第一章・星夜 (2_2)
なぜ少年に興味をもったのか、その理由を言い表すことは難しい。
少年の様子に違和感を覚えたのは事実だ。だが、河原にいた他の人たちがするように、知らん顔をしていれば済むことだったのだ。それを、わざわざ声をかけ、現在その母親もまじえて、近くの喫茶店に入るに至った理由が、愛稀には自分でも分からなかった。
「ちょうど、暑かったので涼もうと思っていたところで」
少年の母親は言った。愛稀はすでにさっきカフェに行ってきたところだったのだが、声をかけたのは自分なので、あまり我儘は言えない。
少年はずっと黙ったままだった。ウエイターが注文を聞きに来ても何も答えず、代わりに母親がメロンソーダを注文した。愛稀は愛稀で、何を言えばよいか分からなかった。それで、注文が終わり、ウエイターが去っていった後、テーブルにはしばらく沈黙が訪れた。
「……あの、それで私たちに何の用ですか?」
ふいに、母親が訊いてきた。愛稀ははっと、うつむいていた顔をあげた。
「あ、えっと、あの……」
しどろもどろになりながらも、愛稀は率直なところを口にした。
「ご、ごめんなさい。ただ、何となく気になっただけなんです。その子のことが――」
嫌な顔をされるかな、と思った。たったそれだけのことで呼ぶなと、ひょっとしたら怒りだすかも知れないとも思った。けれど、母親は無表情のまま目を落としていた。心なしか、諦めの表情にも見える。
「この子のことを、変だと思ったんですね――」
抑揚のない声で母親は言った。
「い、いえ、決してそんなことは……」
「隠さなくてもいいんです。しかたのないことですから」
母親は愛稀へと視線を向けた。
「重度の発達障害なんです」
「発達……障害――?」
聞いたことのない言葉だった。母親は続ける。
「生まれつき、精神発達が遅延してるんです。普通の人と同じように物事を認識したり、行動したりすることができません」
「そんな――」
そこへ、ウエイターが注文したドリンクを持って来た。愛稀の前にはアイスティー、少年と母親の前にはメロンソーダとアイスコーヒーがそれぞれ置かれた。
「飲んでいいのよ」
母親はそう言って、メロンソーダの方へとすっと手をやり、勧めるようなポーズをとった。少年は、わき目もふらずにストローの包装紙を破いて中身を出し、グラスに差して一気に飲み始めた。瞬く間に中のメロンソーダは空になり、ガラガラガラガラ……という空の音が店内にけたたましく響いた。驚きだった。愛稀たちがひと口も飲む間もなく、少年はメロンソーダを飲み干したのだ。
ストローの音があまりにうるさく、周囲がちらちらとこちらを気にしていた。母親は少年に「やめなさい」と促した。しかし、少年はストローを吸う口をやめようとしない。母親はしびれを切らしたようで、グラスを奪い取るように少年のもとから離した。愛稀はその乱暴なやり方に驚いたが、少年は無表情のままうつむいていた。まるで、母親のことなど目に入っていないようだった。
母親ははぁ、とため息をつき、
「……そろそろ出ませんか」
と愛稀に切り出した。愛稀も彼女も、まだ飲み物をひと口も飲んでいなかった。
会計を済ませ店を出ると、初夏の生温かい風に包まれる。
「それじゃあ、私たちこっちなので」
母親はそう言って、少年をつれて歩きだした。
「……あの!」
愛稀は河原の時と同じように、その後ろ姿を呼び止めた。振り返った母親に向かって続ける。
「よかったら、あなたたちの名前を教えてもらえませんか?」
母親は表情を変えず愛稀の方をしばらく見つめていたが、やがて口を開いた。
「私は平沢 光代といいます。それからこの子は、星夜です」
「平沢……星夜――」
愛稀は少年の名をひとりでに口にした。