第二章・妄信 (5)
5
羽交い絞めにされた際、発動した力は突発的なものだった。愛稀のスピリチュアル・ワールドに関わる力は強く、衝動的に現実世界でも同じ立ち振舞いをすることが可能なのだった。ただ困ったことに、自分の意思でその力をコントロールできないのだ。
ともかく、愛稀は星夜を連れて廊下を走っていた。信者たちの追手から何としても逃げたかった。
2度目の角を曲がろうとした時、愛稀のすぐ横をヒュンと何かがかすめた。何だろうかと見て、愛稀はギョッとした。壁にナイフが刺さっている。愛稀は壁を背にして立ち、振り返った。そして分かった。信者たちは全員が手にナイフを持っていたのだ。
またしても信者がナイフを投げた。ナイフは星夜に向かって飛んでくる。
「危ない!」
愛稀は自らの手で星夜をかばった。
「ギャッ!!」
悲鳴があがる。彼女の手の甲にナイフが突き刺さっていた。もう片側の手でナイフを抜くと、傷口からぼたぼたと血が滴り落ちた。愛稀は信者たちを睨みつけた。
「何をしているのですか!」
怒声がして、群衆をかき分けながら四華が姿を現した。そして、先ほどナイフを投げつけた信者を睨んで言った。
「もしものことがあったらどうするのですか。考えなさい!」
四華に怒鳴られた信者は、頭を下げすごすごと引き下がった。四華は表情に穏やかな笑みを戻し、愛稀たちの方を向いた。
「これはどうも失礼しました」
「あなたたち……私たちを何だと思っているの?」
怒りのためか、手の痛みを堪えているためか、愛稀の声は震えていた。
「手荒なことをしたのは謝ります。しかし、素晴らしい発見をしました。あなたの能力は進化している。スピリチュアル・ワールドの事象を、この世界にここまで反映できるのですから。しかし惜しいかな、まだ不完全なようだ。あなたは自分で自分の力をコントロールできていない」
四華は両手を広げ、愛稀たちの方へと歩み寄ってきた。愛稀は咄嗟に身構えて言った。
「来ないで。もう一度言うけど、私はあなたたちに協力するつもりはないし、星夜くんを犠牲にするつもりもない。私たちは、もうここから出ていくから」
四華は軽くため息をついた。
「……そうですか、それは残念です。しかし、もう遅いようですね」
「何を言って……」
ここで愛稀は気づいた。妙に頭がぼうっとなり、目がとろんとしてくる。手の甲の傷の痛みさえ徐々に遠のき、ズキズキと脈打つ感触だけが残った。眠気はまるでベールのように徐々に彼女の全身を包んでゆく。まるで睡眠薬でも飲まされたようだ。
(まさか……でもどこで)
愛稀はふと考えて、そしてはっとした。
(紅茶……!)
紅茶を飲み干した際、白馬が妙にニヤニヤしていた理由がようやく分かった。あの紅茶は、初めからこれを見越して出されたものだったのだ。しかし、気づいた時にはもう遅かった。愛稀は立っていることも億劫になり、とうとうその場にへたり込んでしまった。
「薬が効いてきたようですね」
四華が微笑みながら歩いてくる。愛稀は彼の顔を見上げていた。光の加減のせいか、彼の笑みはとても不気味で邪悪そうに見えた。愛稀の前で、四華は腰を落とす。そして手を出して、愛稀の頬や髪を撫で始めた。彼女は虫唾が走るのを覚えたが、睡魔に完全に支配され、逃げることすらできない。四華は艶めかしい声で囁いた。
「一歩踏み出せば分かるはずです。我々のやろうとしていることが、どれほど素晴らしいことなのか――」
四華はそれから、愛稀の顔に自らの顔を近づけた。唇と唇の距離が近づいてゆく。唇と奪おうとしていると、愛稀は察した。
(凜くんともしたことないのに――。嫌だ、こんな奴にファーストキスを奪われるなんて)
愛稀は強く思ったが、抵抗する術はなく、四華に自らの唇を許してしまうことになる。意識がふうっと、四華の方へと傾きかけた。人を導く立場にある四華は、そのような魔性の力を自ずと身につけていたのだった。
(だめ……! こんな奴に身も心も奪われちゃ)
愛稀は強く願った。そんな彼女の脳裏に、ふと声がした。
――大丈夫です! あなたをこの人には奪わせません――
(だ、誰……?)
聞き覚えのない声だった。声はまだ続く。
――僕はあなたの味方です。さあ、こちらへ来てください。この人に意識を奪われる前に、早く!!――
声の正体が何なのか、果たして信用していいものなのか、考えている余裕などなかった。愛稀は脳内で声のする方向を探った。そして、眠りにつく間一髪で、彼女の意識はその声の方へと飛んだ。




