその破片は意思を持つがごとく渦巻いた。恐らく、このガス状の実体は先程遂にあの廃屋を完全に掌握したのであろう。すなわち、廃屋に染み込んだ厭わしい湿気も太陽光を意に介さなくなったらしかった。気に入らない事に、この実体は池の中を含め、辺り一体からあの灰を自らの周囲へと呼び寄せた。まるで鎧のごとく周囲で渦巻き、そしてその外側には引き裂かれた廃屋の木々が浮かんでいた。それは恐らく異界の未知の実体を模しており、全体像は優に二百フィートを超えていた――十フィート程度であったガスの本体も、この像に合わせて巨大化していた。そしてあの漣立っていた池の水もまた、ばしゃばしゃと音を立てて不自然な振る舞いを見せ始めた――九大地獄の王子の触腕じみた様子で、池の水が触腕のようにぬらりと、曇天を映した水面から這い出た。それと同時にマッケンジー家の惨劇を綴った日記で登場し、そしてあの残酷極まる動画でも鳴り響いていた『でゅわんでゅわん』という異界的な悍ましい音がより一層大きな音量となって一帯を満たした。
「虫けらよ、下らぬ舞踊は終わったか?」とかの神は冷笑的な声色で問うた。その挑発を受けても、暗い情熱を纏ったガス状の実体は声を荒らげる事はなかった。
「終わったとも、貴様の生がな」
グロテスクな愉悦を見出したこの世のものならざる紫色のガスが忌むべき声でそう言い放つと、それの周囲に浮かぶ木の破片が高速で三本足の神を取り囲んだ。それらは稚児が虫をいたぶるがごとく、どのように攻撃するかを楽しげに眺めているらしかったが、やがて凄まじい勢いで真下以外を取り囲むそれら全てが襲い掛かった。そしてかの神の戦鎚が目視不能の速度で振り回され、時には状況に応じて柄の長さも自在に変化した。背後から襲い来る三〇もの破片を、黯黒のマントで纏めて打ち払い、更なる追撃はその場で回転して戦鎚で防いだ。宇宙的な速度で攻防が続き、残像さえ残さず三本足の神は動き回った。やがて一瞬の隙を突いて包囲網を強引に突破すると、ガス本体に躍り掛かった。渦巻く灰が素早く立ち塞がり、ほんの一瞬だけかの神を躊躇させたが、それでも意を決して柄を縮めた右手の戦鎚から宇宙的なエネルギーのブラストを発射した。だがそれは結局あの灰に防がれ、それを確認したナイアーラトテップは次の手を打とうと身構えたが、破片が弾丸の雨のごとく背後から無数に撃ち込まれ、少し体勢を崩した間に下から伸ばされた水の触腕で強烈な殴打を喰らわされた――かの神は陸の方へ吹き飛ばされて廃屋のあった手前辺りへと激突した。そしてこれら全てはガス状の実体の初撃から数えて〇.五秒にも満たぬ間の攻防であったが、既にナイアーラトテップはこの無自覚の悪意を纏った尤禍の怪物がかなりの強敵である事を悟った。激突した地面から立ち上がっていたところ、あの空間を震わせる厭わしい声が響いた。
「やはり貴様は吾輩が喰らった養分の残り滓に特別な執着を持つか。それ故貴様は隙を晒しおったというもの。ふん、とは言えまともに力を行使したのは久しぶりだな。〈深淵〉におけるあのよくわからぬ異常事象に対処した時の事を思い出したが、あるいは貴様はあれらよりは面白いかも知れぬ」
黯黒のマントが意思を持つかのように震え、被った土を振り払い、今や完全に立ち上がった三本足の神は岸までゆっくりと歩きながら渦巻く悪意の中枢を睨め付け、宇宙的な美声で嘲りの言葉を吐いた。
「奴らなら、以前私が叩きのめしてやった。そして貴様も奴ら同様になろうよ」
「ほう、そうであったか。だが残念な事にな、先程観察しておった時に気付いたが、貴様の鎚が行使しようとした未知のエネルギー・パターンが不発に終わったではないか。思うに空間を飛び越えて何かを成す気であるらしかったが、今や貴様は吾輩の巣に囚われたのだ。図らずしも貴様は、能力の一つを封じられたようだな、無様よ」
「丁寧な解説に感謝でもしてやろうか、下郎よ? それと一つ訂正せねばならぬが故に、心して耳を傾けよ」
ゆっくりとかの神は浮かび上がりながら侮蔑した。また、訂正すべき点があるとしたから、それは厭わしい輝きのガスの興味を引いた。
「言ってみろ」
「取るに足らぬ下郎よ、私が貴様の巣に掛かったとでも? はっ、まさに虫けららしい発言だな。まさか状況がわからぬのか? 全くの逆で、貴様こそ私という鬼神を己の東屋に招き入れてしまったのだ。貴様という獲物が私という猛獣と同じ檻に閉じ込められた事を知れ」
かの神は己の他の側面から切り離され、〈輝かしき捻じれ多面体〉の力で他の側面をこの場に呼び寄せる事ができない。一種の無意識下にあるから、恐らくかの神の他の側面は己の一部を切り離されてしまった事さえ察知できない。しかしそれでもなお、この穢された諸宇宙をこれまでずっと守護してきた美麗なる神は傲れる被創造物を嘲笑っていたのであった。