第九話 明日は遠く
第九話 明日は遠く
パイゴウの勝負が始まった。
基本的には麻雀と同じく起家を決めて順繰りである。順番は、リリー、天津、ツェン・リ、高野となった。
牌を積み上げた形も麻雀に近いが、牌が多いため八角形の形に牌は並べられる。成立役によってはツモ牌を二牌から四牌にまで引き上げることがあるため、一度の勝負にそう多くの時間は取られない。
この手の遊びは喋りながらやるもので、鉄火場というのは表面上だけは和やかに見える。
「三風で、次から三牌ツモな」
と、手元の牌を晒して役を作った天津が言う。これでツモは全員が強制三牌だ。
ゲームが始まり一時間、だらだらと進行している。
持ち点四万から始まり、現在の順位はリリー、天津、高野、ツェン・リなのだが、最下位と首位の差は一万点に満たない。何かあればすぐに逆転する様相だ。
高野は煙草をやりながら特に力の入った様子でもなく、リリーとツェン・リは仏頂面だ。天津は蛇人間のため表情は読み難いが、そう切羽詰っているほどでもないのだろう。
「見てる方が緊張するわね」
と、良太郎は言ってからため息をついた。
ユーリスと良太郎、それに蘇土は卓から離れたソファに三人陣取って卓の様子を真上から映した様子を立体投射ディスプレイで観戦している。
「普通の勝負だな。高野さんの噂じゃあ最初から役満でもあるかと思ったが」
蘇土は言って、ホットチョコレートのマグカップに口をつける。
「そんなに上手くいくものではないでしょう。ですが託した後のこと、信じるのみです」
ユーリスは落ち着き払っている、ように見える。が、膝頭で握りしめられた小さな手が相応の緊張を物語っていた。
「ユーちゃんはどうして、あいつを騎士って言ったんだ」
蘇土はディスプレイから視線を外さず独り言のように漏らす。
「勘、ですわね。それに、殿方はいつも女には分からないものを抱えていらっしゃいます」
「あいつが騎士剣を賭けるなんて言い出したからか」
「大切なものなんでしょう。命よりも」
「分からねえ。あいつは、ユーちゃんに酷いことを」
「勘なのです」
ホットチョコレートは甘いのに後口がすっきりしていて、おかわりが欲しくなった。高級品はいつだって特別な味がする。
「勘、か」
「誇りは捨てられるものではないと思うのです」
蘇土は煙草が欲しくなったが、禁煙を始めたことを思い出してやめた。
ツェン・リは真剣そのもので卓に向かっている。
さて、最悪の場合は蘇土も頑張らねばならない。
天津の護衛は魔術師が二人に剣理術使いが一人。他は雑魚に見えるが、腕利きが混じっていてもおかしくない。リリーもそこに加わると考える。
余裕ではないが、やれないでもない。
「ロン、花見月、蚕糸のみ。ザンク払いな」
ショボい手で高野があがれば、卓の面々は鼻で笑うような仕草だ。
洗牌に移りながら、リリーが嘲笑を浮かべた。
「早打ちさんさあ、ちょっと堅実すぎて噂ほどじゃないんだけど」
「噂が独り歩きしてるんだろ。こういう時は地道が一番さ」
軽口の言い合いが始まるが、ツェン・リはそれに混ざらず押し黙って牌を混ぜている。この中で最も熟練が低いとすればツェン・リだ。
ツェン・リはユーリスが泣いて許しを請えばそれで満足だった。
自分の馴染めなかった社会に泣いてほしかった。この大嫌いな世界をユーリスにも嫌ってほしかった。ファンタジーだと嗤われてほしかった。
折れないユーリスがたまらなく憎かった。
悪意に負けてくれれば、それで満足だったのに、彼女は真っ向から立ち向かうのを選んだ。洗濯屋に勤める男を使ってイジメさせたが、それに抗った。ユーリスは努力して彼らを見返すという姫とは思えぬ手に出た。
理不尽に対して理不尽で返す。それは場合によっては必要なことだ。
この世界の人間は理不尽に対して理で抗うのが大人だと言う。しかし、現実は理不尽に対しては暴力や同じかそれ以上の理不尽で返す他ない。
だから、ユーリスを理不尽に穢してやりたかった。そうしたら、この女も自分と同じようになるに違いないと思っていた。
結果、このざまだ。
「ツェン・リ、お前も黙ってないで笑えや」
リリーの無茶苦茶な物言いにツェン・リは取り合わなかった。
配牌が終わり対局が始まる。
パイゴウは運命を司る、だなんて博打打ちは言う。それだけ緻密な遊びだが、運の要素ももちろんある。
この対局で、アガリを決めたのはリリーである。
ヤクザらしい高目一本狙い。
ツモアガリのため、全員から一万点ずつ、それに祝儀が入る。
「あたしのツキも馬鹿にはできないでしょう?」
そうだ。誰にもツキというものがある。
ツェン・リはユーリスのために卓に入ると決める前、リリーにコンビ打ちを強要されていた。もちろん、今そんなことはしていない。リリーのツキだけで上がったということだ。
「……研ぎ澄まし、一撃を」
魔獣と戦う騎士であったころ、師の教えてくれた唯一つの真理だ。生死の境はそこにあった。それは、きっと今も変わらない。
牌を切っていくと、焦りが少しずつ消えた。そして、他の面子の声が気にならなくなる。
「ロン、リーチ、五月雨、灰被り、案山子の手、跳ねて二万一千点です」
ツェン・リは笑みの引きつったリリーに宣告した。
「ツェン・リ、なかなかのツキじゃないか」
「務めですから」
騎士の、とは言わなかった。
ちらりと観戦するユーリスを見やれば、微塵も笑みはない。まだ戦いは続いている。喜んでもいいが、油断はならない。
「フ組は調子がいいな。今の順位は、ツェン・リ、俺、リリー、高野さんか。公務員、ピンチだな」
天津のからかいに高野は苦笑で応えた。
「ちょいと休憩したいとこだが、ヤクザは休憩入れないのが流儀だよな?」
「ああ、オレらの博打は倒れるまでだ」
「仕方ねえな。コーヒー、じゃなくてブラッバー頼むわ」
高野が言えばほどなくしてウエイターがアイスコーヒーをトレイに乗せてやってきた。
洗牌が終わったころに持ってくるのだから、このウエイターはよく教育されている。
麻雀のイカサマにゲンロクというものがある。
これは俗にいう積み込みというヤツで、自分の欲しい牌を洗牌自に持ってくるという技だ。これをやるためにはどこにどの牌があるか把握せねばならず、ガン牌と呼ばれる牌に印をつけるイカサマとの併用が必要なことが多い。
「よし、そろそろ逆転しなきゃあいけないな」
配牌が終わり高野が言うと、天津が突然低く笑い始めた。
「く、はははは、おい、公務員。オレはやっぱり大物だよ」
天津は笑いながら自身の牌を晒していく。
配牌時点で役が成立して自分の手番が回る。これは俗に言う役満である。
「おいおい、マジか」
「兄さん、おめでとうございます」
「……」
三人はそれぞれの反応をして、天津の作為的な役満には触れなかった。
順位は天津、ツェン・リ、リリー、高野の順に変じた。高野の残り持ち点は百点である。
「リーチすらできねえ」
「ははは、オレは機嫌がいい。お前は帰してやってもいいぜ」
ユーリスと良太郎を残して、という意味だ。それはできない。
「まだトンだ訳じゃないさ」
ここまでは仕込み通り。
さらに次の対局が始まるのだが、高野はトイレに行くため席を立った。
連れション、連れだって小便の略である。
高級カジノはトイレまで高級だ。
蘇土と高野は並んで小便器に向かっている。
「んで、どんな感じだ」
蘇土が先に口を開いた。
「デカっ、なにそれっ、でかっ」
「いや、そうじゃなくて」
ジョロロロ、ホットチョコレートを七杯もおかわりすればこうなる。
「分かってますよ。上手くはいってますけど、キレるヤツがいたら止めて下さい」
「オーケイ、リリーか?」
「さて、どうするかは微妙ですけどね。天津がちょっとなあ」
先に手洗いに向かった高野は顔を洗い始めた。目をこすっている。
「寝不足か?」
「そんなとこです」
「負けたらぶっ殺すからな」
「あんた年下なんだから、もう少し言葉とか考えて下さいよ」
「俺は普通より寝ないんだ。年数よりは生きてるつもりだぜ」
「ホットチョコレートなんて子供っぽいのはやめとくことですよ。バーボンとブラッバーが似合うんじゃないですか」
「バーボンは苦くて好きじゃない。カルアミルクは好きだけどな」
緊張はほぐれた。
ここまでは高野と天津の仕込み通りだ。高野は天津にゲンロクを仕掛けて役満を作った。ここまでは仕込みの通り。
最初に牌のビニルパックを切った段階でガン牌用の仕込みはつけてある。天津の用意したイカサマ用の牌は積み込みがし易いようにシーリングされている。故に、高野は牌を確かめると言って最初に触ってインクをつけた。
牌につけたインクは肉眼では視認不可能だが、それ用の薬を飲むことで視認できる。天津が言うには最新の技術であり、イカサマなんぞに使うにはもったいないほどの高級品だ。
高野は天津に大きな貸しがあった。今、ここでその貸しは返される。
対局は進む。
天津の役満で場の流れは完全に決まったような状態だ。
役満ルールにより天津の親は流れ、半荘の最終である高野に親が回っている。有利だが、残り百点では大勢は決したようなものだ。
「よっし、いくかあ」
配牌が終わってからツモを巡っているが、どこか弛緩した空気で全員の動きが鈍い。
「高野さんよ、飲み物はどうだ。おごってやるぜ」
「さっき飲んだからいいよ」
高野は答えると、両手を上にあげて大きく伸びをした。
今のが津の準備完了の合図だ。天津がここでリリーにもう一度役満をキメる。そのために『飲み物』の符牒で対応する牌を出せということだ。
高野の手番、ツモった牌を見てすぐさま晒した。
天津がにやりと笑う。符牒に対応する牌であった。
「ロン、公務員よハコだな」
天津は裏切った。
こうなる予感はあった。
天津がユーリスに惹かれたのは本能とでも呼ぶべき何かだ。ヤクザの大物というのは、ツキや幸運を呼び込む女をいつでも欲している。そして、何よりも強い女を屈服させたがっている。
高野への借りなど、女が手に入るのなら二の次だ。
ヤクザとはそういうものである。
「待てよヤクザ」
「ああ、オレがイカサマでもやったってアヤつけるかぁ?」
そうだ。このコンビはイカサマによってのみ成り立つ信頼関係で、それが破られた今は立場の強さしか残っていない。高野もイカサマに加担したのだ、今更何も言えることはない。
「リーチはかけれなかったんでな、ダマテンだったのさ。ツモだ」
天津は目を見開いて牙を剥く。
「ツモ、回天、梅狸、天狐、花狗、月見、桃源、タンヤオ、合わせて十七翻で数え役満成立だ。親の役満で、ついでに二連役満の祝儀で天津、お前には追加で二万点払いだ」
「んなことある訳ねえだろ」
天津が牙を剥いたまま言うが、高野は笑って煙草を取り出してやけにゆっくりと煙草をくわえた。百円ライターで火を点けると天津に向けて煙を吹きつける。
「アリアリのルールだろ。二連役満じゃ後役満に祝儀だ。それでも天津は三位なんだから、ヤクザは潔くないとな」
「兄さん、サマだっていうならあたしが」
「勝負はついただろう」
ツェン・リが鋭く言葉を上げた。
一触即発である。だが、これは博打だ。
「そう、ああ、そうだな。勝負はついた。リリー、いいから座れ」
天津は高野を睨みつけたが、何も言わなかった。
「リリーさんがハコで、ツェン・リさんは七千点、天津は三千点か。で、俺は言うまでもないよな」
金額にして、ヤクザレートなら恐るべき金額になる。
「さてと、俺がこんだけ勝ったんだ。俺たちは帰らしてもらうぜ」
「ああ、好きにしろや」
天津は今にも怒りでこいつらを殺せ、と叫び出しそうであった。だが、それはできない。
ヤクザが博徒として打った。そして、天津の護衛たちは高野と天津のイカサマを知っている。先に裏切ったのも天津だ。
天津がここで暴力を使えば、彼の貫目は大いに下がる。
「リリーさんよ、金輪際関わってくれるな。今度は俺だけじゃなくてセンターで対応する」
「クソ野郎」
「よく言われるよ。じゃ、みんな帰るか」
高野が席を立つのとユーリスが立ち上がるのは同時だった。
「お待ち下さいまし。騎士様に御礼を」
ユーリスはどこか怯えるようにして目を逸らしているツェン・リに駆け寄った。膝を砕かれた彼は、剣を捧げた時と同じく椅子に項垂れている。
「騎士様、ありがとうございます。無頼と言ったこと、お詫び申し上げます」
「いや、俺は」
「騎士様、わたくしはこの世界が嫌いです。人は分を忘れ、尊ぶべきものもなく浅薄な道徳の蔓延る世が」
「あ……」
ツェン・リもそれが嫌いで馴染めなかった。この社会では騎士に意味がないことを認めたくがない故に、理由をつけて社会から背を向けた。
「あなた様は、わたくしのために剣を捧げて下さいました。無頼など似合いませぬ、ツェン・リ様」
「……ありがたき、お言葉」
言われたかった言葉だ。誰かに理解してほしかっただけの、最も欲しかった言葉だ。
ユーリスは一礼して持っていたハンカチをツェン・リに握らせた。贈れるものはこんなものしかないと言って。
「では、騎士さま。ごきげんよう」
踵を返して、ユーリスは高野たちと共に出口へ向かう。
残されたヤクザたちは誰もが苦い顔だ。ここで最も立場の弱いツェン・リは何も言うことはできないはずだが、ユーリスの背中が見えなくなった所で勝手に口が動いた。
「姐さん、兄貴、カタギに戻させてもらいます」
場を凍らせるのに等しい言葉だ。
「ああ、お前が二位だったな。オレからは何も言わねえ」
天津はリリーに目を向けた。それはケジメをつけろということだ。
「ツェン・リ、あたしはお前に指じゃすまさないと言ったよね」
「はい。故に、ここで無頼を落とします」
ツェン・リは椅子に座ったまま騎士剣を抜いた。そして、裂帛の気合と共に片手で剣を振り下ろした。大理石を割る音と共に、剣は床に突き刺さる。
「無頼であった証に、右手を置いていきます」
護衛たちもツェン・リの根性と技量に一瞬だが見惚れた。片手で騎士剣を操り、悲鳴も上げずに自身の右腕を肘から叩き斬る、そんな芸当は並の男にできるものではない。
「オレの店ぇ汚しやがって。おい、誰か治療してやれ。それから、破門にしてやる」
イカサマに失敗した大物だ。何かで男を見せないと部下の信頼が揺らぐ。ツェン・リなぞ本当はバラバラにしてカラスの餌にでもしてやりたい。
「こいつは、お前への支払いだ。その大道芸の見物料も込みだぜ。血ぃ止めたらとっとと失せろよカタギ」
財布の中にあった札とクレジットカードを一枚。悔しいが、これも『大物』を維持するための必要経費だ。ヤクザである天津は領収書を切れないので自腹である。
護衛の一人に肩を貸されてツェン・リは退出した。
残るリリーだが、暗い瞳で天津を見ている。
「博打の負けは負けだ。リリー、組を潰せとは言わねえ。けどな、お前は急ぎすぎだ。頭冷やすためにしばらく本家の仕事しろや。戻ってきたら組は返すからよ」
ヤクザにとってみれば甘い処罰だ。だが、これもフ組などという小さな組のためではなく、自身の部下に対するアピールだ。
「恥をかかせたケジメはつけます」
リリーの口が耳まで裂けた。魔術で隠している偽装を解けば、耳まで裂けた口には人のものとは遠い牙がある。
リリーは赤ずきんちゃんでも飲み込めそうな大きな口に、自身の両手を入れた。そして、その指、両手の十本を噛み千切る。
「馬鹿が。指なんぞいらねえってのに」
「お気持ちです、兄さん。いつか、寛大な処置への御恩はお返しします」
リリーの頭は冷えていて、腹は煮えたぎっている。
高野を殺そう。ユーリスという小娘を嬲ろう。ツェン・リはその誇りとやらを踏みにじってやろう、憎しみと恨みの怪物がここに成った。
「色気は出すもんじゃねえな」
天津は誰に向けて言ったのか分からない言葉を吐いて、天を仰いだ。
治療を終えたツェン・リはふらつく体に騎士剣を杖代わりに夜明けのカブキ町を往く。
何もかも、やり直そう。
天津から貰った金で、まずはこの街を離れて体を癒さねばならない。
その後は、何ができるかは分からない。だけど、騎士に戻ろうと思う。
その道は決して容易いものではない。だが、行かねばならない。
夏の白む朝の空にはカラスが舞っていた。
駅に向かってある人々の群れ、足を引きずりながらそれに混じる。
どん、と正面から来た女にぶつかった。
「あ、そうか」
ひどく腹が熱い。
あの日、夜の三中通りでユーリスと、彼の姫と出会った。その時に叩いていた女だ。
泣きそうな顔をして、女は自分の手にある出刃包丁を指から離そうとしている。
「なんで、あたしのことこんなにして、なんで出ていくのぉ」
女で食うというのはこういうことだ。ヤクザでなくなったら、こうされても仕方ない。
「すまなかったな。これは詫びだ」
天津から貰った金を女に押し付ける。
「やだ、死んじゃやぁだ」
ヤクザになって、フ組に入ってやった仕事だ。女を惚れさせて金を作らせる。殴られても言いなりになる女を食って金に変えろ。言われたからそうした。馬鹿はそうされて当然だと、自分もそうされたからと、そうした。
「なあ、お前の名前なんだっけ」
立っていられなくなって、電柱によりかかった。なんだか分からないが、倒れたくはなかった。
ツェン・リは夜明けの空を眺めた。
女の声はもう届かない。
こんなにも違う空なのに、どうしてか故郷の草原の空を思い出した。
ユーリス編は次回で終わり。
その次は蘇土かライアーローズと先生の話の予定。