2.虎人と咲
魔法っていうのは空想上のものだって思っていた。
そう、3年前のあの事件が起こるまでは。
空が裂けたあの夏の日、世界は異世界と繋がった。
機械文明が進むこの世界と、魔法の発達した世界とが繋がってしまった。
当時中学1年生であった咲でさえも、世界は大きく変わると思っていた。
魔法世界と繋がって、2つの世界は交流を持つようになった。
だからといって、世界は大きく変わる様子は無かった。
3年が経った今現在でも咲は魔法を見たことが無かったし、魔法の世界へ行ったという人間に会ったことも無かった。
この世界は変わらず機械が中心のままなのだ。
◇◇◇◇
「2つの世界ではなく、正確には4つの世界ですね」
昼休みの屋上。咲は知世と2人でお弁当を食べながら魔法の世界の話をしていた。
知世の話では、世界が裂けた日、繋がった世界は魔法の発達した世界だけではなく、魔物と呼ばれる異形の者達が住む「魔界」、自ら聖なる神の使いと称する聖神と呼ばれる種族が住む「聖神界」を合わせた計4つの世界が繋がったとのことらしい。
「知世、詳しいね。もしかして、魔法使いと会ったことあるとか?」
「魔法使いって……」
知世は多少困った素振りを見せつつも言葉を続けた。
「簡単な魔法なら、私にも使えますよ」
そういって知世は両腕を振り上げる。振り上げた両手の先辺りから花びらが舞い始める。
「すごい」
素直に感嘆の声を上げてしまった。
「もしかして、これもお嬢様としての嗜みですか?」
知世は笑いながらも否定した。
その時、花びら舞う校舎の屋上に昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響く。
「さぁ、午後の授業が始まりますよ。教室へ戻りましょうか」
知世の言葉遣いが砕けた物から丁寧な物へと変化していく。咲と知世は二人の時はお互い砕けた物言いをするが、クラスメートの前等では丁寧な言葉遣いを遣うようにしていた。
それは、どちらが言い出したことでもなく自然とそうなっていた。
◇◇◇◇
授業が終わり、高校の帰り道を咲は1人歩いていた。
知世もたまに一緒に歩いて帰ることもあった。しかし、御稽古事やらと何やらと用事があり、自由な時間は殆んど無いようで、一緒に帰れることの方が少なかった。
いつもの帰り道、馴れた道の筈が何か違和感を覚えた。そう、周りの人たちが妙に騒がしいのだ。
ふと、前を歩いている人たちが二手に分かれ真ん中に道が出来た。
その中央を虎の頭を持った異形の者が歩いてくる。白い毛を持つその虎は人間と同じように二足歩行をしていた。
咲も関わりにならぬよう他の人たちと同じように道を空けた。虎は咲の前で止まると咲の方を向いた。
咲に顔を近づけ、咲の匂いを嗅ぐ。
虎の口から鋭い牙が見えたとき、咲は心臓が止まるかと思う程に恐怖に駆られていた。
咲の目の前に虎の顔が在った。簡単に噛み付けるであろう距離。
しかし恐怖心の為か、金縛りにあったように動くことが出来ずにいた。
全身に嫌な汗が噴出すのが分かった。
「お前から、虎の匂いがする。虎姫の知り合いか?」
虎が咲の分かる言葉で呟いた。
しかし、咲には考えなくても虎の知り合いなどいなかった。
首を横に振ろうにも、恐怖でその動作すらすことが儘ならなかった。
虎の太い腕が咲の背中に回された。そのまま脇にかかえるように咲の体を持ち上げた。虎は咲を抱えたまま、その場で跳躍した。みるみるうちに地面が遠くなり、屋根の上に到着する。
虎は咲を抱えたまま、建物の屋根の上を跳躍して移動した。
◇◇◇◇
ここは何処なのだろうか?
虎にさらわれた咲はどこかの廃墟と化した建物の一室に連れてこられていた。
咲は部屋の扉から一番遠い壁に座っていた。
部屋には窓は無く、唯一の出入り口である扉の前には虎が立っていた。
虎との距離を一定以上取っているせいか、先程よりは落ち着いて物事を見ることが出来ていた。
虎の頭を持つものは人間と同じように服を着ていた。腕も足も筋肉がしっかりと付いていて、人間で例えるなら筋肉質な体系だった。服からむき出しとなった腕は顔と同じく白い毛で覆われていて、黒い模様が虎であると象徴していた。
虎は扉の前に陣取ったまま動こうとしなかった。恐らくは、咲が逃げ出さないように見張っているのだろう。
「何が目的ですか?」
沈黙に耐えかね、咲が声を発した。
虎は咲を凝視すると、一呼吸置いてから言葉を発した。
「虎姫について教えろ」
咲を誘拐してくる前とは違い、疑問形ではなく命令形で虎は言った。
「虎姫……。私には虎の知り合いなんていません」
咲の返答に虎は目を細めて咲を睨んだ。
再度、知らないと言う咲の言葉も虎には納得のいく答えではなかったようである。
「そもそも、あなたは何者ですか?」
「俺の名は彩羽。虎姫をぶち倒して、村の爺たちに俺を認めさせるために、こんな世界にまで来たんだ」
彩羽と名乗った虎は咲を指差すと言葉を続けた。
「やっと、手掛かりを見つけたんだ。そう簡単には諦めないぜ!」
手掛かりとは恐らく、虎の匂いというやつだろう。しかしながら、咲には全くもって心当たりは無かった。
◇◇◇◇
数時間、廃部屋に監禁状態で置かれたまま、咲は彩羽の身の上話を聞かされていた。
咲たちの住むこの世界に獣人族などいない。その為に虎の顔を持つ彩羽は、歩いているだけで幾度と無く警察に連行されたのだという。
当然、何かの罪状がある訳はなく、警察に連れて行かれてもすぐに釈放される。
咲と会った際も、周りの群集に警察を呼ばれそうな雰囲気だったので咲を連れ去ったのだという。せっかくの虎姫の手掛かりを失いたくなかったのが理由だ。
「そもそも、虎姫ってどんな方なんですか?」
「森の奥地に住む、葉虎族という緑の毛並みを持った虎の種族の長で、規格外の強さを持つと称される女だ」
部屋の端っこと扉。2人の位置は数時間変わることなく保たれていた。しかし、彩羽の方から咲に歩みよる。
「これ以上、話してても虎姫の情報は出てこなさそうだな」
咲はやっと諦めてくれたのだと安堵した。
◇◇◇◇
翌日、咲は登校してからも最悪な気分に打ちのめされていた。長い監禁から開放して貰えると安堵した矢先、彩羽の行動は咲の予想を遥かに超えるものだった。
咲に近づいてきた彩羽は、咲の前でズボンを下ろしたのだった。そして、あろう事か咲に向かって放尿を開始したのだった。
彩羽は用を達し終わると、満足したかの様にその場を立ち去っていった。
その場に残された咲は、強い異臭のする液体を頭からかけられ、放心していた。
帰ってから何度もシャワーで体を洗い流し、自分で気にならない程度まで匂いは落ちたが、それでもまだ異臭がするような気がしていた。香水をつけることで匂い自体は隠せていたが、昨日、自分の身に起きた現実が咲の気分に影を落とさせていた。
「おはようございます」
声を掛けられ、顔を上げるとそこには登校してきた知世の姿があった。
「顔色が優れないようですが、何かありましたか?」
知世が丁寧モードで聞いて来るが、まさか虎男にオシッコを掛けられたとも言えよう筈も無く、適当に誤魔化すことしか出来なかった。
「何事も無ければそれでいいのですが、困ったことがあれば気軽に相談して下さいね」
知世は微笑んだ。
教室内、他のクラスメートがいることで知世の口調は何処と無く他人行儀に聞こえるが、それでも心配してくれていることが、ひしひしと伝ってきた。
「それはそうと、本日はご一緒に下校してもよろしいでしょうか?」
知世の誘いに咲が了承の意を示すと、そろそろ時間なのでと二人は自分の席へと着席した。
◇◇◇◇
放課後の帰り道、咲は約束通り知世と歩いて帰っていた。
「知世、今日も予定があるんじゃなかったの?」
「それは、キャンセルしました」
そう言って知世は微笑を浮かべる。
咲は今日1日、知世に違和感を覚えていた。咲に対して、いつもより距離を置いているような気がした。
しかし普段は予定をキャンセルしてまで、咲と一緒に帰ったりはしなかった。
「知世、今日なんか変じゃない?」
幾ら考えてみても答えが出なかったので率直に質問を投げかけた。
「その質問、私が朝した質問そっくりね。もし、咲がテンションの低い理由を教えてくれたら、私も答えてあげるよ」
知世ついて道を歩いていると、人通りの少ない路地へと出てきていた。帰り道から大きく外れた道だったが、そんな所に用があるとも思えなかった。
しかし、知世は自信満々に歩を進めていく。普段、車で通学しているからといって、知世に土地勘が無い訳ではなく、方向音痴でもなかった。それは、数少ない知世との下校の機会で知っていた。
「何処に向かってるの?」
「何処かしら?」
質問に質問を返してくる。
「やっぱり、どこか変だよ」
そう言われて困った表情を浮かべる。2人の会話に割り込むかの様に上空から2人の前に何かが振ってくる。その何かは目の前で立ち上がると2人と向かい合った。
その姿を見て、咲は顔が青ざめる。それは紛れもなく昨日の虎男、彩羽だった。
ふと、体が知世に抱き寄せられる。目の前の人型の虎から咲を守るように、しっかりと咲の体を抱いていた。
その顔は笑みを絶やさない普段の知世の顔ではなく、虎男を睨みつけていた。
「貴方かしら? 私の親友にマーキングとかしてくれたのは!」
口調はやさしいが、普段の知世からは想像出来ないほど凄みがあった。
「マーキング?」
小声で知世に聞く。
「あの、えぇーと……」
知世の目が泳ぐ。そして、赤面しながら言葉を続ける。
「オシッコかけられなかった」
その言葉を聞いて咲まで恥ずかしさで顔が赤くなるのが分かる。
「そいつにマーキングしていて正解だったぜ。虎姫が釣れたんだからな」
2人の会話に割って入るように彩羽は知世を指で指した。
知世が虎姫。彩羽はそう示しているが、彩羽の話しで聞く虎姫と、咲が知る知世とでは、どうしてもイメージに違いが有り過ぎた。
しかし、知世の反応は別人ではなく同一人物であることを肯定していた。
「咲、危ないから後ろに下がっていて貰えるかしら」
そう言うと知世は咲を抱いていた腕の力を緩めた。そのときの表情は悲しげでいて、泣きそうな顔に見えた。
しかし改めて見直すと、その表情は消えていて、彩羽を睨む険しい表情をしていた。
咲が知世から離れたのが合図になったのだろうか、彩羽が咲の視界から消えた。
咲の動体視力では捕らえられないスピードで知世に近づくと、その太い足で知世の体を蹴飛ばした。
知世の体は弾かれるまま体を飛ばし、背後にあったコンクリートの壁にめり込んだのだった。
「知世!!」
咲は思わず悲鳴に近い叫び声を上げていた。知世が叩きつけられた壁からは砂埃が舞い上がり、知世の体を覆い隠していた。
「出来れば、こっちの世界ではおとなしくして置きたかったのですけれど……」
砂埃の中から知世の声が響く。砂埃が収まり、知世の姿が少しずつ確認出来るようになる。崩れたコンクリートの中に前かがみで構える知世。その目は肉食獣が獲物を狙うように細められ、その目は怪しく緑色に輝いていた。
「貴方が噂に聞く《爪無しの白い風》でしょうか?」
その言葉を聞いた彩羽の眉間が微妙に動く。
「お前ほどの英雄様でも俺のこと知ってるんだな」
「白い毛を持つ獣人族の一族の中に、虎の一族の誇りである爪を授からずに生まれてきた戦士がいるとお聞きしています」
「緑の毛を持つ獣尾族の姫っ子よ。お前は爪どころかその姿さえも捨てたんだろ」
咲は2人の会話の最中に知世の目の中に悲しい色が混ざっているのを見た気がした。
「私にはこれがあります」
そう言って知世は両手を見せる。右手の甲には篭手が、左の手には手袋がはめられていた。
その両方に刃物で出来た爪が付けられていた。
「確かに私には虎の姿も誇りである爪もありませんが、それでも貴方には負けません」
知世はそう言ってその場で地面を蹴る。
彩羽以上のスピードで真っ直ぐ突き進み、彩羽のわき腹を切り裂く。すれ違った先でもう一度地面を蹴り、反転すると、今度は彩羽の肩を切り裂く。再度、地を蹴り彩羽に向かう。
今度は彩羽が知世にタイミングを合わせて拳を繰り出す。拳を当てられた知世の体は後ろに物凄いスピードで飛ばされる。
地面に落下した知世は何事も無かったように起き上がる。
「虎姫は頭の良い戦士だと聞いていたが、戦い方は直線的で単純なものなんだな」
知世の体が再び低く構えられる。飛び出す為に体を縮め、バネを貯める。縮められた体が伸び、今までで一番加速をつけ、知世の体が発射される。
「そんな単純な動き簡単に……」
彩羽の言葉が途切れた瞬間、知世の足が更に強く地面を蹴り、さらなる加速をみせる。
一瞬の出来事。
地面から蔦が伸び、彩羽の足に絡みつく。その瞬間に知世の体が視界から完全に消える。知世が彩羽の後ろに現れたときには、彩羽は体に無数の切り傷を付けられ大量の血を噴出していた。
そのまま、後ろに倒れ動かなくなる。
「そういう貴方は思考力が高くないようですね」
振り返った知世の目は緑色の発光が収まり、普通の茶色の眼球に戻っていく。
「眼光の発光現象は、魔力の高まりによって起こる現象。相手の眼光が光っているなら魔法にも気を配るべきです」
そして、知世が先の方を向いたときにはいつもの笑顔に戻っていた。
「咲、怪我はありませんでしたか?」
咲は知世に返す言葉を探し、見つけることが出来ずに無言で立ち尽くしていた。