第十九話 ておいへび
遅れた。
第十九話 ておいへび
手負蛇
傷つけられ殺されることなく放された蛇の怨念が妖へと変じたもの。
その牙から逃れる術は無い。
第三十二世界線に伝わる民間伝承より。
◆◆◆
アルマから来たメールは、藤野母娘と共にスパで泊りがけで休暇を取るという内容だった。
剣術家同士、何かあったのかもしれないが、そういう所で休むのなら心配はないだろう。
車を返却した蘇土は、久しぶりに一人で自室へ帰った。
一人で採る食事は味気なくて、一か月もたってないのに妙なことになったな、と再確認する。
翌日は依頼の報告書や私設警察と裁判所への書類申請で半日が過ぎた。
朝はバナナを食べて、喫茶店でブラッバーを飲んで、昼は栄養ブロックで済ませて、夕暮れに自室へ戻ればがらんとしていて。
今日も色々あったな、と思う。
隣家には気配がなくて、アルマもいない。
一人で住むには広すぎる部屋。
煙草を手にベランダに出た。
夕暮れに沈みつつあるアカザ浜を見下ろせば、どうしてか孤独にケツがきゅっとすぼまる。一人でいることに、時折疲れる。
エアコンの室外機に置きっぱなしにして忘れていたライターを手に取って、火が点くか確かめる。幸い、壊れてはいなかった。
煙草をくわえたところで携帯端末に着信があった。
「もしもし、蘇土だが」
『蘇土さんですか。詳しいことはさておき、ユーリスさんがヤクザに拉致られました。応援いいですか。そっちのツテでフ組のツェン・リのとこ探って下さい。俺も動きます』
「まかせろ」
アルマにメールを入れてあと一日休暇を伸ばせ、と伝えた。それから、帰ってこなかったらクラウドデータをカトーに渡してくれ、とも。
ヤクザと喧嘩なんてしたくない。
ここで行かなかったら、何度も何度も後悔することになる。
後悔で背中が重くなるのはもうゴメンだ。
◆◆◆
清柳院絹江は、この女に逆らうと不味いことになるのは分かっていた。
今までも拉致されそうになったことや、脅されたことは数ある。
鎖に繋がれてはいるが、この部屋は綺麗で内装は金がかかっていた。
絹江の感覚で言えばそこまで高い部屋ではないが、一般的には高級な部類に入るマンションの一室だろう。
もしかしたら、何がしかの身代金目的かもしれない。と、自分に言い聞かせた。
「あなたは何年経っても綺麗なままね」
目の前の女、美耶子はひとり言のように言う。
「あ、あの、ここは、どこなの」
「どこって、私の部屋よ。買ったの」
「そうなんだ……。この鎖を外してもらえたら」
「あははは、それはちょっと無理よ。ねえ、あなたと私は前にも会ってるわ。少しずつでいいから、思い出して」
美耶子は言ってから、一度背を向けて部屋に置かれたダンボール箱から笛を取り出して戻ってきた。
「ねえ、この笛、何か分かる」
「え、リコーダー? かな」
絹江の記憶にあるそれは、少女時代に私塾で使ったものだ。細部までよく似ているように思うが、それがそのものであるか記憶は定かではない。
「うん、音楽の授業ってたまにやったけど、なんであんなことしてたか今でも分からないわ。私、これが苦手で、今でも楽器ってダメなの」
美耶子は笛を吹いてみせるのだが、お世辞にも上手いといえるものではなかった。
「ねえ、子供のころを思い出さない」
「何を言ってるの」
「なにって、思い出話よ」
「そんなのっ、これを外して」
「無理無理。それと、ちゃんと立場を分かってよ」
絹江が不味いと思った時には、左手の小指を握られていて、美耶子はにっこりと笑ってその指を折った。パキっという軽い音だった。
「あ、ああああああ」
「大丈夫、綺麗に折ったから。すぐに手当してあげるわね」
救急箱を取ってきた美耶子は割り箸を添え木にして包帯を巻いた。慣れた手つきだ。
「なんで、どうしてこんなことするの」
「じゃあヒントね。私はあなたのお友達です。ちょっと昔だけどね。顔は変えてて、今は藤野美耶子って名乗ってるの。ああ、そろそろお腹空いたでしょう。今日は私も準備があるから、お食事の後は少し考えてて、明日から本格的にやるから。あ、それと、今は藤野美耶子って名乗ってるから。もちろん偽名だけど」
出された食事はビーフシチューだった。
食べないと何をされるか分からない。
絹江は妙な味の細切れ肉が入ったシチューを食べて、用意されたシーツにくるまる。
「じゃあ、今日はここでおしまい。また明日ね。ああ、おとなしくしてて、約束してよ」
「……」
「や、く、そ、く、よ」
「は、はい」
「笑わないと、幸せになれないわよ」
いやに力を込めて、美耶子は言った。
美耶子は部屋から出ていった。
◆
一人になって、手足に繋がれた鎖をいじってみたが、絹江の力では無理に外せそうにはない。手の届く範囲にあるものは何もなくて、壁にもたれているしかできなかった。
室内は冷房が効いていて、快適な温度が保たれている。
じっ、と息を殺していたら、あまりに近くて遠いドアの先から、きっと玄関口であろう重たい扉の閉まる音と、電子ロックが作動する「ビッ」という音が小さく聞こえた。
しばしして、鎖の許す限りの範囲で立ち上がってなんとか鎖を引き千切ろうとしてみたが、やはりびくともしなかった。
折られた左小指がじくじく痛む。
壁に背をあずけると、涙が出て、それは止まらず、嗚咽に変わる。
あの女は狂っている。拷問の類をするのならこんなに悠長なことをしない。思想に対する抗議からの犯罪だとしても、こんなにゆっくりとはやらないだろう。なら、あれは何だ?
うずくまっていたら、壁からコンコンと、誰かが向こう側から叩く音がした。
「誰かっ、そっちにいるの」
コン、と一度だけ返事があった。
「なに、あれはなんなの、助けてお願いっ」
何度か壁を叩いて返事があったが、何をしたいのかは分からない。
無茶苦茶に壁を叩いてみたが、結果は変わらなかった。
疲れて壁にもたれていると、エアコンの回る音だけがいやに響いた。
部屋はがらんとしていて、箱の空いたダンボール箱だけがいくつかあって、何か工具らしきものの柄が見えていた。他には、壁に子供の書いたらしい絵が飾ってあるくらいだ。だけど、それはひどく異質で不気味なものに見えた。
「ねえっ、聞こえてるっ」
八つ当たり気味に叫ぶと、壁から叩く音が。返事があった。
「あなたもここに閉じ込められてるのっ、返事して」
ドン、ドン。壁を強く叩く音で返答がある。
「あいつなんなのよぉ。あなたは大丈夫なのっ、ひどいことは」
ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン。
壁を叩く音は徐々に激しくなった。
「もういいからっ、分かったから」
ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン。ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン。
壁を強く、蹴りつけているのだろうか。それが止む様子は無い。
「なんなのよ……」
音は続いて、それを行っている者がなんなのか、恐ろしくなった。
あの女はどこかへ行ったはずだ。だから、この壁を蹴っているのはあの女ではない。
耳を抑えて、へたりこむ。
嫌だ。
「ざーんねんでしたーっ。私ですっ」
ドアが開いて、美耶子が満面の笑みでそう言った。
「こないでっ」
「い、や、よ」
「なんでこんなことぉ」
「それは私もずっと思ってたわ。なんでこの人たちはこんなことをするのか。他に楽しいことだってあるのに、なんでこんなことばっかりするのか。やってみたら分かったけど、お腹の中が熱くなるような楽しみがあるわ。分かる? ああ、分からないはずがないわ。まあそれはいいんだけど、あれ、いや、よくないわね。そうね、自分より劣る抵抗できない人を虐げるのが心地いいからするのよ。でも、私はあなただから虐げるのよ。あなただからやるの。あなた以外の人をもし殺すことになっても、それは必要なことだからやっただけで楽しくはないわ。刀を振るのは嫌いじゃないけど、人を斬るのはそんなに好きじゃないわ。だって、面倒でしょ。強くなってからは特にそうよ。分かる? 人を斬るのは必要だからで憎いとかそういうのじゃないの。嫌いなヤツを斬ることもあるけど、それは別に楽しいとか楽しくないとかじゃないから。ええと、なんの話だったかしら?」
イカレてる。
藤野美耶子という名前に心当たりは無い。
ひどく息苦しい。
「あら、具合が悪いのね。でも、勝手に死んだらダメよ。まだまだしたいことがあるんだから。本当はね、生きたままダルマにして犬に犯させようとか、シャブ漬けにしてやろうとか、生きたまま焼こうとか、つま先から刻もうとか、いっぱいいっぱい考えたのよ。でもね、そういうのってダメなのよ。だって、あなたと私は別の人間だから。そうよ、私だって人間なんだから。こうやって何が悪いっていうの。ねえっ、何が悪いか教えて欲しいわ。うふふ、神様っていうのはね、人間になんか興味ないのよ。だからさぁ、私を助ける人もいなかったし、あなたも私を忘れちゃったでしょ。あなたにとっては小さなことなんでしょう。ずっとずっと、私のことをあんなにあんなに、私の知らないとこで笑い者にしたくせに、あんたはそうやって聖人君子みたいな顔してぇっ。あはは、ごめん、ちょっと怒ってたわ。怒るつもりなんてないのよ。ずっと計画してたのよ。あんたそっくりに顔を変えて、テレビと鏡を見てたらずぅっと努力し続けれたわ。おかげ様で」
美耶子は言い終えると、額に手を当てて「ああ」と呻いた。
「長かったわ。でも、あと少し。私はあなたのために生きてたのよ、しぃちゃん」
息を呑む。
しいちゃん、というのは十四歳までの絹江のあだ名だ。
絹江の絹の字からシルク、そして、しぃちゃんへと変じた。
「あなた、は」
「今はダメよ、あの名前で呼んだら、あんたの頭ぁ、割ると思うから」
美耶子の口から赤い燐光が漏れ出ていた。
瘴気中和剤に反応して、彼女の口元からは赤く輝く吐息が漏れる。
気を失う前に、ひどく違和感のある匂いが鼻に飛び込んできた。
ビーフシチューの、デミグラスソースの香りだ。
◆◆◆
ひどい一日だった。
ヤクザの事務所に乗り込んでパイゴウで勝負して、鉄火場を一日に二度も行き来するなんていうのは久しぶりで、自分が暴れるならまだしも見ているだけ。
異様に疲れたが、眠れない。
ユーリスを抱き上げた温度が、いや、ここは温もりが、残っているせいだろうか。
不思議だ。
今まで繁殖をしたいと思ったことはない。
父の遺伝子がそうさせるのか、発情期は訪れていない。
野生動物、例えば熊にしよう。あの動物の発情期は「ムラムラするわー、ちっくしょー、ヤリてぇ」という所から始まると何かの本に載っていた。
蘇土には未だそれが無い。
人に混じって生きる過程で、そういうものが世の中に溢れていて、それに対してどのように反応したらいいかはなんとなく知っているが、自身に訪れたことは無い。
自分が彼女をどう思っているか、なんとなく分からない。が、嫌いではないのだろう。
部屋に戻ってバナナを食う、
アルマは未だ帰らず、連絡が無い。
「何してんだか、あいつも」
独り言を漏らして、通信を入れたが返事は無い。
煙草を呑もうとライターを捜すが見つからなかった。
こういう時、魔術適正遺伝子か魔力出力臓器が欲しかったなと思う。だが、あったとしてもライターを使うだろう。その方がカッコイイからだ。
シャンシャンと着信を知らせる音が響いた。
「もしもし、アルマか」
謎の言葉「もしもし」は旧ニホン領の伝統だ。
『蘇土か』
声はソーサラーズの営業レディ櫛田サクヤのものだった。
「ああ、あんたか。どうした」
『緊急で仕事の依頼だ。受けるか』
「どんな?」
『清柳院絹江が誘拐された。事務所まで来てくれ、詳細は直接渡す』
「……公開か?」
『明日までに見つからなかったら公開になるだろうな。とにかく、今は人手が欲しい』
「了解、すぐ行くよ」
ジャケットを着こんで外に出た所で、清柳院絹江というのが誰か思い出した。
美耶子が大嫌いだと言っていた活動家の女だ。
◆◆◆
ビーフシチューは幸せな味がする。
カレーは作っても、ビーフシチューは造らない。
男も女も独り身はどうしてかそうなる。だから、ビーフシチューはお母さんの味だ。
絹江が目覚めると場所は何一つ変わっていなかった。
ひどく口の中が生臭くて、着ている服が変わっていた。量販店にありそうな、安っぽい服だ。
「あら、おはよう。寝てる間に栄養剤とか打っておいたけど、体の調子はどうかしら」
ビーフシチューの香りと、フライパンで何かを炒める音と共に問いかけられた。
絹江からは見えないが、あのドアの向こうにキッチンがあるのだろう。
「ああ、それから、寝てる間に着替えさせたわよ。おトイレとかさせずにさ、そこでお漏らしさせようかと思ったけど、そういうのって別に楽しくなさそうだったから、寝てる間に済ませてあげたの。優しいでしょう」
なんでもないかのように投げかけられた言葉に、じわりと涙が滲む。
腹に不快感は無い。
排泄物の処理は全てあの女がやったようだ。
「ああ、それとね。ちょっと準備があったから薬で眠ってもらったけど、別におかしいもの打ってないから安心してね。うふふ、あ、美味しい。今日はとっても会心のデキね」
言いながら、トレイにビーフシチューとパン、それに焼き鳥のようなものを乗せて美耶子はやってきた。
「寝起きで悪いけど、あなたのためにつくったから、召し上がって?」
「……は、はい」
何か言えば恐ろしいことになる気がした。
湯気をたてるビーフシチューにスプーンをさしこみ、人参を口に運ぶ。
こんな時なのに、味は美味しかった。
レストランのものとは程遠いが、家庭の味だ。美味しいといっていいだろう。
「さ、お肉も食べてね」
いやに乱雑に切られた小さな肉はあまり美味しくなかった。くず肉のような、筋ばっていて臭みが残っている。シチューの濃い味付けがなければ食べられない代物だった。
「うふふ、さ、焼き肉はどうかしら」
玉ねぎと肉を交互に挟んだ串焼きを手に取って、小さく悲鳴が漏れた。
「なに、これ」
「うふふ、小さいでしょ。その指」
こんがりと焼けた、人の指が串に貫かれている。
「な、なんで」
「はーい、じゃあ特別なお客様を招待してるの。ちょっと待っててね」
美耶子は小走りにキッチンへ走り、すぐに戻ってきた。
ぱくぱくと口を開け閉めするが、絹江は言葉を発せられなかった。
「じゃーん、特別ゲスト。私が娘として育ててたんだけど、本当はあなたの子供の露子ちゃんでした。拍手よ、拍手。感動の対面でしょうっ」
目を閉じて微動だにしない少女は、美耶子の娘である麻衣である。その右手には包帯が巻かれていて先端には血が滲んでいた。
「大丈夫よ薬で眠らせてあるし、お料理に指を貰ったけどその時だって痛みも感じてないわ。うふふふ、よかったわね、感動の対面でしょう。この感動のために、あの時病院から持ってきて育てたの」
「つ、露子っ露子っ露子っ」
「あはははは、いいわねえ。あんたも人のもの取り上げるの得意だったでしょ。ねえ、自分がやられた気持ちってどう? あたしにもやったでしょ。ねえっ、あたしの携帯とりあげてぶっ壊して返した時ってこんな気持ちだったんでしょ。あはははは、ぜんっぜん楽しくないわね」
美耶子は笑いの発作が止まらないのかゲラゲラと笑い続ける。
絹江は嘔吐しながら娘の名前を呼び続ける。
◆◆◆
緊急の仕事とやらでソーサラーズの自社ビルへ向かえば、応接室ではなく特殊拘禁室に連れていかれた。
櫛田サクヤの隣にはサーソラーズの巫女服に身を包んだ女がいる。腰やら手に付けている装備からして、一流所の魔術師だろう。それも、蘇土のような魔術的素養の無い化け物を相手取るのに慣れたタイプだ。
「で、ケンカ売りに呼び出したのかい?」
「事情聴取だ。蘇土、お前には清柳院絹江誘拐に共謀した疑いがかけられている」
サクヤは表情筋一時硬化薬でも飲んでいるのか、顔色からは何も伺えない。
「やってないよ。つーよりな、なんで俺がそんなことする必要があるんだ。金が欲しかったらどっかで傭兵でもするさ」
サクヤは手元のタブレットを操作して画像を表示させた。そこには、蘇土と美耶子が共に歩いている映像が映し出されていた。
「この人はよく似てるがお隣さんだよ。どこにでもいるタイプじゃないが、身元もしっかりしてるぜ」
「……、今現在、容疑者の足取りは不明だ」
「何言ってんだお前」
「藤野美耶子と名乗っている女が清柳院絹江の護衛全てを一太刀で無効化し、被害者を誘拐した。タクシー、車両強奪を三度、その後の足取りは不明だ。さらに言うなら、武器密売人のスエント兄弟を殺害したのもこの女だ」
「おい、何言ってる」
「分からないか、この女は清柳院絹江女史を誘拐した。こちらで捜査した結果、この女の経歴は全て他人のものだ。藤野美耶子という女性は十年前の商業連合本部テロの際に死亡している。容疑者はその時に背乗りを行ったようだ」
「待てよ、そんなこと」
「復興の時にな、同様の手口が幾つかあった。十年でそのほとんどは何がしかの活動で露見したが、な」
サクヤは小さく息をついて胸ポケットから煙草を取り出した。ブランド物のガスライターで火を点ける。いやに気取った仕草だ。
「一本くれよ」
「藤野美耶子という女性の遺伝子データはある宗教団体に残っていた。こちらで現在のものと照合したが、一致しない。その後の足取りを追ったが、容疑者が裏社会と繋がる伝手は見つからないんだ。お隣さんのお前以外にはな」
「憶測で言うじゃねえか」
「……清柳院絹江の護衛は四人。内、二名はソーサラーズの腕利きだ。分かるか、あと三十六時間以内に一定の成果がいる」
「俺を生贄にするってか」
「ああ、そういうことだ」
蘇土がすうと息を吸い込む。
瞬間、比喩でなく蘇土の肉体が膨らんだ。それは暴力のサイン。本気で暴れる時の準備だ。
「よせ、代案はある。私とお前の仲だ」
「いつから仲良しになった?」
「私を殺してもいいことは無いぞ。お前を私の権限で請負捜査官として雇用する。三十六時間以内に、容疑者の手がかりを見つけろ」
「できなかったら、俺を都市公安にでも突き出すかよ?」
「時間は稼げるさ。本部から天女のお出ましになられるまでの、な」
サクヤは表情を変えないまま天を仰ぐ。アゾイタイト合金の天井に向けて、煙草の煙を吐きだした。
「私に課せられたのは時間を稼ぐための適当な不当逮捕だ。後から何がしかで黙らせることのできるヤツを用意しろとのことだよ。ハハハハハハハ、舐められたものだ。黒エルフは行き場が無いと知ってのやり口だよ」
「耳長の内輪揉めに興味はないさ。で、俺に何をさせたい」
サクヤは唇を舐めて邪悪に笑う。黒エルフ特有の長い舌が這い回る様はナメクジの交尾に似てエロティックだ。
「今から私は端末の操作を誤る。お前に預ける請負捜査官権限に、『間違って』、『警部権限』、が付与される。蘇土よ、お前が容疑者を確保してくれたら私は嬉しい」
「そうかい、あんたは何するんだ?」
「なあに、身を守るために色々するのさ。どっかで捜査妨害があるようだしな。イケニエにされるくらいなら、ちょいと暴れてやろうと思うのさ」
「俺が裏切るとは?」
サクヤは嗤う。
「言い忘れたが、最後に確認された容疑者は同棲中のアルマちゃんと一緒にいたぞ。それにな、センターの公務員とお姫様はこの一件には『関係ある』のか?」
蘇土の瞳がぎらりと危険な光を帯びた。
「終わったら、タダじゃすまさねえぞ」
サクヤが何か言う前に蘇土は席を立った。
蘇土が出ていくのを見送ったサクヤは、すっかり短くなって火の消えた煙草を床に落とす。
◆
サクヤは疲れを滲ませて二本目の煙草に火を点けた。そして、傍らの巫女に向けて言葉を紡ぐ。
「これでよろしかったですか、東方天女」
東方天女と呼ばれた巫女服の女は尊大な仕草でうなずいた。
「サクヤちゃんはやっぱりいい芝居のデキる子ね。とってもよかったわ、今の」
「あなたがやらせたんでしょう」
サクヤは階級的にも社会的にも差のありすぎる相手に向けて、くわえ煙草のまま言葉を続ける。
「蘇土はお偉いさん方に注目されるほどの何かがおありで?」
「あら、知りたがりは出世できないわよ」
「早死にしないなら聞かせて頂きたいのですけど」
「ひ、み、つ。もう少し偉くなったら教えてあげるわ」
サクヤはため息と共に煙を吐きだした。
イーストエンドソーサラーズ、巨大な複合企業であり東方または神秘系魔術師協会。
その頂点に位置する永遠の創業者にして代表者、三百年を生きて無数のホムンクルスと式童子を同時に操る魔人。
目の前にいる東方天女とは、そういう女だ。
巫女服を着た魔術師風の女、それすらも本部の地下に封じられているという本体の操る人形に過ぎない。
サクヤは諦めの薄笑いを浮かべて煙草を大きく吸い込んだ。
◆◆◆
絹江と笑い合った後の美耶子は、麻衣をかついで隣室に移っていた。
コンピューターと様々な工具の揃えられた作業台、冷蔵庫に事務机にキッチン。小さな部屋にそれだけが詰め込まれていた。
美耶子の目の前には、椅子に縛り付けられたアルマがいて、コンピューターの立体投射ディスプレイには露子の名を叫ぶ絹江が映っていて、高機能チェアに腰かけた美耶子はぐったりと天を仰いでいた。
その様は、疲れ果てた老人のようである。
二十は老けたと思わせる程に憔悴した姿だった。
しばし言葉もなく椅子に崩れていた美耶子だったが、緩慢な動作で冷蔵庫から栄養ドリンクを取り出して一息に呷った。
「疲れるのよ、とても」
アルマは拘束はされているが口は噤まされてはいない。
「……、そう見えます」
「でしょうね。いつもこうなの。想像してたほど、楽しいものでもないわ。何度も繰り返してるのに、やめられないのよ」
「麻衣ちゃんが、……なんでもありません」
「いいのよ、言ってくれて。なんで、どうしてって」
それは拘束された時に何度も繰り返した問いだ。
美耶子の意思は変わらないだろう。最早、言葉で解決できる時間は遠く過ぎ去っていた。
美耶子は疲れた顔でコンピューターを操作した。モニターに動画プレイヤーが表示されて、これが始まってから何度も見た動画が再生される。
『おねがい、やめて』『うわあああああ』『ああああああ』
地獄の詰まった映像を、美耶子は見つめている。
固定されたカメラは美耶子が女を木刀で打つのをじっと見つめていて、何度も何度も、美耶子は木刀を打ち込む。素人にも劣るような腰のひけた暴力は、なかなか哀れな女の命を奪えないでいる。
『うううう、ひっぐうぅ』
美耶子の涙をすする音がして、最後の一撃が女の頭に打ちこまれた。偶然にも体重の乗ったそれは女の頭を割って脳漿をばらまいて、返り血でパニックを起こした美耶子がわあわあ叫ぶ所でその動画は終わる。
「この子、ゆっちゃんっていうの。私の髪の毛をね、切ったり焼いたりしたのよ。しぃちゃんの隣でチョロチョロ走り回るこすっからい子で、私に一番ひどいことをしたのよ。お金とられたり、ひどいことさせられたり」
「……」
「この時の私はまだバイオウエアとか入れる前だったけど、そこらの傭兵には負けない腕前だったの。警備の仕事で殺しもすませてたのにね、いざってなったら怖いの。心がね、十代の惨めなあの時に戻るの」
疲れ切った顔。
絹江を追い詰める時に満ちていた生気の面影すら無い。
「苦しめて苦しめて殺そうと思って、そうしたのに、全然楽しくなかったわ。なんていうかね、あ、もうコイツを恨めないって残念な気持ちになったのよ。胸に穴が開いて、そこから冷たくていやな風が吹いてくるみたいだったわ」
美耶子はまた別の動画を開いた。
刀の一振りで頭を割る、椅子に縛り付けてガソリンで焼く、腹に切れ目を入れて内臓を溢れさせる、水を飲ませ続ける、様々な方法が用いられていたが、どの動画もそれを行う美耶子は平静さを欠いていた。
「ダメね、私は。七人やってようやく分かったの」
「何を、ですか」
「復讐ってさ、別に苦しめたい訳じゃないの。復讐って優しくて弱くて卑怯な人がするの、うん、私みたいに。でもね、別に痛めつけてもそんなに楽しくないのよ」
言葉を切った美耶子は、沸かしていた湯でココアを作った。粉末を水で溶くだけの安物のインスタントだ。
甘い香りが漂う。
「自分をね、理解して欲しいからするのよ。復讐って」
「……」
「こうでもしないと分かってくれないもの。謝ってほしいんでもないしお金が欲しい訳でもないわ。命も別にいらない。あ、や、命は欲しいかな、やっぱり。相手にもよるけど。でも、一番は分かってもらいたいの。こんなに苦しかったんだよ、って」
動画にある犠牲者には悪いことをした、と彼女は言う。曰く、何も理解させないままただ命を奪ったのは間違いだったと。
「うふふふ、しぃちゃんったら、まだ自分は人より一段高いとこにいる聖人だって自分のこと思ってるでしょ。だからさ、まだ分かってもらえないのかな。でもいいのよ、しぃちゃんには私と同じ気持ちになってもらわないと。そうしたら分かってくれる」
お腹の中でどろどろした熱い蛇がとぐろを巻いている。
そいつはいつだって、分からせてやれ、と言うのだ。
「これが終わったらどうするんですか」
「ああ、あなたは解放するし、きっともう少しよ。あとちょっとだけ我慢して。あなたには悪いことをしたわ。だからね、教えてあげる」
美耶子は上着を脱ぎ捨てて、それから下着も脱ぎ捨てて、一糸纏わぬ裸身を晒した。そして、アゾイタイト合金の刀を抜いて、ゆらりと上段に構えた。
「筋肉の動きとか、手首のしなりとか、練習したらできるようになるわ。うふふ、見ててね」
アルマもまた剣を扱う者である。
神域にあると言って過言ではない美耶子の剣が振るわれるのを食い入るように見つめていた。
巻き込んだお詫びだ、と彼女は言った。この二日で恐るべき業をこうして披露されている。
絹江は気の毒だし麻衣だってその境遇は悲惨に尽きる。だけど美耶子の秘技を盗めとばかりに何度も見せてくれるというのは、アルマにとって正義だとかそういうものを黙らせるのに充分な報酬であった。だから、彼は逃走を諦めている。
「すごい」
指先の痛みなど忘れて、アルマは狭い部屋の中で振るわれる剣に心奪われる。
「アルマくんは見届けてね。そのお礼よ、これは」
秘技はおしげもなく開示された。
◆◆◆
蘇土は街に出て、カトーに情報収集を依頼した。
簡単なあらましは伝えておいたので、生き残れれば後々にソーサラーズから金を引っ張れるだろう。
携帯端末で捜査状況を確認するが、ロクなものは出てこない。防犯カメラの映像に引っかかっている姿はかなり前のものだ。その後は何らかの変装か魔術偽装をしているのだろう。
思い出せ思い出せ思い出せ。
藤野母娘と出会ってからあったことを脳裏に再生する。蘇土の性能でそれは、映像記憶としてめくることができる。めくる度に、そこには感情があって、だから、友達はいらない。
蘇土がやって来たのはカブキ町にほど近い不動産屋で、カウンターにいた男に手を振ると、そいつは怪訝な顔でやって来た。
「よお、久しぶりだな」
「えっと、申し訳ない。どちら様で」
「こういう者だよ」
男はうんざりとした顔で蘇土の携帯端末に表示されたソーサラーズ警部としての身分証を見やった。
「なんですか、もう知ってることは話しましたよ」
「いいから、時間作ってくれよ」
渋々といった調子で男は店の従業員と何か話して蘇土について来た。
男は伊藤と名乗った。身分証には落下三年目の三十歳とあって、特殊な技能を持つような人物ではないらしい。特徴といえば遊んでそうな男前ということくらいだ。
二人は近くの公園に行き、蘇土が自販機のコーラと勘ブラッバーを買い、二人してベンチに座った。
「店でもいいが、ここで手っ取り早く済まそう。藤野美耶子とはどんな契約を」
「中央行政区のマンションの購入だよ。そこそこ大きい取引だけど、こっちは頭金を受け取ってローンの申請を受けただけさ」
「警察には?」
「こっちの書類はもう渡したよ。あと、マスコミに喋ったら逮捕じゃすまさないってさ。朝からローニンズにサーサラーズだろ、あとは役人さんにも話したぜ」
「そうか、んで、物件には」
「なんにもないよ。注文された通りに内装に手をつけようってとこだからね。壁紙は今からやるとこさ、まぁ、やってももう意味は無いんだろうけど」
伊藤は投げやりに言って、コーラを飲んだ。
夏場のコーラはいやに美味い。蘇土はブラッバーを喉に入れたが、コーラの方がいいなと思った。
「一応、見せてくれるか」
「仕事サボらせてくれるってこと?」
「そんなもんだ」
伊藤は早退届を出して、伊藤の車で行政区へ向かう。
「何したんだい、あの人。いい人だったけど」
「ちょっとした事件さ。もうすぐ終わる」
「そうかい」
行政区のマンションはセキュリティ完備の高所得者住宅だった。
築五年のそこは、U剣道本部師範の住居としては納得のものだ。むしろ、蘇土の隣に引っ越してきたことのほうがどこか不自然である。
契約した部屋に入ってみたが、部屋割りがなされた所で、それ以外には何も無くて、壁紙とキッチンに真新しい匂いがしているだけだった。
「どうだい、いい部屋だろ」
「ああ、出来上がったらいい部屋だろうな」
元のオーナーが首を吊った蘇土の部屋とは大違いだ。
「プレイルームの注文には参ったけどな。金持ちの趣味ってのは、なあ」
伊藤はスケベ笑いを浮かべて真新しいキッチンで手を洗った。ハンカチを絞って、顔まで拭く。
「プレイルーム、なあ。どんなのだ」
「まあSMなんだろうけど、天井から釣ったりとかえらく本格的なヤツだよ。たまにそういう注文もあるらしいが、当たったのは初めてさ」
「……拷問とか、できるヤツか」
「そうだろうね。そういう業者もあるからさ、一緒に展示してあるのを見にいったり大変だったよ。安物のオモチャじゃダメなんだとさ」
知らなければ、ああいう女性にそんな趣味が、となるところだ。
だが、違う。
「おい、その業者ってどこだ。今から回れるか」
「おいおい、勘弁してくれよ」
「いいから連れてけ」
伊藤は大げさに肩をすくめて了承した。
◆◆◆
お母さんはとっても強い。
剣をやりたいなら言いなさいというけど、あれだけ強いとやりたくなくなる。
みんなからは「いいなあ」って言われるけど、口うるさいしみんなのお母さんとそんなに変わらない。お父さんがいないのもちょっと。
でも、もう子供じゃないのでお母さんだって女なのは分かってる。それでカレシを作らないならそういう気分だってことだと思う。
特別な親子だと思われることも多いけど、お母さんだって普通の人だ。
たまに、昔の写真を見てため息をついたりするし、テレビに出てくる胡散臭い清柳院さんを見て怒ったりもする。
別に誰かと比べて苦労してる訳でもないし、みんなが思うほど特別じゃない。
人に優しくしなさいってお母さんはよく言う。それと、優しいなら強くなきゃダメだとも言う。
弱くて優しいのは卑屈で、強くて優しいのは偽善者だとも言う。
お母さんは優しくなりたいけど、まだ卑屈なままなの。とか言う。
お母さんはとても強い。剣だってダイエットくらいは教えてもらったけど、戦うような強さっていうのはまだよく分からない。
むかし、まだ小さかったころにお友達のお父さんに浚われそうになった。クソ変態ジジイなのだと今なら分かる。お母さんはすぐにやって来て、クソ変態馬鹿ジジイの腕をへし折って助けてくれた。
口で言うのは恥ずかしいけど、お母さんのことが大好きだ。
◆◆◆
「さ、楽しい夕食の時間が来たわよ。今度の料理は何かしら」
絹江は泣きはらした目で美耶子を見た。
「ごめんなさい。あの時の、あの時してたことは謝ります。お願いです。もう許して」
土下座して、許しを請う。
「そう、分かってくれたの。教えて、何が悪かったの」
「あなたにひどいことをしたから、だから」
「謝るっていうのは、そういうことじゃないわ。心から謝ってないなら、口だけよねえ。そういう口は」
美耶子の瞳に狂気の光が宿る。
自制が必要だ。ここで殺してしまったら一生後悔する。だけど、もうすぐ限界かもしれない。
「ふ、うふふ、そうね、前倒し、前倒しにしましょう。長かったわ、そうね、ええ、そうしましょう」
ふらりと、美耶子は背を向けて、絹江からは見えない位置に置いてあったらしい折り畳み式のテーブルとイスを三脚、何もない部屋に並べた。
「今日は最後の晩餐にしましょう。もういいわ、ちょうどいい」
◆◆◆
SMだなんだと特殊な趣味のための内装屋がいて、典型的なニッチ産業だ。
フォーシエット市内でその手の内装や道具を作っているのは三社あり、品質で松竹梅とそれぞれが顧客を持っている。
伊藤の話によると、梅と竹はそんなに変わらないが、顧客に差があるという。梅に関しては風俗店や玩具店を顧客としているが、相手も金をそんなに落とせないというので品質は今一つ。
竹は個人と風俗店を顧客にしているのだが、安全性にも考慮した作りでそこそこのお値段がするという。
さて、問題は松だ。
スケベニンゲン(有)というあまりにもあんまりな社名なのだが、スケベニンゲンというのは第三十二世界線の独という国ではごく普通の姓なのだという。
このスケベニンゲン社は元々は警備業用の拘束具などを作っていたのだが、エロ用品もよく売れるということで手を出したらいつの間にかプロ用品として最高の地位にいたという変わり種だ。
伊藤としても最初は金持ち相手ということでここを勧めたが、値段が折り合わず竹ランクの業者に落ち着いたという。
実際に、プレイ部屋のリフォームを担当する会社には既に捜査員が入って金の動きや何やをしつこく調べまわしている最中らしい。
社長のスケベニンゲン氏の案内で展示場を兼ねる社屋で話を聞くことになった。
「ああ、あのお客様ならあれからは特に」
「ですか。蘇土さん、もういいでしょう」
蘇土はじっ、と拘束具付きの椅子を見つめていた。
問題の拘束具は玩具では無い造りだ。ゲリラの尋問部屋にあってもおかしくない、蘇土くらいの筋力を持つ者でも引き千切れない設計がなされている。
「ああ、しっかりした造りだな」
スケベニンゲン氏は破顔した。製品を褒められたことに喜んだのだろう。
「ええ、うちはこっちがメインですからね。軍用品にもまだ一部は採用されてますよ。他のとこのオモチャとは違います」
「……最近の顧客リストを見せてくれないか」
「警部さんでしたね、いいでしょう」
用意されたリストをデータ形式で持ち帰るには裁判所の許可が必要なため、この場で見ることになった。手続きは後回しでもいいと言ってくれたが、時間が惜しい。
現金支払いで配送の客が多く、中にはコンビニ受け取りなども多い。
蘇土は携帯端末を開いてカトーに連絡を取った。
『蘇土か、どうした』
「今から送るカード番号と口座番号で、ヤバいヤツがいたら教えてくれ。すぐに頼む」
『……金は貰うぞ』
「俺のカードで決済する」
『了解、十五分、いや、七分待て』
スケベニンゲン氏はその様子を興味深く見ていたが、待っている間に冷えたブラッバーを用意してくれた。
苦いのは嫌いだ。だが、水分はありがたい。
きっかり七分後、カトーからメールが届いた。
怪しげな名前がそこには並んでいる。
「やるじゃねえか」
清廉な議員、有名任侠、死んだ故買屋。
◆◆◆
アゾイタイト合金の刀が振るわれ、魔法のように絹江を拘束していた鎖が切り裂かれた。
「さ、ご飯にしましょう。どうぞ」
絹江は固まって痛む体で立ち上がり、用意された椅子に座る。
美耶子はキッチンに向かおうとして背を向けた。
「ああ、分かってると思うけど」
言いながら振り向いた美耶子が見たのは自分に迫る椅子だった。
「無駄なことはだめよ」
頭部に降りかかった椅子を片手で受け止める。絹江はなんとか動かそうとするが、びくともしなかった。そして、空いた手で腰に挿していた銃を取り出して、絹江に向けた。
「あ、あ、こ、これ」
「いいわよ、忠告する前だったし。ほら、椅子は元の位置で座っておいてね」
そうするしかなかった。
暴力で適う相手ではない。
「うふふふ、懐かしいわね。昔は、私もあなたにそうしようと思ってたのよ」
しばらくして、美耶子はシチューの鍋とポテトサラダの入ったボウルを持ってきた。それから、ポットに入ったミルクとブラッバーも。
「さ、あとはこの子とアルマくんね」
麻衣、いや眠っている露子を椅子に座らせる。そして、椅子ごと拘束されているアルマを運んできた。
四人で囲む丸テーブルだ。育ての母、産みの母、他人、そして、娘。
「私の名前は思い出した?」
美耶子の問いに、絹江は押し黙った。
沈黙が降りる。
アルマは猿轡をかまされて言葉は発せなかったが、それをしっかりと見ている。
「そう、忘れたのね。あんなに私に夢中だったのにね。ゆっちゃんは覚えてたわよ。こっちを思い出したらさ、今から殺されるっていうのに見下した顔をしたわ。不思議ね、私じゃ傷一つつけられないって思ってたみたいなの。私も怖くて、手に力が入らなくて、予定以上に苦しめちゃった。あはは、ほんと大変なのよ」
ブラッバーを自分でカップに注いだ美耶子は、湯気を立てるそれを一口。そして、絹江のカップも用意した。
「その子、あと三十分くらいで目覚めるわ。起こすために薬も使ったし、計算だとそれくらいなのよ」
絹江はどうしたらいいか分からない。焦燥だけが募る。
「私はね、あなたに復讐がしたかったの。だからこんな目に合わせたんだけど、まあそれは分かってるでしょう。ゆっちゃん、ミリー、ジェニファー、あなたにとってはもう疎遠になった友人でしょう。みんな殺したから、残ってるのはあなただけ。ああ、今から証拠も見せるわ」
タブレット端末がテーブルに投げ出され、乱暴な手つきで美耶子は動画を再生させる。
「ああ、忌々しい。あなたを見てたら、やりたくないタイミングで殺しそうになるわ」
顔を歪めた美耶子は野獣じみた声を上げて、カップを壁に投げつけた。
子供じみた八つ当たりの後で、息を荒くして美耶子は新しいカップにブラッバーを注いだ。その手は、震えていた。
「ああ、あなたの知らない人もやってるし記録も残してあるから、みんなの名前でファイル名は捜して。関係ない人のは見てもしょうがないでしょう」
動画ファイルのサムネイルは血のお花畑だ。
木刀でめった打ち、ガソリンで焼く、歯をやっとこで抜く、全てが殺人の現場を撮影したものだ。
どれほど殺したのか。
「なんで、こんなこと」
「なんでって、……どうしてかしらね。ただね、私はいつまでみじめに生きたらいいかって考えたのよ。負け犬はずっと負け犬のまま後ろ指を刺されて生きなきゃいけないって、残酷すぎるでしょう。あなたたちって、ずっと私のこと馬鹿にして生きてるでしょう。ずっと私から尊厳を奪い続けるでしょう。あなたたちに私のことを忘れてもらいたかったけど、私は魔術適正が無いし、あなたたちに馬鹿にされないで生きるにはあなたたちをこの世から消してしまうしかなかったから、かな?」
たくさん殺したが、みんな正当な理由がある。相手の息の根を止めずに勝利しただなんて、どうしてそう考えられるのか。
「あなたたちと私の戦いはまだ終わってないってだけよ。だって、あなたは私を『許さなかった』から、私は許されるために努力するかあなたたちを消してしまうしかなかったもの」
美耶子は怒りの発作を止めるために、荒く息を吐いた。
天井を見つめて、ため息を吐きだす。
「長かったわ。これでようやく敵が、あなたたちを消して、平穏に生きられる」
「お願い、もうあなたに逆らわないから、許して」
「いいえ、許してほしいのは私よ。だから、提案があるの」
美耶子は嗤う。
「提案って、どんなっ」
「あなたは憎くても、その子は別にどうでもいいわ。だから、あなたが私を許してくれるのを確認するために、どちらか選んで欲しいの」
美耶子はそこまで言って、言葉を切った。
ブラッバーをすすり、額に浮いた汗を手の甲で拭う。
「ここに注射器があるわ。中身は毒だけど、そんなに苦しまないで死ねる。この子かあなたか、どちらか選んで打って」
絹江はその言葉をしばし理解できなかった。
こいつは何を言っているのか。
「あとだいたい十五分でこの子が目覚めるわ。それまでに、決めて。私を許してくれるか、あなたが消えて私に平穏をくれるか、どっちかだけよ。ああ、食事もあるわ、食べながらリラックスして、よく考えて決めてね」
地獄めいたディナーを見つめなければならないアルマは、助けが来るのを願った。
とりあえず次回更新は来週の日曜予定。
予定の倍の長さになった。




