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第2話 契約

 宿の部屋は、日の落ちかけた暗さで満ちていた。


 エリスは寝台の端に腰を下ろしたまま、灯りをつけていなかった。窓の外、路地に面した石畳がまだ夕日の名残を含んでいる。その光が薄れていくのを、ただ見ていた。


 道具は片付けてある。荷物も昨日からまとめてある。翌朝の便の時刻は、宿番に二度確認した。二度とも同じ時刻を言われた。


 明日、この街を出る。


 それだけだ。


 路地で何があったかを考えようとした。護衛を複数連れた長身の男。「助かった」という礼の形をした言葉。感情の映らない青灰色の目。エリスが言葉を発する前に動いていた体。——それから、あの香り。


 シダーウッド。その奥のベチバー。さらにその奥の。


 考えるのをやめた。


 整理しようとするたびにあの白檀が戻ってくる。弔いの席で焚かれる、静かな残り香。生きている人間からは滅多に嗅がない香りだ。でも確かに届いた。あれほどはっきりと、あれほど静かに。


 旅をしながら、傷を持つ人間の香りをいくつも嗅いできた。戦乱の後を通ったとき。難民の群れが眠る夜。病の蔓延した街の片隅。生き続けることを諦めた人間には、それぞれ違う匂いがある。焦げた匂い、投げやりな虚ろな匂い。


 でもあの白檀は違った。もっと、静かだった。


 エリスは寝台に横になった。目を閉じた。


 ——私には関係ないこと。


 布団を手繰り寄せ、頭を覆った。


---


 浮かび上がるのは、いつも同じ場所だ。


 低い丘。渡ってくる冷たい風。足の裏で乾いた草が折れる。


 燻した肉の煙が届いていた。どこからだろう、でも確実に近い場所から。獣脂の灯りの匂いも混じっている。温かい光が揺れているのが、目を閉じていてもわかった。


 誰かがいる。抱き寄せられた肩に、体温がある。声も、顔の輪郭もない。ただ温かい。それだけのことが、ひどく大事なものに思えた。


 この感覚を、引き留めようとした。


 でも薄れていく。砂のように、指の隙間から落ちていく。体温の名残が空気に溶けて、草の匂いが遠ざかって、風だけが残る。


 目が覚めた。


 宿の天井だった。夜明け前の、青白い時間だ。


 草原の匂いは、今では正確に思い出せない。故国を出たのは確か七歳。今年で二十一。十四年かけて、草の青い匂いが滲んだ。冷たい風の感触が滲んだ。誰かの体温が滲んだ。


 これから先の年数の分だけ、さらに滲み続けるのだろう。それが終わる場所が、どこにあるのかは、わからなかった。


 エリスはしばらく天井を見ていた。それから起き上がって、道具袋の口紐を確認した。


---


 朝の路地は、まだ湿気を残していた。


 窓の硝子に薄い霧が漂っている。路地の突き当たりのパン屋から、窯の煙が流れてくる。酵母と小麦の香り。どの街でも似ている。エリスは荷物を背負い直して歩いた。


 宿代は昨夜のうちに払ってある。道具を確かめるついでに師匠のノートを触った。革の表紙が少し硬い。重さはいつも同じだ。その重さだけを確かめて、一番下に入れた。


 馬車乗り場は広場の南側だ。


 東の国境に近い街か、交易路の宿場町か。どちらでもいい。どの街でも仕事はある。どの街でも同じように働いて、去る。それを繰り返す。


 路地の奥で猫が一匹、陽だまりのない石畳に丸くなっていた。エリスが通り過ぎても動かなかった。


---


 朝の市が、広場の端から開き始めていた。


 野菜の露店、乾物の台車、旅人がばらばらと行き交う。通りには朝の光が斜めに差し込んで、まだ人の少ない広場に伸びている。エリスは人びとの端を選んで歩いた。少しでも混雑した香りを避けて。


 馬車乗り場は広場を突っ切った先だ。


「調香師の方ですよね」


 声をかけてきたのは、四十がらみの商人だった。厚手の外套に旅の埃が積もっている。腰の革袋を見てわかったのだろう。


「今日の商談前に、一本欲しいんですが。印象のいい香り。相手を——まあ、うまくやりこめられそうな」


 エリスはその人物を一度だけ見た。


 焦げた樹皮。それが最初に届いた香りだった。角が鋭く、乾いた緊張の香りだ。その奥に、もっと重い層がある。湿った土のような香り。ずっしりとした重さ。それでも負けたくないという、声を立てない頑固さ。


 この人は相手をうまく丸め込みたいのではない。自信がないのだ。


 準備はできている。ただ、自分を信じる足場が少し揺れている。


「時間はどれくらいありますか」


「一刻も経たないうちに、相手が来ます」


 エリスはオルガンを広げた。折り畳み式の棚に香油の小瓶が並ぶ。師匠の手からエリスの手に渡ってもう三年になる道具だ。指が迷わず三本を選んだ。


「相手に渡すより、ご自分が身につける香りの方が必要だと思います。商談の前に一度嗅ぐだけでいい」


「自分が……」


「はい」


 エリスは調香瓶に蒸留酒を注いだ。ラストノートから順に落とす。パチュリを三滴。土が深く息をするような重み。足が地に戻る感覚だ。次にフランキンセンスを十滴。師匠がいつも「古い神殿の空気だ」と言っていた香り。吸う息が自然に深くなる。最後にベルガモットを五滴。ここだという今この瞬間に、意識を引き戻す。


 混香棒でかき混ぜた。


 ムエットに三枚、一滴ずつ落とし、三枚重ねて手渡した。


「一度、深く」


 男が嗅いだ。


 肩から力が抜けた。焦げた樹皮の香りが薄れ、湿った土の奥にあったものが表に出てくる。男の体が少し大きく見えた。背筋ではなく、内側から。


「……なんだ、これ」


「いつでも嗅げるよう、ムエットを取っておいてください」


 代金を受け取り、エリスはオルガンを畳んだ。


 男が礼を言いながら広場の向こうへ歩いていった。エリスは小瓶を確かめながら顔を上げた。


 広場の向こうに、人影があった。


 立ち止まっている。こちらを見ていた。


 昨夜の男だった。


 整った装い。深い黒の髪、長身。いつからそこにいたかはわからなかった。人の流れが自然によけていくのを、本人は気にしていない。


 エリスが会釈した。男が頷いた。


 二人の間に、広場の朝の人の流れがあった。


---


 男は真っすぐに歩いてきた。


 護衛はいなかった。昨日と同じ装いで、人の流れを割るでもなく、流れが勝手に開いていった。あの静かな立ち姿はそのままだった。


「昨日の礼を言う」


 エリスは革袋の口紐を一度確かめた。


「……いいえ。たまたま通りかかっただけです」


 男は一拍置いた。


「調香師なら、しばらく同行してくれ。各地への贈り物に、調香が要る。旅の途中の君に頼むのが都合がいい」


 エリスは視線を、男の胸のあたりに向けた。顔を見ると、青灰色の目に何かを読まれそうな気がした。


「理由を伺えますか」


「今言った」


「他の調香師でも——」


「君で構わない」


 断る理由を塞がれた、とエリスは思った。押し付けでも命令でもなかった。ただ、そこにある事実として言われた。


 広場の音が少し遠くなった。


 深く息をしないようにしていた。でも鼻は正直だ。シダーウッドの、ひんやりとした強さが届いている。揺るがない。折れない。昨夜と同じ香りだ。ベチバーの重い根が絡んで、その奥に——


 朝になっても、消えていなかった。


 エリスは視線を石畳の継ぎ目に向けた。


「私には、不釣り合いな仕事だと思います」


 卑屈ではなく、社会の構造として言った。王族か高位の貴族か、どちらにせよ、そういう相手に旅の調香師が長く関わるのは釣り合わない。釣り合わない場所に入り込んで困るのは、こちらだ。


「不釣り合いかどうかは、俺が決める」


 強制の響きがなかった。やはり、事実として言われた。


 エリスは石畳から視線を上げた。


 断ろうとした。理由ならある。この街で七日仕事をして、今日出発する。次の街は決まっていないが、どこでも仕事はある。仕事の先が決まった場所に縛られる必要はない。


 でも口をついて出たのは別の言葉だった。


「……私は、東の国境方面に行きます」


「同じ方向だ。要件は追って伝える。旅費と報酬は財務から出させる」


 男が頷いた。それだけで合意になった。


 自分が何を言ったのか、少しの間、理解できなかった。きっぱり断ろうとしていた。そのつもりだった。


 男は、私がついてくることに微塵の疑いも持たないかのように、背を向けて歩き出した。


「あの、お名前をうかがっていませんでした」


「アルド」


 姓も称号も続かなかった。エリスも聞かなかった。この人が何者かは昨日の様子でわかっている。確かめてしまうと、また余計なことを考えなければならなくなる。


 二人とも歩きながら黙っていた。広場の喧騒だけが遠くにあった。


 エリスは自分が今何をしようとしているのかを整理しようとした。うまくいかなかった。


 広場の向こうから足音が来た。


 二人の人間が足早に歩いてくる。昨夜の顔だ。アルドを見つけた瞬間に表情が緩んで、エリスの存在を確認した次の瞬間には引き締まった。


 アルドが護衛を一瞥した。


 そのとき、アルドの居住まいが微かに変わった。肩の角度が。首の傾きが。外に向けていた何かが、静かに内側へ引き取られた。


 護衛の一人が何か囁いた。アルドが短く答えた。内容はエリスには届かなかった。


 エリスは革袋の口紐を確かめた。


「荷物はそれだけか」


 アルドが振り返って言った。


「はい」


 三人が歩き出し、エリスは少し距離を置いて続く。護衛二人がアルドを挟む隊形が自然だった。エリスは何かを考えそうになり、止めた。


---


 馬車乗り場には、エリスが乗るはずだった古びた馬車の奥に、磨き上げられた車体の馬車が二台あった。


 先頭の大きな馬車に護衛たちが乗り込む。後に続く小さな一台が、エリスに宛てがわれた馬車だった。


 乗り込もうとしたとき、アルドが傍を通った。何かを護衛に指示しながら歩いている。すれ違いざまに、風が来た。


 昨夜と同じ香りが、一瞬だけ届いた。


 エリスは幌の中に乗り込んだ。座席に革鞄を置く。御者が外で何か確認する声がして、それから馬車が静かに動き出した。


 アヴィスの石畳が遠ざかっていく。露店の布の色が流れた。人の流れが後ろへ行った。昨夜くぐった路地の入り口が、視野の端を過ぎていった。


 この街にいたのは七日だった。次に来ることはたぶんない。どの街も、そうだった。来て、仕事をして、去る。今日もその繰り返しのはずだった。


 ただ、今日は一人ではなかった。


 先を行く馬車の後ろ姿が、幌の隙間に見えた。次の街へ向かう同じ方向に、同じ速さで動いている。


 次の街で何が必要か。在庫の確認。宿の相場。それだけを考えよう。


 エリスは窓枠に指を触れた。


 指先に、革袋の感触はなかった。

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