第7話
「目の前で見た花火、凄かったね〜」
「……うん。綺麗だったな」
花火の打ち上げを見るのに一旦区切りをつけ、会場から離れる二人。
陽乃は、先ほどまで見ていた光景の余韻に浸っていた。
爆音と共に網膜に焼き付く光の数々。あのような光景はテレビなどで見ることはあったものの、やはり生で見るのは新鮮さがまた違った。火薬が弾ける音と光を全身で浴びるこの感覚は、画面越しでは味わえない。
色とりどりの美しい光に飲み込まれていると、花火のものとはまた別の熱を左手に感じた。
ふと横を見ると、最愛の人が同じものを眺めていて。
ふわふわして、心地が良くて。ずっとこのまま時が止まってしまえばいいのに、なんて。
そんなことを思っているうちに、夜空に浮かぶ光の波紋は全て消えていた。
「ほんと、あっという間だったね。花火を打ち上げてる時間って、あんな短かったんだ」
「わかる。楽しい時とか、振り返ると一瞬だったなって思う時よくある」
本当に、と陽乃は相槌を打つ。
下駄の音をアスファルトに響かせている間も、地面の感触が変わって土の匂いがしてきた時も。彼と一緒にいる時間は、いつもあっという間に過ぎ去ってしまう。
輝樹の後に着いていきながら、彼女はまさにそのことを感じていた。
「……着いた。良かった、なんとか間に合ったか」
「ここって……」
陽乃と輝樹は、お祭りの会場から十分ほど歩いた場所にある人気が少ない河川敷に到着する。
「ちょっと歩かせてごめんな。足、痛くないか」
「ううん、平気だよ。ありがとう」
「なら良かった。次の二陣が始まるのが終わった後の、三十分後だって言ってたろ? それまでに、陽乃をここまで連れてきたかったんだ」
このお祭りは、毎回花火を二回に分けて打ち上げる。先ほど見終えたのが、花火の打ち上げスケジュールの第一弾だった。
「受験の時、図書館の帰りにちょっと寄った場所がこの河川敷でさ。去年はここからよく花火が見えたから……」
「へぇ。ここの近くの図書館って、宵ヶ丘くらいしか思いつかないけど……」
「いや、合ってるよ。あそこ」
「え! あそこからここって近いんだっけ⁉︎ ちょっと離れてない?」
「あ、いや。意外と近いぞ。全然歩いていける距離。というか、宵ヶ丘の図書館知ってるんだな……まあ、当然っちゃ当然か」
陽乃は本マニアだけでなく、図書館マニアでもある。地元にの近い図書館など、とうに調べ尽くしているのだろう。
「うん、私もよく行ってたよ!」
「え、そうなの?」
「ふふ、うん。放課後とか、休日とか。よく本借りに行ってたなぁ」
「そうなんだ。俺もよくそこで受験勉強してたから、もしかしたらすれ違ってたかもな」
「そうかもね。……あ」
話していると、時間になったのか空に火薬の花が咲いていた。
「……ん?」
少しの間、花火を見ていて輝樹は違和感を覚える。打ち上げ花火の第二陣が始まった……筈なのだが。思ったより遠いのか、角度が悪いのか。花火自体は見えはするものの、想定より小さく見えてしまう。
「あ、あれ。こんなだったっけ……? 去年はもっと、綺麗に見えたはずなんだけど……」
「え、そうなの? 私は綺麗だなって思うけど。そりゃ会場よりは小さいけど、ちゃんと見えるし。寧ろ風情があっていいなって私思うな」
「……そっか」
想像以上に、陽乃はこの場所から見る花火を気に入ってくれたらしい。彼女の反応に、少し気が楽になった輝樹だった。
「うん。それに私、そんなに人混みが得意じゃないから、こういうところ選んでくれて助かっちゃった。あそこで立って見るのも素敵だったけど、私はこういう静かでゆっくり見れるところの方が好きだな」
遠くで聞こえる花火の音が反響する。様々な光のドレスを纏った彼女の横顔は、一際綺麗だった。
「……うん。そう思って、ここに連れてきたんだ」
「……」
以前、輝樹は陽乃と満員電車に乗ったことがある。その時、四方からの人の圧に押されて青ざめている彼女の顔を輝樹は鮮明に覚えていた。
人混みが苦手だと前から聞いてはいた。そこで今回、彼は美紋に協力してもらい、最も混む時間帯であろう花火鑑賞の時間をこちらが任意のタイミングで抜けても違和感がないように調整してもらっていたのだ。
案の定花火の会場にいた時は、陽乃の顔色が少し悪かった気がするが、ここに着いた時にはもう良くなっていた。
「……陽乃? 大丈夫か?」
「あ……うん。ちょっと、考えごと」
顔色を伺う輝樹だったが、彼女の様子がどこかいつもと違っていた。
少しの間遠くを見つめた陽乃は決意が固まったのか、神妙な顔で彼に向き合う。
「うん。やっぱり、テルくんには知ってもらいたいなって思って」
陽乃の指先に僅かな力が籠る。いつになく真剣な彼女の声色に、輝樹も気を引き締めた。
「これ、テルくんにはお祭りがちゃんと終わってから言うつもりだったんだけど。私……ちょっとだけ、パニック障害な気質があるの」
「え……?」
パニック障害。陽乃の場合は、その中でも広間恐怖と呼ばれる症状である。空間恐怖と呼ぶこともあり、広いショッピングモールで大勢の人に囲まれる事が怖くなったり、自宅の風呂やトイレなど狭い場所にいる時に鍵がかけられなくなるような心理状況に陥ることがある障害だ。
陽乃の症状はどちらかといえば前者であり、人が多い場所に行くと、動悸が激しくなり冷や汗が止まらなくなってしまう事がある。
それこそ、自覚したのは小さい時に行ったお祭りの時ごろから。人混みに紛れると一人取り残されてしまったらどうしよう、という緊張感やストレスから来るものかもしれない、と陽乃は話した。
「あ、本当にちょっとだけだよ! 本当にあるわけじゃなくて、その予備軍みたいな、一歩手前みたいな感じかな。お薬とかも必要ないし!」
それでも、である。そこまで深刻なものだとは輝樹は知らなかった。彼がその衝撃を受け止め、処理している間にも陽乃の口は動いていく。
「……だからね。本当のことを言うと、今日が少し心配だったんだ」
短く息を呑む輝樹。やはり、今日は無理にでも陽乃を早く帰らせたほうが──
「でも、全っ然大丈夫だった! だって、テルくんがずっと側にいてくれたから」
輝樹の陰る思考に光を差し込むように、陽乃は微笑んだ。
「……!」
先程生まれた黒い自責の念が、目の前の笑顔で、彼女の一言で、いともたやすく全て消え去ってしまう。輝樹の根暗な思考を鑑みても尚、損なわれることのない陽乃の明るさ。その光に、どれだけ救われているか計り知れない。
陽乃が届けてくれた言葉が持つ力を胸に大事にしまいながら、輝樹もありったけの気持ちを口にする。
「うん……でも、そっか。そう言ってくれると……なんか、ほっとする。安心したよ、こっちこそありがとうな。陽乃のそういうところ、好きだ」
「……っ!」
「ん? ……っあ! い、いや。今のは違くて! あ、いや違わないけど……その、なんていうか。い、勢いっていうか……!」
「……ずるいよ、テルくん」
(そんなこと言われちゃったら、私、切なくなっちゃうよ)
きっと、いつもこんな感じなんだろうなって。ふとこういう風に、本音を当たり前みたいに言うから、こんなにも惹きつけられてしまうのだろう、と陽乃は火照った頬を浴衣の袖で隠す。
その間に、輝樹は咳払いをし何とか平静を取り戻していた。
「……まあ。何が言いたいかっていうとですね。うまく伝えられてるか分からないけど……とにかく。今日一緒に来てくれて、ありがとう」
「……!」
「今日が、その。人生で一番、ってくらい超楽しかったし。うん。マジで。そういう、ことだから……はい」
少しの沈黙の後、ああくそ、締まらないなぁ……と輝樹は頭をかく。こういう時に何を言うか事前に考えてきたはずなのに、目の前の陽乃の眩しさと緊張で全く練習通りにいかなかった。
だが、辿々しくもはっきりと彼の口から紡がれた言の葉は、十分過ぎるほど陽乃の心に沁みていた。
「……テルくん。お礼を言わなきゃなのは、私の方だよ。今日、本当に楽しかった。テルくんのおかげで、今日がこの先ずーっと忘れられない特別な日になっちゃった」
陽乃の方から初めて、輝樹の手を取る。元々持つ気恥ずかしさを乗り越えたその行動が、彼女の気持ちの強さの表れだった。
「テルくん。改めて、今日はありがとう」
精一杯の感謝をこめて、満面の笑みを向ける。
「……ッ!」
これは、効いた。
輝樹の精神面に心臓が矢で射抜かれたような甚大なダメージが入ると同時、こんなに可愛い彼女を前に、言わなければ一生後悔するぞと封印していた悪魔が耳元で囁いてくる。
空いている方の手で数秒頭を抱え呻いた後、輝樹は意を決したような面持ちになった。
「あ、あのさ。陽乃。一つ、我儘言っていいか……?」
「え。う、うん。何?」
真っ直ぐな彼の視線に、とくんと陽乃の鼓動が跳ねる。
「……その。今日、一目見た時から、すごい可愛くて。あの、なんていうか……ほんと、らしくないってわかってんだけど……そういう感情が、ずっとあって」
先程から唇が震えていてうまく話せないのに、何故かどうしようもなく喉が渇く。
「ああ、ごめん。何が言いたいかっていうとだな。つまり……。……ッ」
「っだ、抱きしめても! いいでしょう、か……!」
「……あ、いや。その、ごめん‼︎ 何言ってんだマジで、キモかったよないきなり、うん! ほんと、そういうとこ……」
「テルくん」
今にも消えてしまいそうな顔をしている彼に、陽乃は優しく呼びかける。
「うん、いいよ。私、テルくんになら何されても嬉しいもん」
輝樹がこんなにも直接的に自分のしたい事を口に出したのは、初めてと言っていい。
あれほど気遣い屋な彼が、あれほど自己肯定感の低い彼が、自分の気持ちに真摯に向き合い、それをを前面に出してくれた。
そのことがまず、陽乃は堪らなく嬉しかった。そんな彼の気持ちに、今は精一杯応えたい。
「だから、その……いいよ」
だからこそ、陽乃は目を細め、腕を広げる。
「あ……え。え、その……ほんとに……?」
「うん……」
「あ……」
どく、どくと。心臓の音がこれ以上なく五月蝿い。
輝樹が一歩、一歩とその歩を重ねる度に。陽乃の華奢な身体が近くに迫る。
浅い呼吸が、早くなる。
季節は夏であるはずなのに、身体中が干上がったかのように肌がひやひやした。
気づくと、下を向く陽乃の頭が目の前にあった。
表情は輝樹から見えないが、髪の間から覗く両耳は彼に負けないくらいの紅色に染まっていた。
指先の震えを必死に抑えながら、彼女の胴の脇にある隙間に腕を通す輝樹。
「……!」
布の擦れる音。彼女の髪の香り。口から溢れる吐息。
それらを感じるくらいの、距離の近さ。
腕を通したあとは、それらをゆっくり、ゆっくりと彼女の小さい背中へと向けていく。
「……ぁ」
手のひら、手首、腕。次いで胴体。
感じたことのない、彼女の感触がその順番で輝樹の身体に伝わった。
同時に、彼の背中が柔らかな圧迫感に包まれる。
瞬間、胴体の接着面が急に上がった。
今。胸と背中で、両腕で、全身で彼女を感じている。
(あぁ……)
彼女と出会ってから、今日という夜を幾度夢見てきたか知れない。その度に、そんな自分の汚い欲で彼女を汚すまいと、頭を振ってもやを無理やり晴らしてきた。
しかし、今。こうして最愛の彼女が自分の腕の中にいる。そのことが飛び上がるほど嬉しくて、恥ずかしくて。でもやっぱり嬉しくて。
溢れ出るそんな感情たちが抑えきれなくて、少しだけ、包み込んでいた彼女の身体を引き寄せてしまう。
「……!」
それに呼応するかのように、陽乃も同じ力で応えてくれた。
布ごしに感じる陽乃の温かな体温が、全てを受け止めてくれているようで。許してくれているようで。
輝樹が直前まで感じていた不安はなく、ただただ穏やかな時がそこにあった。
そのまま数秒が過ぎた頃、ようやく言葉での会話が交わされる。
「……陽乃。その、苦しく、ないか……?」
「……うん、大丈夫」
普段なら小さいと言われがちな二人の声も、今なら十分過ぎるほどの距離にある。
「テルくん、あったかいね……すごく、落ち着く」
「……うん」
「…………」
ずっとこうしていたい感情を完全に抑えつけるまで、さらに数秒が経過していた。
名残惜しいと叫ぶ醜い心の中の自分を死にものぐるいで黙らせ、ようやく輝樹が陽乃の身体から離れる。
「……その。ありがとう、陽乃。俺は幸せ者だな」
「ううん、私こそ。いつもテルくんに貰ってばっかり」
離れた後も尚残る、互いの体温の余韻。
その優しい温もりに綻ぶ顔の筋肉を隠すべく、輝樹は頬をかく。
「……いや。俺の方が、陽乃に貰いっぱなしだよ。前の俺じゃ、こんなこと言い出せなかったし……」
何より、と彼は言葉を強くする。
「陽乃のおかげで、俺は変われた。頼りないとは、思うけど……これからも。陽乃を支えていけるよう、頑張るから」
「……っ!」
貰った温かさを、なんとか相手に返したい。自分に出来ることは限られているからこそ、その一心で彼は言葉を紡いでいく。
「あと、それと、陽乃が良かったら……だけど。今日みたいに、こんな俺でよければ、これからもこうやって一緒にいたい」
言動に辿々しさが残るのは、慣れないことをしていると自覚しているからだろう。それだけではなく、彼がかつてないほど緊張しているからでもあるが。
それでも、彼には陽乃を大事にしたいという、ぶれない太い芯が一本ある。
故に、その一言一言がこんなにも陽乃に響くのだろう。
いくら思っていることが口に出やすい輝樹でも、彼は高校生。無論、言いにくい言葉もある。それでも彼が耳を真っ赤にしながら想いを伝えるのは、言うまでもなく──
「その。陽乃が好きだから。いい……かな?」
「ううっ……!」
これは、効いた。
思わず呻き声が漏れてしまうほどに。
自分以外の誰が、目が怖いと距離を置かれがちな彼のこの一面を知っていようか。
爆発寸前の心を必死に握り止めながら、この幸せな圧迫感から少しでも逃れるべく陽乃の口が動く。
「……あ。そ、その! 私からも、お、お願いがあるんだけど……!」
彼女の真剣な物言いに、輝樹も身構える。
「な、なんだ、なんでも聞くぞ」
目を閉じて、一呼吸置く陽乃。暗い中でも分かってしまうほど真っ赤になりながらも、震える唇を何とか動かした。
「あ、あの。こ、今度は……その。私から、抱きしめても……いいでしょう、か……」
「……! え……」
これだけ可愛い女の子が、こんな自分に抱きつきたいと言っている。そんな都合のいい夢があっていいものかと輝樹は耳を疑った。
「い、今。『抱きしめてもいいか』って……?」
さらに顔を赤くしながら、陽乃は頷く。
そんな彼女の様子を見て、もしかして自分は死ぬほど恥ずかしいことをさせてしまったのではないか、と遅れて気づく輝樹。彼は速攻でごめん! と謝ると、ぎこちなく手を広げた。
「あ……そ、その。よければど、どうぞ……」
「……っ!」
彼の合意が取れた時、思ったより早く身体が動いていた。今度は、自分から最愛の彼に胸の中へ飛び込んで行く。
「〜〜〜っ!」
思えば、ずっとこうしたかった。
常に此方を気遣ってくれ、困った時は助けてくれる。彼の優しさに触れるその度に、どうしようもない感情が身体の中を暴れ回って、収めるのに毎回苦労していた。
こんなに近くに彼がいたのに、こんな簡単な方法が今までできていなかっただなんて。
今まで彼から伝わってきた想いを返すように、陽乃は思いっきり彼を抱きしめる。
「……あ」
ふと、顔を上げると。彼の顔がすぐ目の前にあった。
この距離で、顔を上げてはいけないと、心のどこかでわかっていたはずなのに。
「……陽乃」
「テルくん……」
互いの目が、合う。
この時ばかりは、瞬きなんてしていられるはずもなく。
生々しい温度が残る、互いの息が口元に当たる。
気づけば、互いの顔が瞳の中に映ってしまうほど、近く。
近くに────
「ワンワン‼︎‼︎ ワンッ‼︎‼︎‼︎‼︎」
「ッ‼︎⁉︎⁉︎」
「あー、こら! ちょっと待ってよ、たらこ〜!」
忘れてはいけないのは、この河川敷は住宅街に割と近いということ。
少し離れたところで、中学生ほどの女の子が犬を連れて散歩してる可能性を、夏の熱に浮かされた二人はすっかり失念していた。
冷水を頭から浴びせられたかの如く状況を察知した陽乃と輝樹。あたかも何事もなかったかのように、さっと彼らは距離を取る。
「…………」
ふと、視界に映る互いの呆けた顔。
「……っぷ、あはは!」
「く、ふふ……ははは」
そのキョトンとしている自分たちの表情がなんだかおかしくて、思わず吹き出してしまう。
「あー……笑った笑った。はあ」
声を出して笑うことがあまりない輝樹が呼吸を整え、落ち着きを取り戻す。
彼がそこまで長く笑うことは今まで見たことがなかったため、陽乃は新鮮に感じていた。
「……そういえば、ずっと俺たち立ちっぱなしだったよな。陽乃、ちょっと向こうで座らないか?」
「ふふ、はい」
陽乃を気遣った輝樹に連れられ、二人は河川敷の川の近くのベンチに腰掛ける。
花火の打ち上げもいつの間にか終わっており、流れる川の水の音と遠くで鳴く虫の音しか聞こえなくなっていた。
「……」
束の間の静寂。この静かな夏の夜の空間が、二人にとって今は心地が良かった。
「……その。マジでさっきはありがとう。俺の我儘、聞いてもらって」
「ううん、こっちこそ。私も、嬉しかった」
ふと、どこかぎこちなさが残る輝樹がその静けさを破る。
先程より落ち着いてきたものの、まだ身体の熱は冷めそうにない二人だった。
脳裏に浮かぶのは、先程の光景。あの近さと雰囲気を一度経験してしまうと、それが中々頭から離れてくれない。
少しの間が空いた後、輝樹が俯きながら先に尋ねた。
「……その、答えたくなかったら全然いいんだけどさ。陽乃にとって、こういうことって……どうなんだ、実際。あの……た、例えば。ハグ、とか……」
「……!」
輝樹も勿論、やたら無闇に陽乃に抱きつきたい訳ではない。
だが、今の身体の火照りを冷ますには、こう聞く以外に彼の中で方法が見つからなかった。
尻すぼみになる輝樹の声量であったが、距離のせいで全て聞こえてしまう陽乃。
そんな彼女も似たもの同士で、輝樹の顔を見られずに比較的小さな声で輝樹に考えを伝える。
「テルくんがやりたいことなら、どんなことも一緒にやってみたい。その。ハグでも、その先のことでも……」
「……ッ!」
その言葉に、思わず顔が動く輝樹。
先程すでに身体を寄せていたのか、向けた視線のすぐ先に、陽乃の顔があった。
暗いせいか、浴衣のせいか、それとも夏のせいなのか。
頬を染め、首元に汗を滲ませながら輝樹をじっと見つめる陽乃は、ひどく艶やかに見えた。
「うまく言えてるかわからないけど、私、私ね。誰よりも優しいあなたが好き。私がめいっぱい楽しめるように、すごく気を遣って一生懸命に考えてくれるあなたが好き。気が弱いとこも、根っこの芯がしっかりしてるところも、猫舌なところも目つきがかっこいいところも、そんなあなたの全部が好きなの。そんな私が大好きなテルくんがしたいことは、きっと、私もしたいことだから」
だからね、と陽乃は付け加える。
「だから、テルくんは何も我慢しなくて良いんだよ」
「……そ、っか……」
そう輝樹が呟くと、彼女の小さな手を握る指の力がわずかに強くなる。
「……陽乃。さっきは、上手くできなくてごめんな。……だから」
陽乃の左側に影が近づいた、と気づいた時には既に。
彼女の頬に、柔らかい感触が触れていた。
「……え」
「……そう言ってくれて、ありがとう。……その」
目を逸らしながら、口元を拭う輝樹。
「ちょっと、我慢出来なかった」
「……‼︎」
身に起きたあまりの出来事に思考が追いつかず、放心してしまう陽乃。
「あ、き、急にごめん! ほんとごめん! ああ、くそ、何やってんだ俺‼︎ だめだ、いくら何でも死にそう‼︎」
恥ずかしさが臨界に達したのか、思わず立ち上がる輝樹。
「あ、テルくん!」
そのままどこかへ行ってしまいそうな勢いな彼の手を掴む形で陽乃は輝樹を引き留める。
陽乃の容量が耐えきれなくなったからなのか。
貰ったものは同じぶんだけ返したくなる陽乃の性分なのか。
はたまた、これも夏の暑さのせいなのか。
気づいた時には、身体が自然と動いていた。
刹那、輝樹の唇に柔らかい熱が触れる。
「……これで、おあいこ。だね」
「…………、ぁ……」
唇に残る、自分の体温とは異なる温かさ。
この時、輝樹は今が冬でないことを心底悔んでいた。
母なる自然の力を借りでもしなければ、どうやって、この身体の熱を今すぐ逃がせばいいのか分からなかったから。
「「………………」」
そんな夏の妖精の悪戯も、数秒もあれば効果が切れてしまう。
輝樹は天を仰ぎ、陽乃は両手で顔を覆って動かなくなっていた。
お互いとても他人には見せられないような、すごい顔のまま固まっている二人。
そんな彼らを神は憐れに思ったのか、このタイミングでスマホの通知音が二台同時に鳴る。
「わ、わっ……! え……?」
「……あ。グループからか」
内容はスーパーで買ってきた花火を公園で一緒にやらないか、というものだった。
陽乃には美紋からも『邪魔しちゃってごめんね! 来れたらでいいからね!』とメッセージが同時に来ている。
「……ね。行く?」
「……行く、かぁ」
荷物を確認し、二人は河川敷を後にする。
「……」
隣を歩く輝樹の左手に、ほんの少し触れてみる陽乃。
目が合った時には、自然とお互いの手が重なっていた。
「……ふふ」
「……ん」
夜の風が、陽乃と輝樹の髪を撫でる。
絡み合う手とは逆に、二人の心にかかった霞はもう無くなっていたのだった。
『夏霞の融点』 完




