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第三章・深淵 (7)


 7



 確かに、そこは甘美な世界であった。


 この1週間あまりの間、愛稀がいた世界はとても居心地がよく、ずっとここにい続けたいと、心のどこかで願っている自分がいた。しかし、それではいけない、現実を見ろと自分を諭してくれたのは、他ならぬ凜であった。


 愛稀は静かに立ち上がり、手のひらを眺めた。波風の立たない穏やかな心とは対象的に、炎のような熱気がどくんどくんと脈打つのを感じた。


「愛稀――」


 凜が呆気にとられたように声を出す。それを聞いた時、愛稀の心は一瞬にして高ぶった。恋人が自分の名を呼んでいる。そのことが引き金となり、自分が今まさにこの瞬間を生きていると実感するような、喜びに似た感情が胸の中で躍った。


 次に、星夜を見た時、湧き上がったのは怒りだった。四華に有無を言わさず、というよりも、何も言うことも抵抗することもできず、ここに祭り上げられている少年。どうして彼らは、こんないたいけで汚れのない少年を、こんな目に遭わせるのか。彼女の怒りはエネルギーとなり、内面から一気にバーストした。


 凜は全身がズシズシと揺さぶられるのを感じた。直後、足元の支えが頼りないものになった。今立っているこの場所が、文字通り、崩れていくからであった。


「うわっ――」


 凜は思わず叫び声をあげた。しかし、すぐに浮力を感じるがごとく、落ちるスピードがゆっくりになった。見れば、自分だけでなく、愛稀や星夜も、ゆっくりと地面に下りてゆくのだった。愛稀の力であるとすぐに分かった。


 愛稀は怒りを含んだ眼差しをたたえながら、その一歩を踏み出した。また一歩、また一歩と、歩いてゆく。そんな彼女とは対象的に、周囲の人間は蛇に睨まれた蛙のように、戦うことも逃げることもできなくなっていた。夢かまぼろしか、彼ら全員にはっきりと見えていた。愛稀の全身から、青白い炎が上がっているのを――。


 信者たちを押しのけると、呆然とした四華の顔が見えた。愛稀はまっすぐに腕を伸ばし、片手で彼の首をがっちりと掴んだ。そして、その腕をゆっくりと上げる。四華の足がゆっくりと宙に浮いた。


「がが……」

 と、四華は呻き声をあげ、愛稀の手首を掴みもがく。だが、愛稀は表情を変えず、さらに腕を高く上げてゆく。その場にいる人間たちは、その光景を眺めながら、誰ひとり動けない。声すらも出せなかった。ただひとりの例外を除いては――。


「愛稀、もうやめろ!」


 叫んだのは凜だった。


「――はっ」


「そんなことをしても何も解決しない。問題はそんなことじゃない」


「…………」


 愛稀のどんよりと濁っていた瞳が、徐々に光を取り戻してゆく。力を緩めると、四華が足元にどだりと落ちた。背後から再び凜の声がした。


「君は今、この世界に戻ってきたんだ。なら、すべきことは夢を見続けることじゃない。目を覚まし、現実を現実として感じ、立ち向かうことだ」


 愛稀は、自分が未だ、夢の世界から覚めていなかったことに気づいた。徐々に視界が広がってゆく。自分をとりまく光景が冴えた頭にビビッドに入ってきた。足元には、苦悶の表情を浮かべて転がる四華の姿があった。


「四華さん――」


 愛稀は落ち着いた口調で言った。


「あなたの予見したことは間違いじゃなかった。確かに、星夜くんには特別な存在。あの子の魂は、スピリチュアル・ワールドの下層、宇宙の真理により近い空間にいる。何人も入ることのできない聖なる領域――あの子はそれを“真実の深淵”と呼んでいたけれど……」


 四華は目を見開き、ガバッと上体を起こす。


「やはり――」


「でも、あなたのしたことは間違ってる。星夜くんは、決して神様になりたいわけじゃなかった。この世の人々とつながっていたい、それこそが心が閉じ込められて、誰にも触れ合えない彼が本当に願うことだった」


 愛稀は四華を睨みつけ、はっきりとした口調で言った。


「あの子にとって、自分が望まず特別な存在にされること――それは見下され虐げられるのと同じくらい、辛いことだったんだよ。あなたは多くの信者たちを幸せにしたいのかも知れないけれど、そしたらあの子は誰に幸せにしてもらうの?」


 四華はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。


「……それでも私は諦めない。宇宙の真理と人々との橋渡しをするのが、私の使命と信じている。きっと、信者たちも私についてきてくれることだろう――」


「残念だが、ここにあなたについてくる者なんていないよ」


 ふと声がした。見れば、白馬が後ろに信者たちを従えて立っていた。しかし、彼らは顔を隠すことなどはせず、厳しい表情で四華を睨んでいた。


「今、何と言った?」


 四華は信じられないといったふうに言った。


「権威の失墜したあなたについてくる者など、ここにはもういないと言っているのだ」


 四華は辺りを見渡した。自分についていた信者たちは、ひとり残らず弱々しい目を落とすのみで、彼を助けようという意思のある人間はいなかった。四華は再び白馬の方に向き直った。


「……君も私を裏切るのか?」


「裏切る――?」


 白馬はうすら笑いを浮かべた。


「そうではない。これは初めから予定していた行動なのだ」


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