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第三章・深淵 (9_2)


「そんなことはありませんよ」


 そう言ったのは愛稀だった。彼女には、そうではないとはっきり言い切ることができた。


「私は知ってます。星夜くんは誰よりも繊細な心で、まっすぐに物事を見ている子です。私はそんな彼のことが大好きです。どうかあなたも、あの子をそんな目で見てあげないで欲しい――」


 愛稀は“真実の深淵”については触れなかったが、それでも自分が見てきた本当の彼について話した。どんな人にもその人の心があり、その人なりの想いがある。誰もそれを否定したり、見下したりしてはいけないと、彼女は感じていた。


「それによ、障害をもちながらも、前向きに生きている人間だっていっぱいいるんだぜ。もちろん、障害の程度や特性によってできることにも違いはあるが、それでも彼らなりの人生を懸命に生きてるんだ。周囲にできることは、そのような当事者のことを理解し、支えてあげることじゃないのか」


「…………」


「もっと言ってやろうか。このまま精神医学の研究が進めば、障害者と認定される人間はもっと増えていくだろう。むしろ、障害と認められない人間が少数になるかも知れねえ。それだけ、健常者と障害者の境界ってのは、あやふやで不確かってことだ。つまり、障害をもつ人間を馬鹿にしてる連中は、自分の欠点を棚に上げて、他者をけなしているようなものなんだぜ。そんなくだらねえ連中に屈してていいのか? 何より、わが子のためだろ。母親であるあんたがしっかりしなくてどうするんだ」


 雷也が喋り終えても、光代は何も応えなかった。しばらく間を置いて、雷也はふと愛稀の方を見た。


「――嬢ちゃん。そのガキ、コイツに返してやんな」


「え? い、いいのかな……」


 愛稀は驚いて言った。今の状態の光代に星夜を渡して問題ないものかと思う。


「いいも何も、俺たちにそのガキをどうこうする権利はねえよ。母親に引き渡すのがスジってもんだろ。それに、子供のことをどう受け止め、どう行動するのかも、コイツ次第だ。これ以上は俺たちの関与できることじゃねえ」


「う、うん。そうだね――」


 愛稀はおそるおそる星夜を手放した。愛稀の手を放れた星夜は、まっすぐに母親の方へと歩いてゆく。その姿を見て、愛稀はかなわないと感じた。たとえどんな人間であろうと、彼にとってはかけがえのない唯一の母親なのだ。


「ま、その気があるんなら、俺たちが言ったこと、もう一度思い返してみな」


 雷也はそう言い残すと、その場から歩きだした。凜と愛稀もそれに続いた。


 愛稀は後ろを振り返る。科学真理研究会のアジトからは、誰も出てくる気配はない。


(これから星夜くんはどんな人生を歩むのだろうか――)


 愛稀は心配になった。この先、自分が星夜と出逢う機会は、おそらくないと思えた。彼にこの先何が待ち構えていようとも、愛稀のうかがい知れぬところの話になるのだろう。気がかりなばかりで、何もできない自分が愛稀はもどかしかった。


(どうにかして、あの子と関わる方法はないものかな)


 愛稀はふと、そんなことを思ってみた。


 そして、この日が事実上、科学真理研究会の崩壊の日となったのであった――。


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