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人魚姫アリエルの交渉術  作者: 白崎ルイ


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人魚姫アリエルの交渉術

海の底、魔女の館は貝殻と海藻でできていて、ところどころ光る魚が灯り代わりに泳いでいた。人魚姫アリエルは、扉の前に立って深呼吸をした。地上の王子に会いたい。そのためには脚が要る。脚のためには魔女の薬が要る。魔女の薬の代価は、普通なら声だった


「来なさい、姫」


声は奥からした。アリエルは扉を押し開けた。魔女は大鍋の前に座って、なにかを煮ていた。湯気が渦を巻いて天井の穴から抜けていく


「話は聞いているわ。脚が欲しいのね。王子に会いたいのね。若いっていいわね。で、代価は声。それでいいわね。はい、契約書」


魔女は羊皮紙を差し出した。アリエルはそれを受け取ったが、すぐにはサインしなかった。代わりに、じっと魔女を見た


「魔女様。一つ、確認させてください」


「なによ。早くしなさい。鍋が焦げる」


「声を差し上げるというのは、具体的にどういうことでしょう。声帯を物理的にいただくのですか?それとも、声という概念をいただくのですか?」


魔女の手が止まった。鍋の泡がひとつ弾けた


「概念? 概念ってなによ」


「つまり、声が出なくなるのか声そのものがなくなるのか。前者なら、私は声を出そうと思えば出せるけれど出せない、という状態になります。後者なら、声という考え自体がなくなる。全然違います」


「あんた、姫でしょう? 姫がそんなこと考える?」


「姫だから考えます。民をまとめるのが姫の仕事です。契約の内容を理解せずにサインする姫がどこにいますか」


魔女は鍋の火を弱めて、腕を組んだ。「声帯よ。声帯をいただくの。あんたは声が出せなくなる。それで終わり。概念とか言うな。気持ち悪い」


「なるほど。では、声帯を差し上げた場合私はどれくらいの期間、声が出せないのですか」


「永久よ。永久。この先の将来全て。声と引き換えに脚。それが相場」


「相場。では、相場を教えてください。他の方は皆、声を差し上げているのですか?」


「そりゃそうよ。声は高いのよ。脚も高いの。だから声で払うの」


「では、声以外の支払い方法はないのですか」


魔女は眉をひそめた

「あるにはあるけど。髪とか。指とか。そういうので払う人もいるわよ。でも声が一番いいの。無形の美よ。声は魔女のコレクションになるの。美しい声は特に」


「私の声は美しいですか?」


「美しいわよ。だから欲しいの。悔しいけど」


「では、私の声を差し上げる代わりに私に何をくださいますか?声は高い。脚も高い。けれども美しい私の声なら?等価交換なら、脚以上のものをいただかないと釣り合いません」


魔女は椅子から立ち上がった

「ちょっと待ちなさい。あんた、値切る気?」


「値切りではありません。適正価格の交渉です」


「姫が値切るな!」


「ですから値切りではありません。適正価格の——」


「同じことよ!」


魔女は鍋をかき混ぜた。泡が怒ったように弾けた


「いい? あんたの声は美しい。それは認める。でも脚はもっと高いの。あんたの声だけじゃ足りないの。だから普通は声プラスアルファよ。あんた、何か他に持ってる?」


「筋肉です」


魔女は瞬きをした


「筋肉?」


「はい。毎日泳いで鍛えています。この尻尾の筋肉は相当なものです。びちびちです。差し上げてもいいですよ。脚になった後は不要ですから」


「いらな——いや、待って。筋肉は。筋肉はちょっと欲しいわね。魔女の鍋には筋肉エキスが要るのよ。でもあんたの声と筋肉じゃ、まだ足りないわね。脚は本当に高いの。王子に会うんでしょう? 王子に会うための脚よ。プレミアムがつくの」


「プレミアム」


「そうよ。恋のための脚は特別製なの。普通の脚より高いの」


「では、普通の脚をください」


「は?」


「普通の脚で結構です。王子に会うのに特別製の脚は要りません。歩けて泳げる脚ならなんでもいいです。走れなくても構いません。歩ければ」


「あんた、王子に会いたいんじゃないの?」


「会いたいです。でも走って追いかける必要はありません。歩いて近づけばいい。急ぐ必要はありません。急いで失敗するより、ゆっくり、確実に仕留めて魅せます」


魔女はしばらくアリエルを見ていた。それから、ふっと笑った


「あんた、面白いわね。普通の脚でいいって言った人、初めてよ。みんな特別製を欲しがるの。恋のための脚を。恋は盲目なの。完璧な状態でファーストコンタクトを求める。あんたは違うのね」


「声は差し上げられませんので」


「でしょうね。もうわかったわ。あんた、声を渡す気、最初からないでしょう?」


「はい。声は私の武器です。王子に話しかけるのに声が要ります。声を失ったら王子に何も伝えられません。脚だけもらっても意味がありません」


「じゃあ、何を渡すのよ。脚はタダじゃないわよ」


「筋肉と、あと、これを」


アリエルは髪から真珠のようなモノを外した。白くて丸い。所々、虹色に光っていた

「人魚の涙です。海の底でも地上でも価値のあるもの。これで足りませんか?」


魔女は人魚の涙を手に取って、光にかざした

「あんた、泣いたの?液体ではなく、玉になる人魚の涙は、一生に一度しか作れない」


アリエルは微笑んだ


「いいわね。これは高いわ」


「では、これで脚を」


「待ちなさい。でも、まだ足りないわ。人魚の涙と筋肉で、普通の脚。でもあんたは声は渡さない。それなら、条件をつけるわ」


「なんでしょう?」


「あんたの声を泡に包んで、毎晩ここに届けなさい。電話でも良いけれど。あんたの声を、あたしが聞くの。コレクションにはしない。ただ聞くの。それなら声はあんたのままだし、あたしも美しい声を毎晩聞ける。どう?」


アリエルは考えた。毎晩海の底まで声を届ける。それくらいなら、できる


「わかりました。毎晩、ここに声を届けます。ただし歌は歌いません。話すだけです。それでよければ」


「話すだけでいいわ。たまに歌ってくれてもいいけれど。あんたの話、面白そうだもの。姫が値切る話とか、聞きたいわ」


「値切りではありません。適正価格の——」


「はいはい。適正価格の交渉ね。わかったわ。じゃあ、契約よ」


魔女は羊皮紙に新しい条件を書き込んだ。声は渡さない。人魚の涙と筋肉と、毎晩の声の届け物。それで普通の脚。アリエルはじっと見つめた


「魔女様?契約不履行の場合、声を差し出す、と?」


「あんた約束やぶる気?」


魔女は舌打ちした


「いいえ。けれどももしかしたら風邪というものをひくかもしれません。魔女様のお気に入りの声がガラガラ声になるかもしれません」


「それも面白そうだけれど」


魔女は笑った


「いいわ。気付いたものね。故意ではない、3日までの遅延は歌で勘弁してあげる」

「永遠の眠りにつく時は」

「あたしのモノね。魔女は執念深いの。諦めなさい」


「声だけ」

「ええ、声だけ」


死した後は声は不要

アリエルはサインした


「一つ聞いていい?」


魔女が言った


「なんでそんなに交渉が上手いの?姫でしょう? 交渉なんてしないでしょう?」


「姫だからです。民との約束、隣国との約束すべて交渉です。声を失ったら、交渉ができません。交渉ができなければ、姫は務まりません。それは人魚でも人間でも変わらない」


魔女は感心したように頷いた

「あんた、いい姫になるわよ。声を守った姫は初めてよ。みんな声を渡して、後悔するの。声を失ってから、失った声の大切さを思い出すの。後の祭り。あんたはかしこい。」

魔女は言った


「魔女様。私は将来を見据えております。王子と結ばれるために声が必要なのです。私の武器だから」


「ええ」

「けれども魔女様。声は、増えるのです」


アリエルは笑った


「私の子どもも、きっと美しい声ですわ」


「あたしのモノになる?」


「魔女様が長生きすれば、あるいは子どももここに来るかもしれません。欲しい願いのために」


「あんた、本当に姫?」


「ええ。ですからやっぱりこの契約は、正解です」


アリエルは一礼した

魔女は鍋から薬をすくって小瓶に入れた


「これを飲みなさい。明日の朝、尾が脚になるわ。痛いわよ。とても痛いわよ。声を守った代わりに、痛みは倍よ。プレミアムにしておく?」


「結構です。痛みは筋肉で耐えます」


「筋肉で耐える痛みじゃないわよ。でもまあ、いいわ。耐え切った筋肉をもらうのはあたし。飲みなさい」


アリエルは小瓶を受け取った。そして、


「声のお届け物ですが、何を話しましょうか」


「なんでもいいわ。あんたの話を聞かせて。王子の話でも、子どもの話でも。あたしはここにいるから、外の話は聞けないの。あんたの声で、外を聞かせて」


「わかりました。では、毎晩、その日にあったことを話します。私の話は続きますから」


「楽しみにしてるわ」


「たまに電話しますね」


アリエルは小瓶を持って魔女の館を出た。海の底は青く暗く、光る魚が灯りのように泳いでいた


アリエルは薬を飲んだ。苦かった。尾は脚になった。痛みは激しかったが、筋肉で耐えた。いや耐えられなかった。痛みでのたうち回った。だが、声は失わなかった。声があったから、痛みを叫べた。叫べたから少しだけ楽になった


魔女は海の底でその叫びを聞いて笑った

「声を守った姫の叫びは、美しいわね」


そして毎晩、アリエルは海の底に声を届けた。痛みのあまり気絶したこと、波打ち際で王子に助けられたこと、筋肉を失って、ふにゃふにゃの脚で歩く練習をしたこと。魔女はそれを聞いて、鍋をかき混ぜながら頷いた。


「姫が値切るな」と魔女は言った

「でも、値切った姫の話は面白いわ」


海の底に、アリエルの声が届く。声は失われなかった。代わりに、物語の続きが生まれた

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