NYARLATHOTEP#4
ジャマイカ人風の男ナイルズは政府機関からの接触を受け、モンタナの山中へと飛んだ。不気味な水辺の廃屋でナイルズは一人で調査を始めるが、二〇年代に果たしてここで一体何が起きていたのか?
『名状しがたい』注意報――この話は途中から文体がけばけばしくなり、改行が極端に少なくなる。
登場人物
―ナイルズ…ジャマイカ人風の男。
―黒いパーカーの男…とある機関に所属する禿頭の巨漢。
五月:ヴァージニア州、アレクサンドリア、ポトマック川付近
暑さを感じる季節が訪れた。
数日前は冷たい雨が降ったが今日もワシントン近郊はよく晴れており雲も少なく、今現在の温暖さは国外の都市で言えばバルセロナ、ローマ、東京、上海などと比較的近いと言える。
ポトマック川は九時の太陽を受けてきらきらと輝き、涼しい風が穏やかに吹いていた。
川岸の手摺りに禿頭の男がおり、彼は腕を手摺りに置いて凭れ掛かり、川に背を向けていた。
年齢は四〇代ぐらいに見え、黒いパーカーを羽織っている。顔の骨格は角張っており幅が広く、白い肌はあまり日焼けしておらず、彫りの深い眉の下と短いラウンド髭が特徴的だった。
太い首と、パーカーやカーゴパンツ越しに見えるがっしりとした肉体は、六フィート三インチに及ぶ長身の輪郭をフル装備の陸軍兵士のように見せていた。
強面の面にじっとした眼光が合わさってはいるが、しかしその体躯を除けば目立ってはいない。威圧感は出ておらず、周囲の背景に溶け込んでいるような感じであった。
彼は何かを察知して腕時計に目を向け、それから目だけ動かして左方を見渡した――視線を固定させた先、彼の左側から長身の黒人がスーツ姿で歩いているのが見えた。
それを確認するとパーカーの男は川の方へと向き直し、両腕を手摺りに置いて前に凭れた。その隣に黒人もやって来て、同じく前に凭れ掛かった。
「わざわざ来て頂けて恐縮だ」
嗄れ気味の声で禿頭のパーカー男が喋った。二人とも日差しに目を細めている。
「本当に例の件は構わないのか?」
唐突にジャマイカ人風な黒人が切り出した。一瞬面食らって、パーカーの白人は返答した。
「前に言った通り、そっちは俺らで片付ける。ナイルズ、連絡した時も言ったが、今日は代わりの用事をあんたに持って来た」
パーカーの男はカーゴパンツの右ポケットを探り、マイクロSDを取り出すと、川に落とさないよう右に向き直って右掌にそれを乗せた。
「細かい事はこいつに入ってる」そう言われてジャマイカ風な男ナイルズはそれを受け取った。
「掻い摘んで説明すると、例のモンタナの池近辺で行方不明者が出ているらしい。俺もあそこで起きた事件についてよく知らんが」
ナイルズは何の話であるのか思い出し、わざわざこの国が自分に依頼したという事から、重大さを悟って顔を顰めた。
晴天が何故か曇ったかのように錯覚し、禿頭の屈強な男は空を見上げて困惑した。
「おっとっと。とにかくあんたにはそっちの処理を頼みたい。混乱が起きないよう、秘密裏に片付けて頂きたい。本当は冷戦末期のある案件――ってあんたも知ってるんだったな――みたいに俺達の手で片付けられたら最高だが」
彼は微かに歯を食いしばり、眉間に皺が寄った。「我らがアメリカにもあの件は対処できそうにないらしい」
ナイルズは男の無念さを感じ取った。
形はどうあれ、彼は国を守るために働いている者達の一人であり、自分達の手に負えない緊急事態が発生した事はさぞ悔しかろう。
「わかった。私がそちらを処理する」
ジャマイカ人らしき男の目に使命感らしきものが芽生えたのが見え、パーカーの男は安堵の溜め息をついた。
「これでお互い集中できるってわけだ。あんたが見掛けたっていう妙なドイツ人に関する報告も挙がってるし、これから忙しくなりそうだな」と言い終えると、禿頭の男は北向いて歩き始めた。
「それじゃまた」
「ああ。武運を祈るぞ」
去り行く男を見送りながら、ナイルズは自分がどのような実体と対峙するのかを考えた。
二〇世紀前半、当時のアメリカ政府が有害な未知の物質を内陸部で封印した話を以前聞かされていた。
とは言え漠然としており、まずは先程受け取ったSDカードの中身を見なければなるまい。
ナイルズは近くのベンチに座ると、自分のスマートフォンに入っているSDカードを引き抜いて受け取ったものを挿入した。
それから、わかりやすく名前が付けられているフォルダを開いて、その中に入っているPDFファイルを開いた。
慄然たるディバウラーや独りぼっちの女公ドレッドノート、そしてあのグロテスクなリージョンなどここ最近は色々と騒動が起きたが、それらにも劣らぬ厄介事であろうと、ある程度覚悟はしていた。
読み込まれたPDFファイルの中身をPDF読み取りアプリがずらりと羅列し、彼はそれらに目を通した。
二〇分程、ゆっくりと時間をかけてナイルズはファイルを読んだ。簡潔な言葉で纏められているにも関わらず、しかしその内容は実に暗澹たるものであった。
まるでファイルそのものが名状しがたい色彩を纏って内側からスマートフォンを侵食しているかのような気さえした。
簡潔に纏めると、その内容は大体以下のようなものであった。
まず、一九二三年十月二日に隕石がモンタナ州某所の山中へと落下した。隕石である割には、それは奇妙な可塑性を備え…。
【名状しがたいゾーン】
同日、午前十二時:モンタナ州、某所、廃屋
ここもかつては立派な家だったに違いない。長い年月手入れされずに雨風へと晒され、悪趣味な映画に出てくるような山奥の廃屋じみていて、ぱりぱりと剥がれた白い塗装と腐食した木材の壁はかつての面影を微かに残してはいるが、弱々しく生き永らえる老人さながらである。水辺とは言えこの州自体はからっとしているし、本来湿気はそれ程多くはないはずだが、元々は赤かったであろう朱色に色褪せた屋根板を葺いた鋸歯状の屋根は、虫食い穴のように屋根板が何枚も剥がれ落ち、家の壁際に落下している腐った板らしき残骸がその名残りであるらしかった。廃墟と化した家の不快な匂いを除けば、鬱蒼と生い茂る周囲の森林は自然の放つ芳香を持っていた。
しかし二〇年代後半にはこの一帯を貯水池にする計画が持ち上がり、今では家の南十一ヤードのところまで水没していた。ナイルズが読んだPDFによれば、ちょうど水没している辺りが急勾配に円型沈下していったらしく、実際に覗くと岸の形状も不自然に整った弧を描いているのが見てとれた。というわけでナイルズは水辺へと歩いて行ったのであるが、水際に近付くと植物が確かに生えておらず、灰らしきものが土の上に積もっているのが見えた。あのファイルによれば、隕石の落下した箇所がこの付近で、その周囲はここが無人になってから段々と沈み始めたらしい。しかし、具体的にこの地で何が起きたのか――当時、警察だけでなく政府の人間が事情を伺いに来たものの、ここは一番近い家からでも一.五マイル近く離れており、ある晩ここで起きた謎の事件を間近で目撃した者は誰もいなかったらしい。ここに住んでいたマッケンジーというアイルランド系の血を引く一家は隕石落下から一年が経った辺りで次第に周囲との交流が減っていった。古いゲールの風習を持っている一家であったから、元々他の地元住民からも少し浮いていたが、それでもちゃんと友と呼べる周囲との交友は存在していた。だが、一家は次第に衰弱していったようで、精神的に段々と参っていったという証言もあったようだ。恐らくそれは一家の農場での不作と関連があるのであろう。最初は隕石の影響からか、農場の作物はとても瑞々しく育ち、色のいいトマトや豆は豊作を予感させるものであったと一家の友人は証言していた。
しかし収穫してみるとその味は非常に不快で、口に広がる金属じみた吐き気のする風味はぞっとするものであったらしい。恐らくかような不作への落胆こそが、一家の凋落における最初の兆候だったと思われた。そして二五年の二月、凍えるようなその日に不可解な事件が起きた。マッケンジー家が存在する辺りで謎の発光現象が発生していたとの目撃証言が複数あり、その奇妙な光が天に向けて飛んで行ったとの事であった。そして翌日、気になった地元住民達が様子を見に行くと、周囲との繋がりが暫く断たれていたマッケンジー家の農場には地獄めいた変化が生じていた。確かに、この周辺で奇形の動植物を見たとか、不気味な燐光が見えたとか、その手の噂はあったものの、しかしよもやそこまで冒涜的な光景が待ち構えていたとは思っていなかったらしい。そして彼らはその悍ましさのあまり口を噤み、以降この地で起きた惨劇とそれに関連する噂は、ひそひそと小声で話される事とて稀になってしまったようだ。政府は当時最先端の科学的な調査を行ない、判明した危険さに驚愕するとこの一帯を立ち入り禁止とした――無論この狭いコミュニティでは事件の噂が一瞬で染み渡ったため、冒瀆的なシャイターン達の開いた饗宴の跡じみたこの地をあえて訪れようとする者など誰もいなかった。マッケンジー家へと続く唯一の道は封鎖され、やがて年月の経過に伴って草木が生い茂り、本来は道があった事さえも今ではよくわからない。よく見れば一部の木々は周りの木々よりも若いものの、しかしそれら新しい木々さえも、周囲とマッケンジー家との間に護法善神のごとく立ちはだかっている黒々とした古い木々と同じく言いようのない威圧感を放っていた。恐らく健全な精神の持ち主であれば、例え他州から来た旅人でさえも、この地に蔓延る異様さを感じて近付かないと思われた。
ナイルズは改めて周囲を見渡した。森の中にぽつんと佇む廃墟、そして取り囲む背の高い木々の色を映して深緑の深淵じみた色合いを見せる不気味な池。この池も大きさはせいぜい直径三〇ヤードで、ファイルによれば政府は偽の貯水池計画を建てて、そして水没させてから何らかの事情によりここは使用されない事となったようだ――しかし地元での忌まれようを思えば、そうした見せかけの茶番さえ必要だったかどうかという話でもあるが。ポトマック川の清々しい快晴と打って変わって、この地は昼間だというのに嫌な暗さが立ち込めていた。いつの間にか空は曇天と化し、木々の真下に落ちている影などはぞっとするぐらい暗かった。不自然に黒ずんだ樺の木々はまるでこの地に垂れ込める邪悪が漏れ出さぬよう、身代わりとしてそれらを吸い上げているかのようにも見えた。肌寒くなってきたが、ナイルズは山奥に似合わぬスーツ姿で平然としていた。ここは比較的温暖であるため雪は既に溶けているものの、しかし物理的な寒さとは別に謎の寒さが一帯を覆っている。彼は池の中を覗き、隕石のクレーターの中心を見ようとしたが、薄っすらと水没した井戸が見えるのみであった。隕石は井戸のすぐ近く、井戸から一.七ヤード南に落ちたそうだが、大きさの割にはどうにもクレーターは小さく井戸も壊れなかったらしい。しかし落下から数年後、今見ているような円型の沈下が始まったとの事だ。
そしてジャマイカ風な長身の男は身を翻し、再び家の方へと戻って行った。事件の後、アメリカ政府はサンプルを取ると早々に現場を去って追加の現地調査をほとんどせずに、この地を池に沈める事を選んだらしく、家の中にはもしかしたら手付かずの日記か何かが残っているかも知れない事がファイルに記載されていた。そして水がここの一帯に残っている何らかの有害物質を抑える事が可能――計算では百年以上は有効らしい――だとかで、結局そのまま数年後には水没した。ジャマイカ人じみた男は家の近くに咲いている茎と葉が捻じ曲がった奇形の苧環を数秒間見つめ、不自然にもぐずぐずになっている扉を開けた。湿った手触りはかなり不快で、どこか妙な感じがした。それに構わず扉を完全に開け放つと、内部からは強烈な黴の匂いが漂い、通常であれば咳き込んでいたであろう。ナイルズはそれを無視し、扉を開け放ったまま内部へと歩みを進めたが、彼の背後では貯水池が妙な漣を立てていた。