第4話 絶景と修羅場の予感
僕は悩んでいた。
氷竜が吐く絶対零度の息のように凍り付いた関係性のままで屈強なモンスターに遭遇してしまったら、共倒れになること間違いないからだ。
「やっぱり……するべきか、それとも……」
数歩先の地面に視線を固定し、ああでもないこうでもないと独り言をつぶやきながら歩いていると、突然何かにぶつかった。
「えっ!」
まさか……モンスターの接近に気が付かなかった?
恐る恐る視線を跳ね上げると……日光を浴びてキラキラと輝く紅髪が視界を覆った。それと柑橘系の良い香りがする。
「ごっ、ごっ、ごめんなさ――い」
僕はアメリアさんにぶつかってしまったようだ。
気難しいエルフの復讐はさぞ恐ろしいものに違いない。僕はとりみだしながら大声で謝罪した。しかし、返答どころか、何のリアクションも返ってこない。微動だにしない今のアメリアさんは、胸の前で両手を握り、前方をじっと見つめる石像のようだ。
「アメリアさん?」
「きれい……」
「きれい?」
どういうことだろう、と思いながらアメリアさんの視線の先に目を向ける。そこでようやく気が付いた。
今、僕たちは樹海の出口にいて、視界の先には楽園のような光景が広がっていることに。
「セレニア湖……」
以前、村に滞在していた旅人から教えてもらった湖の名前をつぶやいた。天使の水浴び場とも呼ばれているらしい。
見た者を感動させるエメラルドグリーン。さんさんと降り注ぐ太陽の光を受けて、宝石のように湖面がきらめいている。湖底まで見通せるほど透明度が高く、水中にはピンク、ブルー、イエローなど鮮やかな色をした魚たちが、心地よさそうにサンゴ礁を泳いでいる。心を驚かせるのは、岸辺に広がる純白の砂浜。
まさに、天使の水浴び場だ。本当に天使が泳いでそう。
僕はただただ言葉を忘れて、見入ってしまった。
アメリアさんも湖の美しさに感動しているようだ。視線が釘付けになっている。ぶつかったことに無反応だったのも、今思えば当然のことだ。このような美しい景色の前では、全てが些事に過ぎないからだ。
……そうだと思う、いやそうであって欲しい。不安になってきた。
「きれい……エルフ原始林にある聖泉みたい」
とにかく今のアメリアさんは心を躍らせている。
そして事件は起こった。
「あそこで、いっしょに水浴びをしましょう。お母……さ……ん」
アメリアさんは突如後ろを振り返り、小さく柔らかい両手で、僕の左手を握った。
「えっ! 水浴び!?」
衝撃的な言動に、僕はきっと目が点になっているだろう。無意識のうちにアメリアさんの水浴び姿を頭の中でイメージしてしまった。心臓の鼓動がおかしい。
「あの、その、これは……」
今度はアメリアさんの目が点になった。
「いっしょに水浴び……お母さん」
そうか、アメリアさんの頭は美しい景色に感極まって誤作動を起こしてしまったのだ。母親と共に旅行にでも来ている気分になってしまったのだ。
一体どうすればこの場を収拾できるのか。今世紀最大の危機に、僕は頭をフル回転させた。だが、打開策など思いつく訳がない。
「これはその……気分が高揚して、まっ、間違えちゃったのよ。もう、忘れなさい!」
エルフ特有の長い耳をピンと張り、顔を紅潮させてぷんすかと怒るアメリア。普段の僕への棘のある態度とは大違いだ。今まで彼女のことを、近所に住む怖くて理不尽なお姉さんと思っていた。だが今の彼女を表現するなら、どこか抜けている天然お姉さん、が相応しいだろう。
普段とのギャップに、笑いが込み上げてくる。
「忘れられるように、アハハ、努力します」
僕は唇をかみしめ必死に笑いをこらえながら言った。いや正確には、こらえようとした。結局、途中で盛大に吹き出すハメになった。
「笑わないで!」
僕の様子を見たアメリアは大きく目を見開き、既にリンゴのように紅かった顔を更に紅く染めた。
「わ、わかりましたよ」
言葉ではそう言ったが、どうすれば今この瞬間もあふれ続ける笑いをおさえられるのか分からない。どうやら笑いのツボにジャストヒットしてしまったようだ。
「ぐぬぬぬぬ!」
アメリアさんの表情は更に紅く、険しくなり、その一方で僕の目の端には笑い過ぎて涙が浮かんだ。
「ぐぬぬぬぬぬぬぬぬ! 一生の恥。こうなったらこの剣と魔法の力で……を消し去るしかない」
アメリアさんは腰に装着していた剣を抜刀した。その瞬間、『エルフはプライド高いから、絶対に、恥ずかしい思いだけはさせるなよ、絶対に! ヤバいから!』という遊び仲間の格言が頭の中で反芻された。
そして僕が死を覚悟した瞬間……。
「誰か! 助けて!」
「誰か――」
湖に沿うように造られた道の奥からただならない叫び声が聞こえた。
この時はまだ知らなかった。ドラゴンの巣作りが引き起こした大乱闘の末に何が残るのかを。僕は底知れない恐怖を再び味わうことになることを。