第三章・深淵 (6_2)
じりじりと迫ってくる信者たちに対し、凜と雷也は後ずさった。
「ヤバいな。お前腕に覚えはあるか」
雷也が言った。この状況を楽しんでいるのか、彼の顔は笑っていた。
「腕に覚えはありませんが――」
凜はそう言いながら、その場にかがみこんだ。その行為に何か意味があると、雷也は察知した。
「こいつらは可能な限り食い止める。だが、ひとりじゃ限界があるからな。急げ」
「はい」
足元に力をこめると、彼は勢いよくその場から跳び上がった。常人とはかけ離れたジャンプ力を見せ、凜は愛稀たちのいる高台へと着地したのだった。それは、愛稀ほどではないにしろ、彼も能力保持者であるということの証だった。
雷也はその光景を見て、「ヒュー」と口笛を吹き、そして信者たちへと向き直った。迫りくる信者のひとりの顔面に回し蹴りを喰らわせる。雷也は軽快なステップを踏みながら、挑発的な笑みを浮かべた。
「さあ、来な。俺が相手してやるよ――」
凜は愛稀たちの方に目をやった。愛稀は虚ろな目を落とすのみで、彼を感知する気配はなかった。愛稀と星夜を交互に見て、凜は考えた。ふたりをこの場から逃がしてやりたいが、この状況下でふたりとも助けることは難しいだろう。ともすれば、星夜を置いていくしかない。凜はそう決めて、愛稀だけを連れ出そうとしたが、愛稀と星夜の手はしっかりとつながれたまま、放れなかった。
見れば、大勢の信者たちが階段を上り、こちらへと迫っていた。
「……あの馬鹿、後先考えて行動しろよ」
そんな凜の様子を眺め、雷也は呆れたように呟いた。彼は出来る限り信者たちの侵攻を食い止めていたが、彼の言った通り、ひとりで守りきることは到底できるものではないのだ。凜を助けに向かいたかったが、もはやそれはできない。襲いかかる信者の気配を感じ、雷也は咄嗟に腹に肘打ちを浴びせた。彼自身も、自分の身を守るので精一杯なのだ。
凜は行く手を阻まれながらも、それでも冷静だった。焦ることが無意味であると、彼は知っていたのだ。凜は、未だ目覚めることのない愛稀を見つめながら、静かに、けれども力強く言った。
「愛稀、今いる状況から目をそらすな。戦え――!」
――
「凜くん――!?」
自分の恋人が近くにいると、彼女は直感した。ガタッと音を立て、彼女は椅子から立ち上がった。
「――私、還らなきゃ」
「待ってください」
星夜は歩きだそうとする愛稀の手首をがしっと掴んだ。愛稀が振り返ると、星夜はうつむきながら言った。
「あんな世界のどこがいいんですか。あんな不確かで、あさましさの渦巻く世界にあなたは還るというのですか」
「うん。凜くんが助けに来てくれたから」
愛稀はきっぱりと言った。
「……あなたの恋人という人は、そんなに素晴らしい人なんですか。あなたにとって、そんなにいい人なんですか」
星夜の声は震えていた。愛稀には星夜の気持ちが痛いほどに分かる気がした。こんなところで、家族も友人もなく、ずっとひとりで生きてきたのだ。そばにいてくれる人がせっかくできたのに、それを失うのはどれほど辛いことだろうか。けれども、愛稀の決意は変わらない。彼女は星夜の掴む手を振りほどき、星夜の方を向き直った。
「私にとって一番の人だよ」
星夜はしばらく俯いたまま黙っていたが、やがてぱっと顔をあげ、満面の笑みを浮かべた。
「……そうですか。仕方ありませんね」
その笑顔に、愛稀の心はいささか救われた。彼が悲しい表情を浮かべていたなら、彼女もまた深く悲しい気持ちになったであろう。
「本当にごめんね。また遊びに来るから」
愛稀の言葉に、星夜は首を横に振った。
「いいえ、おそらくそれはできないでしょう。今回あなたがここに来られたのは、偶然にも同じ状況に立たされ、僕とあなたとの魂の波長が一致したからです。もうそんな奇跡は起きないでしょう」
「……そうなの。じゃあ、星夜くんはまたひとりぼっちになっちゃうんだね――」
愛稀は悲しげに言った。
「いいえ、実は僕にはひとりだけ、ここに遊びに来てくれる友達というべき子がいるんです。今は事情があって来られないんですが、僕のことを思いやってくれる、とてもいい子なんです」
「そうなの?」
愛稀は驚いた。他にも、この場所に足を踏み入れられる人間がいると、初めて知った。
「あなたを引きとめたのは、もっと色んな人とお近づきになりたいという、僕の我儘でした。だから、気にしないでください」
「でも良かった。あなたがひとりぼっちじゃないと分かって――」
愛稀はそう言って、星夜を抱きしめた。そして、彼の耳元で囁く。
「じゃあね、星夜くん」
彼女の虚ろだった目がぱっちりと開かれたのは、その直後であった――。




