第一章・星夜 (7)
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道が続いていた。なだらかなS字型のカーブを描くそれを、愛稀は歩いてみた。辺りには景色は、現実的・非現実的な物体が混じり合った、何とも奇妙なものであった。
愛稀は自分が夢の世界にいると自覚していた。しかし、これが単なる夢ではないとも気づいていた。触覚や嗅覚といった五感がビビッドにはたらいている。まずここが、単なる眠りの世界とは異なる点であった。
愛稀が自身の身体に有する染色体DNAには、SDR配列と呼ばれる特殊な配列が含まれている。それにより、彼女はスピリチュアル・ワールドと呼ばれる別世界に、自身の精神をダイブすることができるのだ。このことに気づいたのは、当時K大の教授であった石山から、研究の被験者に選ばれたことがきっかけであった。愛稀と凜は、同じ能力をもった者どうしとして、石山の思惑に振り回されることとなったのだ。
歩いていると、傍らに「1」と書かれた標識が見え、それがハイウェイを疾走するがごとくのスピードで通り過ぎていった。またすぐに、「2」という標識が見え、やはり通り過ぎてゆく。標識の数字は徐々に大きくなっていった。「12」という数字が同じように通り過ぎる。すると、次に来たのは、再び「1」であった。標識は、1から12までの数字の並びを延々と繰り返していた。
愛稀はこの数字の羅列に、アナログ式時計を連想した。輪を作る1から12までの並びの中を、長針と短針は永遠にぐるぐると回り続ける。愛稀は言いようのない不安に襲われた。抜け出せない輪廻の中を生き続けるような、そんなやるせない心地になった。
彼女はふと、抜け道を発見した。地獄に仏とばかりに、彼女はその方へと歩を進めた。しかし、その道の向こうも、安心できるものではなかった。その先は暗黒に包まれていた。盲目の視界の中を、不安を紛らわすようにただ歩いてゆく。耳には轟音が聞こえていた。ザーという、昔のテレビ放送であった砂嵐のような音が、耳元で鳴り続けている。よくよく聞いてみると、その音の正体は無数の人の声であった。「変な子」「邪魔な奴」「鬱陶しい」「あっちへ行け」といった罵詈雑言で、声は埋め尽くされていた。自分が非難されているようで気分が悪くなる。
ふいに両腕に何かが絡みついた。見ると、暗闇の中に螺旋状の鎖が妖しげな光を放っている。その鎖は強い力で愛稀を引っ張った。
「わっ――!」
強力な磁石に吸い寄せられるように、彼女は壁に激突した。スライムのようなグニャリという艶めかしい感触が、背中を襲う。鎖が彼女の腕を引っ張るにつれ、グモモモモモ、と身体は壁の中へとめり込んでいった。助けて、と叫ぼうとしたが、声が出ない。
(嫌だ、誰か助けて……!)
そう念じた時、目の前に誰かが現れた。暗闇にもかかわらず、その姿はくっきりと鮮明に見える。愛稀はそこに現れた人を見て驚いた。そこには平沢 星夜の姿があった。初めて逢った時、彼は世界の何にも関心をもたないような目をしていた。だが、今は光を宿さない漆黒の瞳で、けれどもまっすぐに愛稀のことを見つめている。その目つきに、愛稀は凜と近いものを感じた。
星夜が腕を伸ばしてくる。その腕は、まさに愛稀の手首を掴もうとしていた。
(もしかして、私を助けようとしてくれているの?)
彼が助けてくれるのなら、こんなに嬉しいことはなかった。愛稀は安堵し、その瞳をゆっくりと閉じた――。
――
目を開けると、現実の世界に戻っていた。
「…………」
まだ辺りは暗かった。愛稀はベッドに身体を横たえたまま手を伸ばし、スマートフォンを手に取る。そしてそれを、顔上に掲げディスプレイを見た。時計は3時を少し過ぎたところだった。愛稀はそのまま手をばたんと下ろし、暗闇にぼんやりと映る天井を見上げた。
自分を見つめる星夜の表情を、はっきりと覚えている。スピリチュアル・ワールドで見た光景や経験は、決して無意味なものばかりではなく、それどころか未来に起こることを暗に示している場合も多い。
(あの子にまた逢える機会も近いのかも――)
愛稀は、彼との出逢いが決して一時のものではない、そんな予感を抱いていた。