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第1話 弔いの香り

 朝の市場は、嘘の匂いがする。


 エリスは露店の軒先に並んだ小瓶を眺めながら、そう思った。革の手袋をはめた商人が「南方直送、本物の龍涎香ですよ」と声をかけてくる。エリスは小瓶を一本手に取り、コルク栓の隙間に鼻を近づけた。


 甘い。甘すぎる。そして、その奥にかすかに染料の焦げた匂いが混じっている。


 ラブダナムだ。龍涎香に似ているが、別物。


「質はいいですよ、お嬢さん。どこから来たかご存知ですか」


「いえ」


 エリスは小瓶を棚に戻して、礼を言ってから離れた。ご高説を聞く気にはなれなかった。


 辺境の街アヴィスの市場は、夜明けから騒がしい。


 王都から馬で四日。国境警備の兵と出稼ぎの商人と、どこへ行くとも決まっていない旅人が混じり合い、石畳の上にはカラフルな露店が広がる。


 香料の露店は通りの奥まったほうに固まっていた。エリスが宿に着いたその日に確認した場所だ。


 旅の調香師にとって、市場は仕事の入り口だ。珍しい香料が手に入ることもあるが、もっと大事なのは人の話を聞くことだ。


 露店の主人は街の事情に詳しい。誰が悩みを抱えているか、どの商人が最近ついていないとか。乾物屋の女房から聞いた、宿の女将が最近ため息をつくという話が、今回の仕事にも繋がった。


 腰の革袋に指が触れた。癖だ、と自分でわかっている。不安なとき、考え込むとき、それから仕事が終わるとき。指先が革の感触を確かめに行く。


 今日で、この街での仕事は終わりだ。


---


 宿に戻ったのは昼前だった。


 部屋は小さかった。荷物を広げれば半分以上が埋まる。エリスは昨日から床に広げていた道具を片付けながら、窓の外の路地を見ていた。石畳に午前の光が伸びている。もう少し経てば、市場の客が増えて騒がしくなる。


 机の上に、小さな香瓶が一本置いてある。ゼラニウムとローズウッドを基調にした香り。昨夜、一晩かけてマセラシオンを済ませたものだ。


 依頼人はこの宿の女将。「夫への贈り物に」と言っていた。


 女将の体から漂う香りを、エリスは最初の挨拶で読んでいた。おだやかなローズの甘さの奥にある、ずっと誰かを支え続けてきた疲れ。柔らかさの下に燻ぶるような、くすんだ匂い。


 彼女には、誰かのための香りではなく、自分のための香りが必要だとわかった。


 でも、それは言わない。「夫への贈り物に」という依頼を受けて、女将が自分で手首に触れたくなるような香りを作る。それだけでいい。


 昨日の午後、エリスは宿の一角を借りて道具を広げた。折り畳み式の携帯オルガンを開くと、小さな階段状の棚に香油の小瓶が並ぶ。師匠から譲り受けた年季の入った道具だ。革のあちこちが黒ずんで、金具は飴色になっている。エリスはそれを毎朝布で拭く。習慣になってから、もう三年が経つ。


 ゼラニウムを選んだのは迷わなかった。支え続けることに疲れた人間に向く香りだ。その骨格にローズウッドを足すと、疲れに寄り添いながらも芯が通る。最後にカモミールをほんの少し。角が取れて、夜に眠れる香りになる。


 調香瓶に蒸留酒を注ぎ、滴管でラストノートから順に落としていく。ローズウッドを三滴。次にゼラニウムを十二滴。最後にカモミールを一滴だけ。混香棒で静かにかき混ぜると、香りが立ち上った。


 師匠はいつも言っていた。依頼人が欲しいと言う香りと、必要な香りは違う、と。


 エリスはムエットに一滴落として確認した。ゼラニウムの柔らかさの下で、ローズウッドがゆっくりと広がってくる。これでいい。


 約束の正午ちょうどに、エリスの部屋の扉がノックされた。


 受け取りに来た女将は目を細めた。「こんなに合う香りは初めてです」と言い、蝋を封にした小瓶を両手で抱えた。


 エリスは代金を受け取って、会釈した。「ご主人さまにきっと喜ばれますよ」。


---


 道具の片付けを終えると、エリスは小さな鞄を手に宿を出た。


 次の街へ。荷物は今朝にはもうまとめてあった。


 翌朝の便で馬車を一本押さえてある。残った半日で、市場を見て回るつもりだった。珍しい香料があれば補充する。なければ、土地の匂いをノートに書き付けて終わりにする。


 次の行き先は、まだ決めていない。東の国境に近い街か、それとも交易路の大きな街か。交易路沿いの街は、珍しい香料が集まる。それだけでなく、あらゆる人間と情報が行き交う場所だ。


 旅する調香師というのは不思議なもので、仕事の話の合間に、依頼人が様々なことを話してくれる。暴露めいた告白もめずらしくない。調香師はきいた話を次の街に持っていかない、という信頼があるからかもしれない。


 でもエリスには関係ないことだった。どの街の誰が揉めているとか。王都でどんな人事があったとか。


 自分がいる場所で、目の前の仕事をする。それだけがエリスの世界だ。


 エリスは市場から外れた路地を選んで歩いた。人が少ない方がいい。


 複数の人間の感情が混じり合った香りは、頭の奥に鈍い痛みを呼ぶ。市場の中心はできるなら避けて通りたい。


 街の外れにある香料倉庫の脇を通った。干されたラベンダーの束が軒先に下がっている。エリスは立ち止まって、一本手に取った。産地は南方ではない。国境のこちら側で採れたものだ。香りは野性的で少し荒い。でも、嘘がない。


 小さなノートを開いた。その土地土地の香りは名前を持っていないから、代わりに組み合わせで書く。赤土、乾いた草と豆を煮る煙、今日はラベンダー。師匠から受け継いだ古いノートと、エリスが自分で書き始めた新しいノートが二冊、旅の荷の中にある。師匠のノートは開かない。でも捨てられない。


 ラベンダーの束を棚に戻し、エリスはノートを閉じた。


 馬車の時間まで、まだある。宿に戻る前に、もう一区画だけ回ろうと思った。


---


 宿へ戻る道を選んだ頃には、空が橙色になっていた。


 角を曲がろうとして足が止まった。


 気配が、変わった。


 鉄の匂いだ。革と、それから激しく動く人間の体温が折り重なった、じっとりとした匂い。エリスは路地の手前で立ち止まり、壁に背を寄せた。路地の奥から音がする。人が何かにぶつかる、くぐもった衝撃音。


 中を見てはいけない。それが正しい判断だ。自分には関係ない。


 でも足は角を曲がっていた。


 暗い路地の奥に、長身の男がいた。壁に背をつけ、三人に囲まれている。男に突きつけられる刃物の光が、夕暮れの中で光った。


 エリスはこの光景に違和感を感じた。


 恐怖の匂いがない。


 囲まれている側の男から、恐怖の焦げた匂いがしなかった。代わりに届いてきたのは、シダーウッドのひんやりとした低音だった。揺るがない。流されない。静かな、強さの香り。さらにその奥に、ベチバーの重い根が絡んでいた。


 この人は、三人に囲まれても落ち着いている。


 ただ、その奥に——


 エリスは眉を微かに寄せた。


 白檀だ。


 シダーウッドの揺るぎない強さの、そのさらに下から。弔いの席で焚かれる白檀の、静かな残り香。


 生きている人間から、これを嗅いだことはなかった。


 弔いの場には何度か居合わせた。戦乱で家族を失った村を通ったとき。難民の群れの中で、誰かが夜中に静かに逝ったとき。白檀は死者を送る香りだ。その場に焚かれるものだ。今ここで生きて立っている人間から、これが漂うはずがない。


 でも漂っている。


 この男は何かを諦めている。それも、ゆっくりと、長い時間をかけて。


「誰だ」


 三人のうちの一人が声を上げた。視線がエリスに向く。


 声が出た。自分でも止められなかった。


「ここを、通り抜けさせてください」


 三人の注意が分散した。男が動いた。


 エリスには詳しく見えなかったが、音が二つ続いた。革が擦れる音と、人が地面に落ちる音。三人目が短く何かを叫んで足音が遠ざかった。それだけで静けさが戻った。


 路地の中を見ると、二人が地面に転がっていた。気を失っている。男は壁から離れ、髪を一度乱暴にかき上げた。


 エリスは一歩退いた。


 背が高い。エリスの頭ひとつ以上は優に上回る長身だ。深い黒の髪が夕暮れの中でわずかに青みを帯びて見えた。白磁のような肌。旅の埃ひとつない装い。動じた様子のない、まっすぐな立ち姿。


 暗い青灰色の目が、こちらを見た。感情が映らない。


「助かった」


 声の温度は低かった。礼の言葉の形をしていたが、感謝かどうかわからなかった。


 エリスはもう一歩退こうとして、止まった。


 白檀の残り香が、まだ届いていた。さっきよりはっきりと。


 生きている人間からする、弔いの香り。


 この香りは何だろう——


 死への恐怖を失っている人ではない。そう言う人間の匂いをエリスも何度か嗅いだことがある。投槍のように向かってくる、荒い匂いだ。これは違う。


 もっと、この香りは哀しい。


 生き続ける理由を、探しているような。


 男の視線がエリスの腰の革袋で一瞬止まった。


「旅人か」


「調香師です。旅をしながら仕事をしています」


 男は黙った。エリスの返答を処理している沈黙ではなかった。別のことを考え直している、そういう間合いに聞こえた。


 エリスは無意識に息を浅くした。深く吸い込んでしまうと、読んでしまう。もう十分すぎるほど読んでしまっていた。


「名前は」


「エリスです」


 男はしばらくエリスを見ていた。青灰色の目が、何かを測っていた。


「……わかった。君もここから離れろ」


 そのまま路地の奥へ歩いていく。


 そこへ、路地の角から二人の人間が走り込んできた。息が上がっている。その顔には、隠しきれない狼狽があった。一人が男に向かって何か言いかけた——男は振り返りもせず、片手を軽く上げた。それだけで、二人は口をつぐんだ。


 エリスは息を飲んだ。


 鍛えられた体つき、護衛だろう。身なりは整っており、立ち振る舞いに荒さは感じない。そういう人間を何人も連れている相手が、どういう身分の人間か、エリスにはわかった。


 王族か、それに準じる何かだ。


 三人の足音が遠ざかり、やがて路地に静けさだけが残った。


 エリスは動けなかった。


 白檀の残り香が、鼻の奥に居座っている。


 これは本当に厄介な種類の香りだ。


「この人は悪意を持っている」とわかるものは、距離を置けばいい。「この人は嘘をついている」とわかるものは、その事実だけ受け取って終わりにする。でも「この人は苦しんでいる」とわかる香りは、見過ごすか否かを、自分に課してくる。


 あの男は、王族か貴族の類だ。エリスには関係のない世界の人間だ。


 エリスは自分に言う。関係ない。明日の馬車に乗って、次の街へ行けばいい。


 腰の革袋に指が触れた。

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