第五話 洗濯屋のユーちゃん
第五話 洗濯屋のユーちゃん
そこはとても大きな洗濯機と乾燥機があって、異常な蒸し暑さの中でぐったりと硬く絞られた衣服を人が解きほぐす場所だ。
ヴィンセントLSS(株)は俗に言うリネンサプライ業を営んでいる。
分かりやすく言えば洗濯屋で、病院やホテルなどからシーツや着衣を回収して洗濯する洗濯業者である。リネン屋とも呼ばれる業種だ。
動きやすくて涼しい服を仕事着にして、唸りを上げる巨大な洗濯機と乾燥機に囲まれて、洗濯機でねじられた入院着を一枚一枚解きほぐしていく。
ユーリスは額に浮いた玉の汗を首から下げたタオルで拭いて作業を続ける。
この作業はバイトとパートが主に行っていて、蒸し暑いのと足と手と腰と背中が痛くて痛くてぶっ倒れたいと思った時にはゲロを吐いて熱中症ということがよくある。
ユーリスももちろんのことその例に漏れず、初日の午前中に倒れた。
よくあることなので手早く治療。その後は休憩室のマットレスで吐き気と戦い、翌日から倒れないように仕事をする日々。
バイト開始から二週間、ユーリスはようやくパートさんの半分くらいの仕事をこなせるようになっていた。
「ユーちゃん、次こっちのソーゴーさんの入院着お願いね」
「はい、ただいま」
ペットボトルに入れたお茶を飲み、答える。
なんてはしたないと思っていたものの、これが無いとまた倒れるし、カップに入れる時間は『無駄』とされるのが現代重商主義というヤツだ。
解きほぐすと今度は洗濯後のタオルをビニール紐でくくる作業が始まる。汗が落ちてはいけないので頭にタオルを巻いて行うのだけれど、隣の六本腕女子の作業効率に並べる気がしない。
さらりとした風が、開け放たれたシャッターから吹き込んでくる。海の匂いが仄かにある。
ここから少し歩けばフォーシエット市の海であるアカザ浜がある。海の匂いは、臭いに分類されるのだけど、ユーリスはそれが嫌いではない。そう言うと皆に怪訝な顔をされる。
遠くから見たらあんなに綺麗なのに、近づけばそうでもない。
よくある話だけれど、申し訳程度に作られたアカザ海浜公園は嫌いじゃない。釣り人が青魚をくれたり、スケートボードという台車で遊ぶ若者たちもなかなか人情味がある。
ぼんやりして「水分が足りないのだわ」と呂律が回るか声に出して確認してからお茶を飲む。
ジリリリリリ、とベルが鳴ったらお疲れ様です。
間違っても「ごきげんよう」だなんて言ってはいけないので、少し窮屈だ。
タイムカードを押したら外はすっかり夕暮れで、八時間というのは凄く長いものだな、と感じ入る。
文明発展度の低い世界では八時間黙々と働くなんてことはありえず、この世界の労働には驚かされたものだ。
「あの子、全然ダメだな」
「ああ、いいとこの子って話だから」
事務所の出入り口前にある喫煙所で男性社員二人の話し声が聞こえた。
「ファンタジー系は全部ダメだ。あいつら文字は読めねえし、一般常識三級取んのに一年かかって早いとかってどんだけ原始人だよ」
「やめとけよ。補助金入るから社長も取ってんだし損は無いだろ」
「仕事できねーヤツがいると士気が下がるぜ」
「俺らの仕事は教えりゃできるだろ」
「教えてもできてねえって。二週間やってできねえんなら辞めりゃいいのによ」
ユーリスは一瞬だけ頭の中が白くなった。
こんなに悪意を持つ言葉を聞くのはこの世界に落ちてから初めてだ。
「それは言い過ぎだって。せめて二か月は見ろよ」
「無理無理、掛け算もできないヤツがまともな社会で生きていけるかよ」
何やらこれ以上聴いても無駄な会話のようである。
ユーリスは背筋を正して歩み、彼らの目に入る所で立ち止まる。
「お疲れ様です。ごきげんよう」
にっこりと微笑めば、彼らは気まずい顔でそれぞれに挨拶を返した。
さあ、帰ろう。
とりあえずは、ユーリスらファンタジー系と呼ばれて馬鹿者の未開人扱いされる落下者には難関だという『一般常識三級』の取得を急がねばなるまい。
「ふふ、社交界を思い出します」
武門のお家、辺境伯、この二つを揶揄して色々と言われたものだ。ひどい時には死んだ荷馬の丸焼きを饗されたこともある。
作法芸事舞踏学問、たとえファンタジー(笑)世界だとしても全てを修めるだけの努力を怠らないのは理由がある。
「ぜっったい、凹ましてさしあげます」
こんなに悔しいのは七歳の皇帝生誕舞踏会の時以来だ。
歯を食いしばって、視界が滲むのは潮風のせいである。
ユーリスの行動は早かった。
地下鉄の化粧室で顔を洗って軽くメイクを整えたら、すぐさま端末で一般常識三級のテスト概要を調べる。
端末の操作は難しすぎて投げ出しそうになるが、何度もフリック入力に失敗しながら続けてみれば、高度すぎる計算式が例題で、またしても泣きたくなった。
ユーリスの頭の中でこんな時は高野に頼るべきだと結論は出ていたのだけれど、なんとはなしにこんな顔を見られるのは嫌で、蘇土にも今の顔は見せたくなくて、アンジェリカは心配しすぎて鬱陶しい。
「で、アタシのとこに来たってえの?」
本日は金魚柄のアロハシャツでキメているオカマッドこと良太郎は呆れ顔で目を腫らしたユーリスにオレンヂジュースのペットボトルを差し出していた。
時刻は夕暮れを過ぎてそろそろ暗くなるというところ。
朝昼勤務の良太郎は今しがた仕事を終えて今日はどこへ寄り道しようかと考えていた所にユーリスからメールが入り、地下鉄カブキ町駅で待ち合わせていたのだ。
「だって、ミスタマツドは一般常識資格をお持ちでしょう?」
「あー、落ちてきた時の能力試験で取ったわね。駅で話すのもアレだし、ちょいとご飯でも食べながら話しましょ」
フォーシエット市の鉄道全線の乗継が可能なカブキ町駅はいつだって人だらけだ。
「はい、ご案内願えますか」
「エスコートするわよ。アタシのキャラじゃアないけどさ」
ユーリスの歩調に合わせてゆっくりと横に並ぶ良太郎は、どこからどう見ても男前だ。なのに、オネエである。
「あ、それからさ、ミスタってのやめましょ。お尻が痒くなるから。良太郎でもリョーでもマツドでも、オカマッド以外だったらなんでもいいわ」
困った顔でそう言う良太郎に、ユーリスは耐え切れず吹き出した。
「ふふ、ではリョウ様と」
「様はいらないわ」
「はい、リョウさん」
問題警官じゃないんだから、と良太郎は言いかけて止めた。この世界でそれは通じない。
地下鉄カブキ町駅から地上に出ると人の多さからやっとのこさ解放、と思った所で人だらけの街がある。
ユーリスは口を開けてその光景に見入ってしまった。
光の河のような道路、けばけばしいホロネオン、どこからともなく漂う料理と酒と何かの悪臭の混じった臭い。そこかしこで様々な種族が様々に行きかっている。
「ユーちゃんは夜のカブキ町って初めてか。そりゃ驚くわよね。アタシも、最初はミナミの御堂筋みたいって思ったもの」
「この目で見るのとテレビとでは違いますわね……。わたくし、こんなに人のたくさんいる所を見るのも初めてです」
「とりあえず、ご飯食べさせて。贅沢ってほどじゃないけど、たまにはセンターの食堂以外でも食べたいのよね」
「よしなに」
「なにそれ、いいわね。アタシも使おうかしら」
からかわれたと思ってきっと睨もうとしたら、良太郎は笑っていて、それはまるでどこかの王子様のようで、なんだか冷静になったユーリスは小さくため息をついた。
からかいの言葉は、悪意ではない。
社交界ではそんな口のきき方をすれば悪い噂で酷いことになるが、平民、ひいてはこの世界でそれは一般的ではない。からかいを許しては家門に泥を、なんて構える必要はないのだ。
「およしになさるのが無難ですわね。どうにも、わたくしの感性はズレているようで、あまり評判は芳しくありませんわ」
「あらら、似合わないこと言うわね。自虐的なのはキャラじゃアないと思うわよ」
良太郎の先導で向かったのは三中筋商店街と呼ばれている一画で、昼間は金物などの商店が並んでいるが夜になると食事の屋台が多く立つ通りである。
ビニルカーテンで仕切られた様々な屋台には、ユーリスにも良太郎にも馴染の薄い世界線郷土料理が多い。
見とれていたユーリスは向かいから来る人影とぶつかってしまう。
「あら、失礼」
「ヨイ、気ニスルナ」
ユーリスがぶつかったのは一つ目の軟体生物種で、見る人によってはバケモノか神様扱いされるような種族だ。センターで慣れたためか、特に悲鳴を上げるほどではなかった。
「気をつけなさいよ。もうちょっと先に行ったらうどんの美味しいとこあんのよね」
「うどん? ですか」
「えーと、ヌードル? アタシの地元にあったのと似てんのよ」
懐かしい味。みんなが求めていて、どれも少し違う。
「そうですか、わたくしの故郷にもミナンという果実がありました」
「ん、みかんみたいなのかしら? オレンヂで中身はプチプチしてて」
「ええ、オレンヂとよく似ています」
よく似ていて、少し違う。
なんとなくしんみりして、二人で黙って歩いた。
三中通りの屋台はみんなの懐かしいものに少し似た味があるのかもしれない。
うどん屋はビニールカーテンで仕切られた大型屋台だ。
三中通りにはよくある形のもので、カーテンの中には折りたためるタイプの安っぽいテーブルと丸椅子が並んでいる。
十人も入ればいっぱいの屋台は混んでいて、カウンター席に二人分の隙間を作ってもらってなんとか潜りこむことができた。
「アタシはキツネうどんでネギじゃなくてスーリラ多めでお願い」
「わたくしも同じものを」
「イッ、キツネ二つ毎度ォ」
店主の「はい」は早すぎて「イッ」と聞こえる。
亀の亜人種である店主は、その鈍重そうな外見とは裏腹にきびきびと動く。亀は亀だがワニガメで、牙は鋭く尖っている。うどんなんて柔らかいものを食べそうにないタイプだ。
セルフの冷水器から良太郎がグラスを二つ運んだ。
「で、さあ、勉強しましょっ、てな話なのよね?」
「そうなのですけれど」
高野辺りなら喜んで参考書だとかをくれそうなものだが、なんとなく気持ちは分からないでもない。
「とりあえずさ、あの資格ってアタシみたいに学生やってた落下者なら三級か二級は取れるようにできてる感じよ。なんだけど、アタシって何年学生やってたと思う?」
「五年ほどですか?」
ユーリスは顔に力を入れていて、気遣いを含めて考えたご様子だ。
「アタシも高野さんもなんだけど、アタシたちの世界ってごく普通に十五年くらいは学生するのよね」
「は、じ、十五年です、か」
「うん、アタシも十年目になるのかな。六歳から十五歳は最低でも学生やるんだけど、だいたいは十二年以上ってとこかしら。高野さんは大学いって警察学校とかだったら二十年くらいはやってることになるのかな」
高野は元警察官だと言っていた。詳しい内容は知らないが、それくらいの計算だろうか。
「……」
「三級ってのが十年くらいの勉強の内容だと思うわ。二級は十二年分くらい」
言い換えれば、三級は中学卒業程度、二級は高校卒業程度の学力ということだ。
フォーシエット市ではこのように資格社会がまかり通っている。
落下者の種族は様々で、その平均寿命と種としての成熟速度があまりに違いすぎる。極端な例ではエルフとグリーンスキン目ゴブリン種とではその長短で十倍近い。故に、年齢による義務教育が課せられなくなってしまった。
子供たちはそれぞれに私塾に通って一般常識三級か、素養があれば二級を取得してから就職するか専門技術系の講習を受けるのが一般的である。
「ああ、道のりは遠く」
がっくりと肩を落としてから、つんと漂う出汁の香りにユーリスは顔を上げた。海の魚をどうしてか連想させられる匂いだ。店に漂うものより濃い。
「あい、キツネお待ち」
「ありがと。ユーちゃん、カウンターではこうして自分で取るのよ。熱いから気をつけて」
どんぶりから漂う匂いがそれだと気づいて、ユーリスは熱さを覚悟して差し出されているどんぶりを取った。
「あ、熱いけどいい匂い」
どんぶりの熱さに驚いて、スープの中にパスタがあるというものにも驚かされた。
「関西風よ、関西風でおつゆが透き通ってるでしょ。センターのって関東風でおつゆ黒くて苦手なの。それじゃ、いただきます」
「あ、ではわたくしも。いただきます」
箸がダメだと言うと店主は快くフォークを出してくれた。他のお客はみんな箸で食べていて、少し気恥ずかしい。
暑いさ中に熱いものを食べるのもどうかと思うが、この匂いならすいすいと口に進む気がする。お客はみなずるずると音を立てていて、マナーは悪いのに食欲はそそられた。
ユーリスはフォークでうどんを巻くのに苦労しつつも一口目をぱくり。
初めて食べる、初めての味。
シキ魚の削り節で取った出汁に醤油などを混ぜて作るスープに、小麦の麺。パスタよりも太くてずんぐりした麺はぷるりと絶妙な歯応えである。
「美味しい」
「アハハ、良かった。稲荷寿司追加でお願いしまーす」
「イッ、稲荷イッち」
やはり店主は早口だ。
「あの、わたくしも同じものを」
「イッ、稲荷ィもイッち」
ユーリスは油揚げを食べてその甘さに酔いしれてから、良太郎を含めた皆が箸でひょいひょいと食べてるのに気付いた。
小皿に乗った稲荷寿司がやって来るとその様は優雅ではないが粋というヤツで、フォークで刺してしまっては稲荷寿司に悪い気までしてくる。
「お箸、練習しないといけませんね」
「フォークでうどんは不恰好ではあるわね」
食べ終えたら、ごちそうさまの後でお会計。二人合わせても千二百円というのも良い所だ。
店を出ると夜闇は深まって、ネオンはそれに呼応するようにギラギラと輝いている。
赤い燐光を放つ瘴気中和剤噴霧塔の隣で大道芸人の魔術師が炎で作られた妖精を遊ばせていた。あの妖精は、炎を妖精の形にした人形で実際のモノとは異なるそうだ。
遠くからはバンドネオンで奏でられる演歌の物悲しい音色が微かに響いていた。ユーリスの故郷、ドナイタシス伯爵領の祭りはこんなに賑やかではなかったけれど、それに近い雰囲気がある。
「夜はお祭りみたい」
「ハハ、都会ってそういうとこみたいね。アタシらみたいな田舎者には似合わないかしら」
「ふふ、田舎者、そうかもしれませんね」
ふと、この世界で生まれ育ったという蘇土のことを思い出す。ここで育つとあんなに大きくなるのかしら、と。
駅に向かって歩いていると、対面から誰かが走ってくる。人にぶつかりながらで、良太郎の肩にぶつかってこけた。
「ちょっと、気をつけなさいよ」
こけたのは若い女で、露出の激しい服を着た『遊んで』いそうな女だ。
息をきらせて立ち上がろうとした女だが、追ってきたと思しきスーツ姿の男がその手をつかんだ。
「ひっ」
「逃げてんじゃねえよ」
通行人が見ているに関わらず、その男は女を平手で打った。
良太郎は眉をひそめるが、スーツ男は腰に騎士剣を佩いていて、スーツだってロクデナシが好んで着用しているものだ。
「リョウさん、これは」
「痴話喧嘩だったら口出すモンじゃないわねえ」
騎士剣は銃刀法に違反しそうなものだが、フォーシエット市では銃は厳しく規制されているが刀剣の類は書類一枚で大抵は許可書が発行される。大型の斧槍ともなれば話は別だが、刃渡り一メートルまでの刀剣なら問題はまず無い。
「おい、見てんじゃねえぞ」と、ヤクザ男。
通行人たちは無視するものがほとんどだ。ヤクザと情婦の間柄に口を出そうだなんて物好きはそうそういるものではない。
「女子に手をあげるとは何事ですか」
ユーリスは、そうそういないタイプである。
「お嬢ちゃんよ、大人のことに首突っ込むんじゃねえぜ」
ヤクザ男は掘りの深い顔つきで、ユーリスと似た人種であるらしい。なかなかの男前な人間種ではあるが、その身に漂う荒んだ空気がそれを台無しにしていた。
「騎士剣を佩いておられる方にあるまじき振る舞いです」
ぴしゃりと言い放つが、ヤクザ相手にはズレた言葉のはずである。
なのに、男はその顔にどす黒い怒りを浮かべた。
「こんなもん人をぶっ叩く道具じゃねえかよォ、お嬢ちゃん」
「わたくしとて武家の娘です。あなたが騎士であることくらい分かりますとも」
手の剣ダコ、鉄靴を履き慣れた者に特有の足運び。なによりも、騎士剣を佩いて動くというのは難儀だというのに、彼はそれを苦にしていない。
「騎士、ねえ。クソが、お嬢ちゃんよ、ヤクザ舐めたらあかんぜ」
男は、腕を握ったままの女の腹に蹴りを入れた。
他者への脅しとして自身の身内へ暴力を振うのはヤクザがよく使う手口だ。世界線が変わっても同じことをするのだから、法の網の目をちょろちょろしている連中の様式美なのかもしれない。
「およしなさい」
「あ、ちょっとした痴話喧嘩だぜ」
今度は女の頭を殴った。ひどく鈍い音がして、女は地べたに突っ伏して頭を押さえてか細い息を上げている。
「こいつはよ、こうしてやんねえと分からないアホの売女なんだ。男にこうされねえと右も左も分からねえような、よ」
「迷子の子供のような顔でよう言うものよ」
止めようと手をつかもうとしていた良太郎の動きが止まる。ユーリスの雰囲気は一変しており、威厳すら漂う姫の凛とした姿があった。
「ガキが知ったような口を」
「騎士の礼をお忘れか。騎士剣を佩くことを止められず無頼の振る舞いとは見るに堪えませぬ」
ヤクザ男は女から手を放して、ゆっくりと騎士剣の柄に右手を伸ばした。
ユーリスはヤクザ男を睥睨したまま動かない。
「抜いたら蹴りにいくから逃げて」
そっと良太郎がユーリスの耳元で囁けば、薄く笑って彼女は応える。
いつもならこの時点で蹴りに行っていたというに、今は、ユーリスの許しがなければ動けないような気がしている。これでは番犬だ。
「どっかの姫様よォ、舐めくさったこと後悔しやがれよ」
「頭が高いわ、下郎。このユーリス・ドナ・ドナイタシス、かような引鉄(ひきてつ、包丁を含む刀剣の意)など恐れぬわ」
「言うたな、ツェン・リの北方騎士の剣を引鉄と」
「無頼が騎士の真似事とは片腹痛い。ドナイタシス伯爵家末姫の首、引鉄で落とせるものなら落としてみられよ」
周囲の人々も、この時代がかったやり取りに反応できないでいた。芝居のように見える口ぶりだが、そこに張りつめる殺気は尋常ではない。
ヤクザ男、名をツェン・リ。
第115世界線からの落下者である。ツェンという名前だけの平民であったが、北方の騎士に弟子入りし「リ」の姓を賜った。彼の世界は剣と魔法と、劣悪とも呼べる厳しい自然環境と危険で獰猛な魔獣の世界だ。騎士とは、城塞の外にいる魔獣を倒す者であった。
「覚悟せい」
ユーリスは震えそうになる足に力を入れた。どうしていつもいつも、こんなに勝手な言葉が口から出るのか。いつだってこうだ。
「だらっしゃッ」
良太郎が気合を叫んで前蹴りを繰り出すが、ツェン・リはそれを前に出て二の腕で止めることで弾いた。良太郎の蹴りは素人のそれではないというに、恐るべき肉体である。
ツェン・リの常人に含まれる体つきの中で、異様ともいえるほどに鍛え上げられた手が騎士剣の柄をぎゅうっと握りしめる。
口元に笑みを張り付けたツェン・リの首にふわりと軽い何かが走った。
「そこまでだ、手ェ離して両手を壁につけろ。センターの権限でお前を一時的に拘束する。抵抗すれば落下者保護法によって即時逮捕だ」
ツェン・リは背後からかかるその声と、首にまとわりつく細いワイヤーのようなものに顔をしかめた。
「ユーリス・ドナ・ドナイタシス伯爵令嬢、お首は預ける」
「無頼殿、騎士のような口を訊かれるな」
「クソ女がっ。ちょっとした口喧嘩みたいなもんだ……。センターさんよ、ワイヤリッパーは外せや」
人ごみから出てきた高野は、ワイヤーの繋がる射出装置を手にしていた。リッパーと名前が付くのだから、相当に危険なものだろう。
「都市警備警察に連絡してある。警察が来てから外す。いいか、新入りに手ェ出すなよ。クサレヤクザ」
ツェン・リは言われた通りに電柱に両手をついた。
「ハッ、先に手ぇ出したのはそっちの新入りだぜ」
「ヤクザ野郎、警察はお前らを引っ張るんだったらなんでもやると思うぜ。傷害と殺人未遂つけられたくないんだったら黙ってろ」
ふん、とそっぽを向いたツェン・リは警察が来るまでそのままで、いつの間にか発端になった女は消えていた。
事情聴取はすぐに終わったが、良太郎が先に蹴ったということで大事にはしない方向になった。高野としても、彼らのような若者にヤクザと関わった経歴はつけたくない。
帰り際、高野を含めて警察からどえらい怒られ方をしたものの、ツェン・リのようなヤクザ者は落下者保護法の罰則の重さからしても落下六か月未満の『新入り』に手を出すことはないだろうとの見解である。
またしても深夜まで仕事に費やすことになった。
ファンタジー系はよくよくトラブルを持ち込むが、ヤクザ者に啖呵を切った女の子はセンター始まって以来、かもしれない。
高野は見慣れた夜景をうんざりとした気持ちで見ながら、ため息を一つ。
「ああ、また深夜だ。いつになったら帰れんだよ俺」
「おつかれ、いつも大変だな」
と、高野の肩を叩いてニヤニヤとする夜勤の吸血人間種と戯れて、いつものように仮眠室へ向かうこととなった。
トラブルはまだ続く、という高野の予感は当たることになる。