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第三章・深淵 (5_1)


 5



 空気の流れが変わりつつあると、愛稀は感じていた。本来滞留していた空気に、新たな風が吹きこまれているようだ。まだマイナーな変化だが、それはいずれ大きな変革をもたらすかも知れない。そんな気配を彼女は感じていた。


「向こうで何かが起こっているみたい」


 愛稀は呟いた。


「そのようですね」


 目の前の少年が短く言う。


「――何が起こっているんだろう」


「さあ。でも安心してください。向こうの世界で何が起こったにしても、ここにいる限り、影響はありませんよ」


 少年は微笑んでみせた。彼女の精神――魂と言い換えてもいいが、それは今、現実世界を離れ、スピリチュアル・ワールドの下層といえる場所に存在していた。彼は、この場所を宇宙の真理の深みに位置する空間として、“真実の深淵”と表現していた。彼の魂は、遥か昔に肉体から遊離し、現実世界を離れ、この空間に閉じ込められていたのだ。そして彼こそが、この“真実の深淵”の住人、平沢 星夜その人であった。


 愛稀がそのことを彼から聞いたのは、いわゆる現実世界の時間の観点からいって、およそ1週間前のことである――。



……



 それは、四華の策略にはまり、彼に拉致監禁される直前――。四華に身体も心も支配されそうだという時、彼女はどこからか声を聞いた。そして声の導く方へと、自らの意識を飛ばしたのであった。


 誰に呼ばれているのか、どこに向かっているのかも分からず、導かれるままにやって来たが、そこに待っていた人物を見て、誰なのかはすぐに分かった。自分を導いてくれた人――それは星夜だったのだ。


「……あ、あなた、どうして喋れるの?」


 愛稀はつまり気味に声を出した。


「驚かせてしまいましたか?」


 少年は笑って立ち上がり、愛稀の方へと歩いてきた。そして、手を差し伸べてくる。


「改めましてこんにちは。平沢 星夜といいます」


 愛稀も無意識のうちに星夜の手を握っていた。


「詳しい話はテーブルの方で」


 未だ呆気にとられたままの愛稀を、彼はテーブルへと誘導したのだった。


「……ねえ、ここは一体どこなの?」


 愛稀は辺りをキョロキョロと見回しながら言った。真珠のような色彩の空間に、テーブルと椅子がぽつんと置かれている。テーブルに触れてみると、それは幻ではなく、ちゃんとそこに存在していた。椅子を引き、座ってみる。やはり、ちゃんと座ることができた。しかし、愛稀にはこれらは実体ではなく、誰かの意志で具現化されているような気がするのだった。その“誰か”というのは、おそらく問うまでもないだろう。その人物は、愛稀の向かいに座り、穏やかな微笑みを浮かべている。愛稀はさらに言葉を続けた。


「……空気も変な感じ。私がこれまでいたところとは、まるで雰囲気が違う」


「そのはずです。ここは、普通の人間には来ることができない世界ですから」


「そうなの?」


 愛稀は驚いた声をあげる。星夜はふふ、と可笑しそうに笑った。


「ここは、あなたがたがスピリチュアル・ワールドと呼んでいる空間の中でも、下層に位置する、密な波動をもつ世界なんです。常人には入ることができません。そして僕は、ここの住人なんですよ」


「――どういうことなの?」


 愛稀は質問を重ねた。星夜はそれに答えた。


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