閑話 闇の胎動
《賢者の塔》三十階層――ユークたちが火傷の男と戦いを始める、少し前のこと。
石造りの遺跡が、まるで宇宙空間のような闇の中に浮かんでいた。無数の石の道が宙を漂い、あちこちが崩れ落ち、先は見えないままだ。
その不安定な空間に、赤いローブを身にまとった者たちが集っていた。彼らは石に刻まれた文字を読み取ったり、何かの装置を操作したりしている。
その中心に立つのは、一人の女だ。
「ちょっと! まだ終わらないのかしら?」
銀色の長い髪と紅蓮の瞳。切れ長の釣り目には妖しげな光が宿っている。胸元を強調する漆黒のドレスをまとい、ダンジョンの中でもひときわ艶やかな色香を放っていた。
「申し訳ありません、我が主よ。同志たちに急がせてはいるのですが、封印があまりにも厳重で……」
女の隣にいた赤いローブの男が、頭を下げながら言った。白髪で三十代ほどの男は、叱責されて顔から滝のように汗を流している。
「言い訳はいらないのよ! これなら、妾の娘が老木を乗っ取る方が早そうね……!」
女は嫌味な笑みを浮かべながら、男に視線を投げつけた。
「も、申し訳ありません……」
男はひたすら頭を下げ続ける。
そのときだった。
「……ぐっ! ううう……!」
突然、女が膝をつき、苦しげに胸元を押さえ始める。
「ど、どうされたのです、我が主よ!」
男が慌てて駆け寄り、女の背に手を添えた。
「……妾の可愛い娘が……殺された……!」
女は心臓のあたりを握りしめ、大量の脂汗を浮かべながら、苦悶の表情で言葉を絞り出す。
「な、なんと……!? “クイーン”が……!? 彼女には霊樹を侵食させるため、あなた様の魂を相当量注いだはず……! しかも、護衛にはあの男をつけていたのですぞ!? ヤツが敗れるなど……信じられん……!」
男の目が驚愕に見開かれる。
だが、そのとき――
「ぐあああああああっ!!」
「いやああああああああっ!!!」
突如として、周囲から悲鳴が上がった。
「な、なんだこれは……!?」
男が顔を上げると、目に映ったのは赤いローブの信奉者たちが、次々とモンスターに襲われ、殺されていく姿だった。
現れたのは、石でできた獣。そして、大人の倍近い身長を持つ人型のゴーレムたち――
「……塔が、本格的に元の機能を取り戻したようね」
女は唇を歪め、忌々しげに呟く。
「同志たちが……! くっ……。ガーディアンどもが動き出したということは、本当に“クイーン”が消滅したということか……!」
男は仲間の死を前に、怒りと悲しみに肩を震わせた。
その瞬間、二体のガーディアンが彼らに向かって突進してくる。
「ふんっ! その程度で!」
白髪の男が鞭を振ると、ガーディアンの頭部が砕け、そのまま崩れ落ちた。
「木偶ごときがぁ!」
女が力任せに腕を振ると、ガーディアンは吹き飛ばされ、粉々になる。
「む? これは……!」
「妾たちを異物と判断して、塔から強制的に追い出すつもりね……」
二人の足元に、転移の魔法陣が出現した。
「仕方がありません。種は仕込みました。あとはそれが芽吹くのを待ちましょう」
男が静かに言う。
「ぐっ! それしかないか……!」
女は忌々しげに周囲を睨みつけ、諦めたようにため息を吐く。
転移の光が二人を包み込み、それが消えたとき――そこには、誰もいなくなっていた。