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気がつけば空は茜色を帯びるような時間になっていた。そんなに移動したわけじゃないのに、ひどく疲れた。ため息をつきながら、私はレテと真里亞と一緒に跨線橋の上から構内を見下ろした。ちょうど今到着した電車から、帰宅途中の人々が疲れたような表情で降りていた。手摺の上に昇っているレテはごろごろと喉を鳴らす。眠いのかな、なんて頭を撫でようとするが、触ることすら出来ずに私の掌はレテの身体をすり抜けた。
「ARによる擬似ホログラムだから、触れないよ」どこか慰めるような声色で、真里亞は言った。
「昨日までは撫でられてた」
「そういう風に錯覚するよう設定してたからね。 レテが死んだことを再認識したことで、その辺の補正を電脳がしてくれなくなったんだ」
「じゃあ、今朝レテが餌を残していたのは」
「拡張現実を生きるレテに食料なんて必要ない」
「……今までは残さずに食べてたのに?」
「実は沙凪がレテが生きていると思わせるために私は色々な演出をしてたんだ。例えば餌を定期的に捨てたり、とか」
家事を行ってるのは基本的に真里亞だ。皿洗いや風呂掃除くらいはするものの、大部分は真里亞が取り仕切っている。だから、ゴミ袋の中身なんて我が家では真里亞くらいしか知らない。例え、ゴミ袋の中に大量の猫の餌が捨てられてたとしても、私は把握出来なかった。
「あの機械でこんなこともできるんだね」
「そうだね。 君には『記憶を消すための機械』なんて大雑把な説明をしたけど、実際の用途はそれだけじゃない。 いや、さらに言えばメインの用途はもっと別のところにある」
「……記憶のデータ化ってやつ?」
「……よくわかったね」
「一応、資料としてそういうのは調べたりするしね。 ただの推測だけど」
現代では所謂「電脳化技術」が急速に発展してきている。
と言っても、今のところは一部の金持ちが頭にチップを植え付けて身分証明を円滑にする程度のものでしかないが。
「脳のデータ化」はその分野において、今のところの大きな命題として存在していることは、科学雑誌の何かで見たことがある。そして、それに関する研究で真里亞が大きな功績を挙げたことも、私はうっすらと知っていた。
「記憶をデータに変換してコンピュータ上にコピーをする。
それを可能にするのがあの機械なんだよ」
「陳腐なSFっぽい」
「そうは言うけど、専門用語を使っても沙凪はちんぷんかんぷんでしょ?」 便乗するかのように、レテがにゃあと鳴いた。こいつら、こぞって私を馬鹿にしているのだ。私は少しムッとすると、真里亞が呆れたように笑った。
「コンピュータ上に転写した記憶のデータを任意に消去したり、追加したり出来る。 最もまだまだ試作段階で、安全性は保証できてないんだけどね」
「そんなのを私に使ったの?」私は顔を歪ませた。真里亞は非常に申し訳なさそうに、俯く。
「一度だけ、ほとんど賭けみたいなものだった。 ああでもしないと、すぐに死んじゃいそうで」
本当にごめん、と真里亞は絞り出すように謝罪した。
「謝んなくたっていいって。 私のためを思ってやってくれたって言うのは知ってるから。少し意地悪を言ってみたくなっただけ」 普段、イヤミを言われるのは私ばっかりだったし、と私ははにかんだ。
「レテは、消えちゃうの?」私はなんでもないように聞いた。真里亞をこれ以上、凹ませたくないから。
「沙凪がレテの存在を否認した以上、そう長くは存在できない。 今のレテは沙凪の記憶の中で生きているから、死んでいるという沙凪の記憶と矛盾してしまう。 だから、きっともうすぐ消えてしまうと思う」真里亞はとても沈痛な表情を浮かべた。私はその表情の真意を既に理解していた。正確に言えば、思い出していた。
「そっか」私はレテの頭に手を翳し、撫でてあげた。実際は虚空を撫でているだけだが、レテは目を細めながら本当に撫でられているかのような仕草をしてくれた。
「真里亞、私、思い出したよ」
「……一応、聞いとくね。 何を思い出したの?」
「昨日の、3月23日の記憶」
沈黙が私たちを支配した。それ以上、続ければきっと今の現実を自分の手でぶち壊すことになるのだろう。そんなの嫌だ。でも、そうしなければならない。
「私が消した記憶は、昨日あった出来事すべて。 思えば不自然なことは沢山あった。 私の誕生日は昨日なのに、なんでか真里亞は今朝、祝ってくれた。 そして私はなんの違和感もなくそれを受け入れた」
「……」
「そのくせ、私が真里亞に日にちを聞いたときは24日だと答えた。あれ、わざとでしょ?」
「……さぁね」
「あからさまなヒントはそこら中に散らばってた。『喫茶店エヴェイユ』なんて今思えば露骨すぎる。数年ぶりに来店したと私は思っていたけど、実際は違う。 昨日、あの店に行ってたんだ」
恐らく、私は昨日あの店で今日と同じようなメニューを頼んだ。そして、マスターが私の顔を覚えていたことに感銘して、やはり今日と同じような台詞を吐いたのだ。
―――― ホットケーキはいつものように生クリーム抜きでよろしかったでしょうか?
――――えっ、覚えててくれたんですか?
本当に数年ぶりに来た客がこの台詞を言うのならばともかく、連日来店してきた客がああ言えば、当然マスターも怪訝な顔をするだろう。
「昨日、私は確か真里亞に呼び出されたんだ。 メッセージで『たまには外に出ろ』って、店の位置情報と一緒に」
真里亞の帰宅時間までそこで時間を潰せっていうことだと判断した私は、店でホットケーキを食べた。そして、真里亞から連絡を待った。 ゴーンゴーン、という重苦しい時計の音を何度も聞くほどに。
「結局、真里亞は来なかった。 だから、私は自分の足で駅まで向かうことにしたんだ」
駅には今みたいに帰宅する人たちが沢山居た。若干、対人恐怖症になっていた私は少し震えながらも、真里亞が帰ってくるまで改札口の近くのベンチでじっと待った。でも、一向に真里亞がやってくることはなかった。
「今日、いちばん不自然だったものがあるんだ」
「……それは?」そう尋ねる真里亞は、私がなんて答えるかなんてきっと理解っている。
「入店が遅れたり、瞬間移動みたいな登場の仕方をしたり、レテの餌を捨ててなかったり、真里亞の行動にこそ、今日いちばん不自然な点が多かった」
「…………」
「真里亞、あなたは後どれくらい私と過ごせるの?」
「私には、わからないよ。 沙凪」真里亞の頬に一筋の涙が伝っていった。夕日を背にして涙を流す真里亞の姿は、どこか神秘的なものに見えた。
「私が矛盾に気づかなければ、ずっと一緒に居られたの? ねぇ、真里亞」
「それはダメだよ。 ダメだから、私は君の記憶の中に生まれたんだ」
私は何も言わずに真里亞の頬を触ろうとする。やはり、私の手は彼女を捉えずに、空を切った。
「私に記憶を消すように仕向けたのも、そしてあなたが生まれるように設定したのも、真里亞なんでしょ?」
「……そうだよ」
真里亞は結局帰ってこなかった。 仕方なく帰宅した私を待っていたのは、数人の警察官だった。そこからの記憶は思い出したが、思い出したくない。 色んな確認をされ、警察たちは真里亞の家から去っていった。
真里亞はもう一生帰ってこない、そんな事実を伝えられた私はただ呆然と元の生活に戻った。悲しむということすら、その時の私は出来なかったのだ。
テレビをつければ、真里亞の顔写真とその業績が無表情のキャスターによって紹介されていた。そして、「お悔やみ申し上げます」という台詞と共に、くだらない芸能人のスキャンダルの話に移行する。世間からすれば、一人の人間が死んだことと俳優が不倫していたというスキャンダルは等価なのだろう。私は堪らずにテレビの電源を消して、部屋に閉じこもった。
何時間くらい、布団に閉じこもっていただろうか。もう死んでしまおう、そう思った瞬間、私の携帯電話が揺れた。誰からだろうと、通知画面を開く。
真里亞、という三文字が目に入った瞬間、私は飛び上がった。死んだはずの真里亞からメッセージが来ていたのだ。もしかしたら、今日起きたことは趣味の悪いサプライズか何かだったのかもしれない。だとしたら思いっきり怒鳴りつけてやらなければ、そんな期待じみた怒りはあっさりと裏切られた。
結論から言えば、真里亞から送られてきたメッセージはネタばらしなんかじゃなく、私宛の遺書だった。まず、先に死んでしまったことの謝罪、そしてこれからのこと、真里亞の意向によって今住んでいる家と財産は私に相続するようにしていると、家は売ってしまっていいということ、葬式は恐らく父がしてくれるので気にしないでいいということ、出来れば私の両親と和解して欲しいこと。そんなことが書き連ねられていた。
そして、最後の方に注意書きが書かれていた。あの機械は絶対に使うな、という短文。それのすぐ下には、なぜか使用する時の手順が素人でもわかるように書かれていた。フリかよ、と思わず笑ってしまったのを覚えている。
それからしばらくは、とにかく泣いた。泣いて泣いて泣いて、涙が流れなくなった後に、真里亞の部屋に向かった。件の機械を使用するためだ。どうせ、死のうと思ってるのだから、とりあえず試してみよう。そんな後ろ向きな気持ちで私は教えられた手順で設定をして、頭に器具を取り付けた。
そして目が覚め、真里亞の部屋を出て、そして居間で真里亞といつも通りに対面したのだ。なんてことのない日常みたいに、それが本当は掛け替えの無いものであるということを忘れて。
「なんで、真里亞はそんなことをしたんだろう」
「さぁ、私にもはっきりとはわからないよ」真里亞は本当にわからないというような声色で、そう言った。
「真里亞なのに?」
「私は正確には龍宮 真里亞本人じゃないんだ。 真里亞が事前に組んでいた自身を元にしたAIに、君の記憶が合わさって形成された、仮想人格。 だから、死ぬ寸前に真里亞が何を考えていたかまでは知らない」
「でもあの遺書は、死ぬずっと前に書かれたものでしょ」
「……」
「仮想人格さんでも、嘘はつくのね」
「……私は、真里亞はずっと罪悪感を抱きながら沙凪と過ごしていた。 沙凪の記憶を勝手にいじくって、自分とずっと過ごすように、仕向けたことに対して」
「でもそれは私のためでしょ」
「ううん、違うよ。 あれは、沙凪を消すなんて愚行は完全に自分勝手な動機で行われたものだ。怖かったんだ、親友を亡くすのが」
「……」
「沙凪のためと言うのなら、嫌われることを恐れずに、もっと対話を試みるべきだった。 ぶつかることを恐れて、閉じこもっている沙凪に真摯に向き合うことから逃げていた。そうして、最終的には沙凪の記憶を消すなんて言う安易な方法に縋ったんだ、真里亞は」
その結果、私の方が先に死ぬなんて、本当にお笑い草だよね。真里亞はそう、自嘲した。
「いつか、その時が来たら沙凪の記憶をサルベージしよう。そう思い続けて何年も過ごしたけど、どうしても勇気は出なかった。 もし、また心を閉ざしてしまったらどうしよう、もし自ら命を絶つようなことになったら、私はどうすればいい? そんな臆病な気持ちに打ち勝つことはついぞ出来なかった。
だから、せめてもの償いとして、私が死んだ場合の保険を作ったんだ」
「……」
何も言えなかった。私のせいで、真里亞がそんなにも思い詰めていたなんて、全く知らなかった。知ろうとしなかった。私はずっと自分のことばかりだったから、私が自分の命を軽んじていることに、真里亞がどれだけ心を痛めていたかなんて、知れるはずもなかったのだ。私こそ自分勝手そのものだ。
「ごめんね、真里亞」
「こっちのセリフだよ、沙凪」
ははは、と虚しく笑い合う。今更謝っても、どうしようもないから。
「……沙凪、今も死にたい?」パンドラの箱を開くかのように、恐る恐る真里亞は私にそう尋ねた。
「めちゃくちゃ死にたい」
「……そっか、そうだよね」 ごめん、と真里亞は俯いた。私は真里亞をじっと見つめた。本当にそこに居るみたいだ。本当に、そこに存在してくれていたのならどんなに幸せだっただろう。
私は空を見た。茜差す空はとても穏やかで、暖かさを内包しているように見えた。私は頬を流れ続ける涙を一度、拭って真里亞の顔をじっと見つめた。
「でも、死なない。 絶対に」私のその言葉に、真里亞は目を見開いた。
「ここで死んだら、私めちゃくちゃ自分勝手なやつじゃん。それこそ、救いようのないクズだよ、クズ」
「……」
「私は私の事、そんなに大切に思えないけど。 私の命よりも大事な親友が、私のことをそれだけ大切に思ってくれてたんなら、私も大切にしないと。
それが道理でしょ?」
「本当に…?」
「本当だって。 それこそ、死ぬまで大事にするって誓うよ?」
「あはは、何それ……」真里亞は自分の涙を指で拭いながら、呆れたように笑った。私も、可笑しくなってくつくつと笑ってしまう。
「だからさ、もう申し訳ないなんて思わなくていいよ。 私はもうきっと、大丈夫だから」
「…うん」
「真里亞が居なくても、私はずっと真里亞のことを忘れない。 おばさんになっても、おばあちゃんになっても、絶対に忘却したりなんかしない。 真里亞は辛い思い出なんかじゃなくて、大切な親友だから。……あっ、レテも勿論絶対忘れないよ?」にゃあ、ともう一人の同居人が文句をつけてきたので注釈を入れる。最後まで空気を読まない飼い猫だ。
「ふふっ……うん」
「コンピュータを使わなくても、絶対に忘れたりなんかしない。 一生、忘れてなんかやるもんか。 どれだけ時間が経って、脳の海馬が衰えても、絶対に真里亞と、レテのことは脳に刻み続けてやる」
「うん…」
「老人ホームに入っても、真里亞とレテの思い出をずっと語ってやるんだ。 迷惑ボケババア扱いされても、ずっと自慢してやる。 どれだけボケても、どれだけ自分を喪っても、この六年間の記憶だけは絶対に忘れてやるもんか」
相槌が、消えた。でも、構わない。
「もう一生、真里亞の声をきけなくても、もう一生、真里亞の顔を見ることが出来なくても、絶対に忘れない。 本当に…本当にっ…わすれ…忘れな、い」
さっきと比べ物にならないくらい、涙が溢れ出す。でも、構わない。私はそれから一人でずっと、一人と一匹の記憶を焼き付けるために、ずっと誓いを空に向かって叫んだ。
シナプスを震えさせるように、ランドマークを脳に建てるように、ずっとずっと、叫び続けた。




